中爺通信

酒と音楽をこよなく愛します。

裕福

2008-09-29 23:58:23 | お酒の話し(山形県)
 最近「疲れているはずなのに、そうでもないな」と不思議に思ってました。「何が体に良かったのかな?嫌いなゴーヤを無理して食べたからかな?」などと考えたりしていましたが、ようやくわかりました。夏が終わって涼しくなったからです。

 年々、歳をとるにしたがって、夏の暑さがこたえるようになってきていたんですね。暑いさなかには気付かないものですが、秋になってみてわかりました。うちの子供達は風邪気味ですが…。

 ところで先日、素晴らしいものを頂きました。ビール券でございます。しかもこんなに!

 いや、金額的にはたいしたことないんですが、遣い道が酒に限定されているのがいいんです。「仕方ないなぁ、まあせっかくだから」みたいな顔をしつつ、後ろめたさゼロで、いつもよりちょっぴり良いやつを買ったりできるのがいいです。

 そうだ、やっぱり涼しくなってきたから、安い焼酎のロックなんかやめて、気の利いた日本酒を買いに行こう。昨日の男山酒造の飲み会も行けなかったから、ちょっと上等のやつにするかな…。すみません、勝手に小さな幸せをひろげてしまって…。

 つくづく「豊かさ」というものは、具体的なモノや出来事ではなくて、ひとつの精神状態なんですね…。
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公民館

2008-09-27 23:47:04 | 山形弦楽四重奏団
 今日はいつも山形Qの練習会場の、出羽公民館が我々のために企画してくれたコンサートで演奏しました。地域の方々が集まってくれてアットホームなコンサートになりました。

 ところで、「公民館」という言葉にはずっと馴染みがありませんでした。社会の教科書で「公民館は地域の人達の憩いの場です」みたいな記述があってもよくわかりませんでした。「公民館って何?区民センターの事?行った事ないけど」みたいな感じでしたから。

 しかし、山形に来てよくわかりました。べつに練習場に使わせてもらってるから言うわけじゃないですけど、本当に公民館は地域の人達のためにあるんですね。つまらない区民センターとは違います。

 公民館が企画して、地域の人のためにコンサートをひらくというのは、本当に素晴らしい事だと思います。こういう試みは初めてだそうですが、より多くの所であるといいと思います。それでこそ、地域の人による、地域の人のための、催しですよね。

 今月3回目の本番でしたが、疲れてる暇はありません。。芸術の秋ですし、嬉しい事でございます。この調子で来月の宝泉寺も頑張ります。

 (写真はバラ公園のバラです)
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村山生まれ

2008-09-25 23:13:57 | 雑記
 すっかり秋の空気になりました。相変わらず毎日、山響のスクールコンサートですが、暑さもなくなり爽やかです。もうすぐ寒くなってしまうんでしょうけど、一番良い季節です。人はだいたい、誕生日のあたりの季節が好きなものらしいですが、そんなもんでしょうかね。

 上の写真は先日のバラ公園で息子が捕まえたカマキリです。男の子は大きなカマキリを見つけると、間違いなく興奮しますね。自分もそうでした。

 何となくカッコイイんですよね。近づいても逃げないで、カマを振り上げてユラユラと「かかってこいや!」みたいなのが。そういう大きくて強そうなのは、みんなメスらしいですけど。子供の頃は、そんな夢の無い知識はありませんでした…。

 カマキリはその冬の積雪の高さがわかって、それより少し高い所に卵を産む、という話は有名ですが本当なんでしょうか?そう言えば、山形ではカマキリの卵を見つけた事が無いのですが、それは東京では想像できない高さの所に産んであるからなんですかね?生まれてくる子も大変でしょうね。

 結局、捕まえたカマキリは家の近くの河原に逃がしたのですが、ちゃんと村山より低めに産むんでしょうか?

