中爺通信

酒と音楽をこよなく愛します。

宝泉寺3

2008-10-19 21:10:50 | 山形
 「故郷の 地図をば眺め、 つくづくと 燈の下に 泣く夜もありけり」

 さて、上山の宝泉寺の隣の家で生まれた斎藤茂吉は、相当な秀才だったようで、上山で小学校を卒業すると(本当の「首席」だったようです)、東京の開成中学へと進学します。やはり医者になるぐらいだから、詩のセンスだけではなくて頭が良かったんですね。

 開成を出たらもちろん東大へ。しかも医学部。完璧なコースですね。しかも「青山脳病院」を設立した、上山出身の斎藤紀一氏の娘の婿養子になるのです。実は、茂吉の旧姓は「守谷」で、婿養子に入って「斎藤」になったわけですね。そして、青山脳病院を継ぐことになります。

 完璧過ぎる社会的成功者への道ですよね。芸術家とは思えません…。歴史的には、和歌は芸術とは言っても身分の高い人がたしなむものでしたから、不思議な事ではないのかも知れませんが。

 そして、和歌の分野でも早くから成功します。東大を出て、東大の附属病院に勤務している間に、あの有名な第一の歌集「赤光」を出版します。32歳の時です。

 これがまた大ヒット…。芥川竜之介もベタ褒めです。

 「僕の詩歌に対する眼は他の誰の世話になったものでもない。斎藤茂吉に開けてもらったのである。『赤光』を読まなかったとすれば、僕は未だにミミズクのように、大いなる詩歌の日の光をかいま見ることさえ出来なかったであろう。」

 持ってる人は何でも持ってるんだね…と、ひがんでみる前に冒頭の歌をもう一度見てみます。「故郷の地図を見て泣く」のはどうしてなんでしょう?ポーズや創作でしょうか?続きはまた今度考えてみます。

 (写真は山頂でゆで卵をむく茂吉先生です。ちょっとかわいいですね)

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2 コメント

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茂吉 (balaine)
2008-10-22 02:13:04
当時の上山で貧しい家の三男ですから、尋常小学校を出たらどこか大店に奉公するとか寺に入るとかいうのが一般的でしょう。
親戚の齋藤家は東京で医師をしていて裕福で跡取りを求めて、秀才の誉れ高くも経済的に高等の学校に進めない三男坊の茂吉は「もらわれて」行ったのだと思います。最初から齋藤家の娘輝子と結婚して婿養子になるという線は計画されていた事だと思います。
齋藤家で経済的な心配なく勉学に励んで開成中学、東大へと進めたのだと思います。齋藤家の跡取り婿養子としては、当然のように医師になる事を求められたのでしょうが、本人が医師になりたかったかどうかは疑問ですね。
先日なにかのTV番組で長男の齋藤茂太さんをみかけましたが、かなり高齢でよぼよぼとしていらっしゃいました。
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>balaineさん (中爺)
2008-10-23 22:45:10
 ありがとうございます。さすがによくご存知ですね。

 斎藤紀一氏は他にも上山出身の力士を援助したり、上山の川に橋をかけたりなど、故郷のために力を尽くしたようですね。代議士になるためだったとも言われてますが、私財でそういう事をするのですから、やはり立派ですよね。
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