 …余計なお世話ですな。
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バラ公園

2008-09-23 21:56:47 | 山形弦楽四重奏団
 今日はさわやかな秋の日でした。村山の東沢バラ公園も気持ちの良い空気に包まれていました。毎年思う事ですが、きれいで広々として素晴らしい公園です。そして人が多すぎない…。演奏する方としては、それは喜んではいけませんね。

 例年通りログハウスで演奏しましたが、小さめでお客さんとの距離が近いのに、響きが良くて弾きやすい場所です。始まってみると、用意されたイスに座りきれないほどの人が来てくれて、安心しました。来て下さった方々には本当に感謝しています。

 毎年恒例で同じ場所で演奏会を企画して、呼んでもらえるという事はうれしいものです。去年に引き続いて家族が聴きに来ましたが、前回の時は娘はまだ赤ちゃんだったな、などと思い出したりもします。

 …そうして自分も確実に歳をとっていくわけでございますな。今晩は娘に負けて、何十年かぶりに自分の誕生日にケーキを買ってロウソクを立てました…。
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折り返し

2008-09-22 23:45:57 | 雑記
 明日は山形Qで村山市東沢バラ公園にて演奏しますので、今日は夜まで練習でした。


 「35歳になった春、彼は自分が既に人生の折り返し点を曲がってしまったことを確認した。
 いや、これは正確な表現ではない。正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折り返し点を曲がろうと決心した、ということになるだろう。」

 村上春樹の「プールサイド」という文章の冒頭です。……「人生の折り返し点」……考えた事なかったですが、あるとすれば何歳ぐらいでしょうね…。現在の日本の平均寿命から逆算すると、ちょうど今の自分ぐらいですか…。

 いや、この話の主人公は、自分の寿命を予測しているわけではありません。そんな事に意味はないですから。人生のゴールまでフルスピードで走りきるためには、現在の自分の正確な位置を知るべきだという信条を持っているわけです。

 言っている事は共感できますが、村上春樹の小説の登場人物はだいたいが、やたらとおしゃれでカッコ良すぎます。この話にしても、その大きな節目である誕生日には、五歳下の美しい妻と青山のいきつけのレストランで食事をして、静かなバーでジントニックを飲み、家に帰って妻が寝てしまうと、ビールを飲みながら、ブルックナーのシンフォニーを聴くのです。ちょっとヤな感じですよね。

 「夜中に一人でブルックナーの長大なシンフォニーを聴くたびに、彼はいつもある種の皮肉な喜びを感じた。それは音楽の中でしか感じることのできない奇妙な喜びだった。時間とエネルギーと才能の壮大な消耗…」

 こんな人本当にいたら鼻につきますね…。

 
 いや、今日は何でこんな事を書いているのかと言いますと、明日は誕生日なのです…。

 35歳はもう前に過ぎてますが、遅ればせながらバラ公園で華やかに折り返すとしますか…。
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皆宝なり

2008-09-21 23:30:28 | 山形弦楽四重奏団
 山形Qの米沢興譲教会での演奏会が無事に終わりました。聴きに来て下さった多くの方々に感謝しています。わざわざ山形市から来てくれた方もいました。

 もともと今回の演奏会は、東京でやった僕のサロンコンサートを聴いてくれた方が、米沢興譲教会とつながりがあり、その縁で企画して下さったのです。人の縁というものはありがたいですね。

 今日は午後のコンサートだけでなく、午前の礼拝の中でも一曲弾きました。出番を待つ間、礼拝に参加しましたが、とにかく日常のさまざまな事を全て、「神様のおみちびき」だととらえて感謝する気持ちを、参加者全員が持っているのが伝わってきました。

 「感謝する気持ち」というものは、人の心を穏やかにするものですね。それはなにもキリスト教に限ったことではありません。空海の言葉です。

 「眼(まなこ)明らかなれば、途(みち)に触れて皆宝なり」

 日常の細々したことを素直にありがたく感じて受け入れる気持ちを持てば、それらがどれもかけがえなく大切なものに思えるという事ですね。一般人はなかなかこうはなれません(含む自分)。

 しかしこの後に「心暗きときは、すなわち遇うところ、ことごとくわざわいなり」と続くのです。これは思いあたる時があります…。良くないですよね。心の持ち方が一番大切なんですね。良い事も悪い事も続けて起きるのは、そのせいかも知れません。

 まずは感謝感謝。さて、あさっては村山市の東沢バラ公園での演奏会です。毎年招いて下さる事に、また感謝です。
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十字架(終)

2008-09-20 00:17:38 | クァルテット
 ハイドンは依頼を受けてイエスの7つの言葉にそれぞれ作曲しましたが、彼独自の判断で一番最初の「序奏」と一番最後の「地震」を付け加えました。序奏は重苦しく、地震はハイドンらしからぬ怒涛の激しさを持っています。

 ハイドンのこの「十字架上のイエス・キリストの7つの最後の言葉」を聴くと、イエスの受難劇がそれほど悲劇的に描かれていない印象を受けます。それは前にも書いたように、この受難劇は「聖書の預言が成就した」というとらえ方を、ハイドン自身もしたからでしょう。

 しかし、そのように言われても、「愛だけを伝えようとし続けた一人の罪もない人が、極悪人以上に悲惨な処刑で死んだ」という衝撃はおさまりません。ハイドンもまた、そう感じたんだろうと思います。それで、重い悲劇的な序奏を付けたのでしょう。「聖書に書かれた事を受け止める一般人」の気持ちだと思います。

 ルカやマタイはイエスが息を引き取った時に、地震がおこり天幕が裂けた、というような事を書いていますが、これはどうでしょう。神はそんな時に何のために、そんな事をしなければいけなかったのでしょう?いまひとつ腑に落ちません。

 敢えて言えば、これはイエスの死に対する弟子達の悲しみと驚き、混乱を表しているのだと思います。彼らはイエスの死に際して、心ない人々に神が地震をおこしたり空が暗くなるような威嚇をすることを望んだのでしょう。しかし現実には、空は相変わらず白く、エルサレムの街では人々や家畜の声がざわめいているだけの普通の午後だったのではないでしょうか。

 十字架上のイエスを一番気にしていたのは弟子達でしょう。彼らは師であるイエスを裏切ったのですから。聖書にはペテロの場合が象徴的に描かれていますが、他の弟子達も大差ないはずです。だからこそイエスと共に逮捕されなかったのでしょう。

 彼らはもともとイエスの教えを、十分には理解していなかった。だからこそ現実的な革命の政治的指導者としてイエスに期待していたのです。イエスが指導者としていつ蜂起してくれるのと待ち望んでいたのです。

 しかし実際はイエスはいつまでたっても、愛ばかり。精神的な事ばかりだったのです。そんな師を見捨てた弟子達は、イエスが死の間際に自分達を恨むような、怒りの言葉を発すると思っていた事でしょう。

 しかしイエスが口にしたのは「主よ、彼等を許したまえ。彼等はそのなせることを知らざればなり」で始まる、一連のこれらの言葉だったのです。「まことにこの人は神の子であった」というのは、弟子達の実感だったのではないでしょうか。

 その衝撃は我々には想像もできないものでしょう。それが「地震」に描かれたものだと思います。ハイドンはこの「7つの言葉」が人々に与える衝撃を感じたのでしょう。普通の人々には想像もできない「愛」が与える衝撃です。再び遠藤周作の文章です。

 「イエスは永遠に人間の同伴者となるため、愛の神の存在証明をするために自分がもっとも惨めな形で死ななければならなかった。人間の味わうすべての悲しみと苦しみを味あわねばならなかった。もしそうでなければ、彼は人間の悲しみや苦しみを分かち合うことができぬからである。人間にむかって、ごらん、わたしがそばにいる、わたしもあなたと同じように、いや、あなた以上に苦しんだのだ、と言えぬからである。人間にむかって、あなたの悲しみはわたしにはわかる、なぜならわたしもそれを味わったからであると言えぬからである。」

 (写真は金曜日の夕焼けです。なにか神々しいものを感じますね)

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虫の声

2008-09-18 23:09:11 | 山形
 関東は、いかにも「残暑」という感じの毎日でしたが、朝晩は一瞬爽やかな時もあり、「夏の終わり」らしい感じがしましたが、山形の朝晩は秋そのものです。

 夏の終わりといえばツクツクボウシですよね。先週は演奏中に、その鳴き声が聞こえることが多かったのです。条件反射かもしれませんが、「オーシーツクツク」を聞くと、夏休みが終わってしまった寂しさを感じます。東北ではその声も全く聞こえなくなりました。

 ちなみに芭蕉が山寺で詠んだといわれる「静けさや 岩にしみいる 蝉の声」の蝉は、真夏のジョワジョワしたやつではなくて、夏の初めのチイチイしたやつだったようですね。現代人は騒音に慣れているので、そのなかでこそ「静けさ」が感じられるのだと、屈折した解釈をしたがるようです。齋藤茂吉もそうだったようで、「岩にしみいる蝉」はアブラゼミだと言い張ったそうです。しかし江戸時代は、やはり違ってシンプルに夏の初めの、割とつつましやかな音について詠んだというのが通説のようです。


 「蝉の生涯は幸いなるかな
  彼らは声なき妻を有すればなり」

 …物を投げないで下さい!僕が考えた言葉じゃないんですから…。たしか昔のギリシャの人が遺した言葉です。

 最近は秋の虫が鳴くようになりました。山形Qの練習をしている公民館でも、ケースに入った鈴虫がうるさいぐらいに鳴いています。

 彼らの生涯も…(以下自粛)。

 (写真は馬見ヶ崎川の河原のコスモスです。)
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秋刀魚

2008-09-17 22:49:27 | 旅の空
 秋の味覚といえばいろいろありますが、やはりさんまでしょう。出身が目黒なので「故郷の味」というわけでもありませんが大好きです。今年はかなり豊漁のようですね。毎日のように食べてます。

 さて、今週は山響のスクールコンサートで福島を廻っています。福島は日帰り圏内ですが、南の方が続くので昨日は郡山に泊まりました。そして夜は当然、居酒屋へ。

 秋刀魚と冷酒…素晴らしい組み合わせでございます…。別に郡山の名物ではありませんが。どこで食べても美味しいものは美味しいということですね。

 しかし今までの人生で一番美味しい秋刀魚を食べたのは釧路です。旅館の朝食に、その朝とれたのを刺身にしたものが出ました。醤油と七味唐辛子で食べるのですが、身の締まり方が違いました。日本酒と一緒に頂きたかった…。

 ところで「けるぷ鶏」って知ってますか?郡山の地鶏だそうです。「刺身」と「たたき」で頂きましたが、これが最高にあっさりしていて絶品でした。刺身は塩で食べるのですが、しっかりした帆立貝のようでこれがまた冷酒と…(しつこいですね)。

 飲んでばかりもいられません。明日も福島ですが、今日は山形Qの練習のために帰りました。しんみりと休肝日です…。

 (写真は郡山の麓山公園です。朝の日だまりで鴨が丸まっています。)
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十字架7

2008-09-15 22:54:10 | クァルテット
 「衣食足りて礼節を知る」という孔子の言葉がありますが、それが人間の本質でしょうね。自分が生きるか死ぬかの状況では、モラルを持ち続けるのは難しいのです。

 イエスが生まれ育った地方は、貧しさと病気が蔓延して、人々は「やさしさ」を失くしていました。当然でしょう。厳し過ぎる現実に遭ったとき、「どうしてこの私が…」と思うのが普通ですから。「なぜ神は私を罰するのだろう」と感じることはあっても「神の愛」を感じることはないでしょう。

 しかし、イエスはどうしても「神の愛」を伝え、人々にも「やさしさ」を取り戻して欲しかったのだと思います。

 「幸いなるかな 心貧しき人 
  天国は彼等のものなればなり
  幸いなるかな 泣く人
  彼等は慰めらるべければなり」

 イエスはただひたすら、「神の愛」を説いているのです。神は罰するものではなく、苦しむ人を受け入れてくれるものだということを。マタイ伝の言葉は感動的です。

 「重荷を負うている すべての人よ
  来なさい わたしのもとに
  休ませてあげる そのあなたを」

 これこそが、イエスの伝えたかった神の本質だと思います。だからこそ、彼の最期の言葉は穏やかなのでしょう。7つめの言葉です。

 「主よ、我が魂を御手にゆだねます」

 彼は息をひきとりました。さすがハイドンのこの曲は、悲劇的なところはありません。まさに「穏やかな愛に包まれる」様子です。

 しかし、残された凡人の我々はどうなるのでしょう。目の前で、愛する人、自分を愛してくれた人が無惨な死に方をして、それをどう受け止めたらいいのでしょうか?それが終曲「地震」に表されているように思います。(最終回につづく)

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車検

2008-09-14 23:05:33 | ヴァイオリン
 「皆さんが使っているヴァイオリンはだいたい、おいくらぐらいなんですか?アハハ、失礼な質問で恐縮ですが。」みたいな事を訊かれる時があります(だいたい音楽にそれほど興味の無い、社会的地位の割と高い人)。

 そういう場合は「まあまあの車が買えるぐらいですかねえ。フフフ…」と答えることにしています(根拠と真偽のほどはわかりませんが)。すると「そんなにするんですか!」と素直に驚いてくれます。やはりヴァイオリンは高価なものですよね。

 さて昨日は2年ごとに襲いかかって来る恐怖の「車検」でした。日頃のメンテナンスをまめにやるタイプではないのにも問題があるんでしょうが、とにかくお金がかかります…。

 愛車はだいぶ年式が古いので、車検の度に新車購入を薦められます。車というものはやはり消耗品なんですね。どんなに良い車でも「一生もの」というわけにはいかないし、メンテナンスにかかる費用もどんどん上がっていきます。長く使うよりどんどん買い替えるものなんですね。

 あまり一生懸命だから買ってあげたいのですが、なにぶん先立つものがありませんので。今回も強引に通しました。

 そう考えると、ヴァイオリンは何百年も使えて価値は下がらないし、車検も毎年の税金もないし、強制的な掛け捨ての保険もないし、税金だらけの燃料を買わなくてもいいし、テンポがオーバーしても罰金とられないし……。

 やっぱりヴァイオリンは高くないですね…。
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運動会

2008-09-13 23:33:07 | 危機管理
 運動会の思い出といえば、どんな事でしょうか?親やおばあちゃんなんかと一緒に、校庭でお弁当を食べたりしたのは1~2年生までですが、良い思い出です。でも基本的に、運動会はあまり好きじゃなかったので大して思い入れはありません。いわゆる「おゆうぎ」が、どうしても嫌でしたので。(僕が3年生の時は「オクラホマ・ミキサー」なんかやらされました。つらかった…)

 今日は息子の運動会を見に行きました。息子の小学校の運動会は、「淡々としている」というか、観客に対して「サービス精神が無い」ようで、お弁当も別だし、例えば息子の出番は徒競走と綱引きだけでした。(実にうらやましい)

 ところで最近の父兄の皆さんは、撮影機器も充実して凄い迫力ですね。徒競走の時も「応援や撮影は、判定の妨げになりませんようお願いします」というアナウンスがあった程でした。
 
 ちなみに我が家は去年「撮影機器の操作に神経をとられすぎて、見れなかったし、しかも撮れなかった」という状況に陥ったので、その反省を活かして今年は撮影はしませんでした。

 ウチはともかく、気合いのこもったカメラマン達には、「おゆうぎ」や「おもしろ競走」(障害物や二人三脚みたいな)が無くて物足りなかったかも知れません。

 けど「マイム・マイム」ぐらいやって欲しかったな…。(親のエゴを体感しました)
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十字架6

2008-09-11 20:51:50 | クァルテット
 いよいよ終わりが近づいてきました。しかし6つ目の言葉は、とても重くて根本的です。そもそもこの「イエスの受難」にはどういう意味があるのか、という問題に関わってくる言葉なのです。CDなどの解説では、サラッと流すところです。しかし、敢えて考えてみます。

 「これで終わった。」

 これは「もうおしまいだ…」という嘆きでは、もちろんありません。ヨハネ伝を読むと「成し遂げられた」ということです。何がでしょう?「聖書の預言が成就した」「神の言葉通りになった」ということです。

 福音書ではいろんな場面で「これによって聖書に書かれている事が、その通りになった」というフレーズが出てきます。イエスがロバに乗ってエルサレムに入城した時も、ユダがイエスを裏切って銀貨30枚を受け取った時も、十字架に架けられたイエスの服を兵士達がくじ引きで分け合った時もです。

 つまり、イエスの受難自体も「神が定められた事が実現した」という事なのです。「彼は卑しめられて 人に棄てられ われらのとがのために砕かれた 苛酷な裁きによって彼は取り去られた」(イザヤ書)

 こう考えてくると、ハイドンのこの曲集が悲劇的でないのもうなずけます。イエスが十字架に架けられたのは「悲劇」ではなかったのです。すべては神があらかじめ予定した、神の意思だったのです。

 それでは、愚かな人間達がイエスを殺してしまう事も神が予定した事だったのだから、我々は何も気に病む必要は無いのでしょうか?そもそも何の目的で神はこのような事を「予定」したのでしょうか?

 …ほらほら、この辺りが核心ですよね。ここまで来てしまうと、素人の手に負えないので、遠藤周作氏の文を引用します。

 「彼が出会ったあまたの病人たち。子を失った母親。眼の見えぬ老人。足の動かぬ男。死に瀕している少女。それらの人間たちの苦しみを分かち合うこと。一緒に背負うこと。彼等の永遠の同伴者になること。そのためには彼等の苦痛のすべてを自分に背負わせてほしい。人々の苦しみを背負って犠牲となり殺される仔羊のようになりたい。『人間のために自分の命を捨てるほど大きな愛はない』それこそが人々に無力にみえようとも、神の最高の存在証明なのだ。」

(どうですか?この事はもう一度考えてみたいと思います。)
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遅れびと

2008-09-10 22:02:19 | 旅の空
 昨日からまた山響のスクールコンサートです。会場の学校の周りは田んぼが広がっています。見慣れた風景ですが、ここは山形ではなくて首都圏(埼玉)です。よく見ると山形より、稲が色づいていますよね。

 今週は関東(主に埼玉県の奥の方)を回っています。ほとんど行った事が無い所ばかりです。東京の実家から電車を乗り継いで行きますが、何線に乗ればいいのか、どこで乗り換えればいいのか、さっぱりわかりません。

 知らないうちにいろんな線が延びていて、他の会社の線とつながっていたり、新しい線が知らない所からはえて来てたりして、田舎者の自分はとまどうばかりでございます。

 しかし!最近ようやく携帯を少しばかりいじれるようになったので、「乗り換え」という所を恐る恐る押してみることに…。すると、おおおっ!乗り継ぎの時間まで出てくる!すごい発明だね!

 しかも!今回はなんと「Suica」を新調。これがまた…すごい発明したね!切符売り場で上の料金表(しかも近郊会社連絡の見にくくて不親切なやつ)を一心に拝まなくて済むとは!

 そしてSuicaで圧巻なのは(えっ?知ってるからもういいですか?そう言わずもう一つだけ)、路線バスです。都心以外では、バスは均一料金ではなくて、後ろの入口から入って整理券を取って、少しずつ変わっていく料金表を注目しつつ、小銭をいくら用意したらいいのか、うかがわなければなりませんよね。そして急いで両替機に駆け寄って、機械から無造作に吐き出される小銭をよりわけて、ようやく箱に入れる。

 この作業が全く必要無くなるとは!ピッってやってピッってやるだけ!感動に、うちふるえました…。

 (常識について熱く長々と書いて、すみませんでした。)
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万願寺

2008-09-08 22:42:09 | 雑記
 べつにお寺巡りをしているわけではありません。「万願寺とうがらし」って知ってますか?ししとうをさらに大きくしたような、京野菜です。

 昔からよく知っているかのような口ぶりですが去年、京都に行った時に初めて知りました。飲み屋で付け合わせに巨大なししとうが出て来たので、おばちゃんに「えっ、これ何ですか?」と聞いたら「まんがんじさんどすがな」と言われたのでした。

 記憶力は悪くない方だとは思っているのですが、酒が入っている時はまったくの例外でございます。次の日にはすっかり忘れました。だって野菜っぽくないですよね。「エリンギ」とか「パプリカ」みたいだったら良かったのに。

 そんな事をこのブログに書いたら、それを読んだ方が教えてくれて、さらにお土産にくれました。見てみると…そうそう、これでした!

 お勧め通り、あぶって醤油をたらして、シンプルに頂きました。味や食感は、ししとうよりピーマンに近いです。赤いやつは初めて見ましたが、見た感じかなり辛そうなのですが、全然そんなことはありません。それこそパプリカに近いですね。それでもほんのりした辛みが、日本酒によく合います。

 もう覚えました。まんがんじ…まんがんじ……
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