由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

権力はどんな味がするか その4(他者は虚ろな鏡)

2015年11月01日 | 倫理

Robert Altman's 3 women, 1977

メインテキスト : マリー=フランス・イルゴイエンヌ、高野優訳『モラル・ハラスメント 人を傷つけずにはいられない』(1998年原著、紀伊国屋書店平成11年)
サブテキスト:アリス・ミラー、山下公子訳『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(1980年原著、新曜社昭和58年)

 モラハラ(←モラル・ハラスメント)なる言葉は、高橋ジョージ・三船美佳夫妻の離婚騒動のとき出てきて、少し話題になったが、セクハラ(←セクシャル・ハラスメント)やパワハラ(←パワー・ハラスメント)などと比べても、一般的だとは言えない。間口がやたらに広くて、後二者もこの中に入る場合があるので、具体的なイメージが持ちづらいこともあるだろう。それに、これに当たる言葉なら、昔ながらの日本語がある。人格攻撃、あるいは人格否定、という。
 フランスの精神科医イルゴイエンヌが訴えたのは、それが継続的に行われるある関係性である。家庭や職場のような小社会で、立場の弱い者が強い者から、執拗に、何年も、時には何十年も攻撃される。暴力が揮われるわけではないので(稀には、ある)、見過ごされがちだが、これは極めて重大な犯罪行為である。そこでイルゴイエンヌは、前者を被害者、後者を加害者と呼び、被害者救済のためにこの本を書いた。
 加害者は「自己愛的な変質者」だとされる。他人との共感を求めない。それ以前に、他人の価値を認めない、いや、わからない。他人はただ自己の欲望を満たすためにのみ存在すべきだ。自然にそう感じている。だから、他人が自分に逆らうこと、それも何らかの意味で自分の存在を脅かすまでに至れば、それは明白に悪なのである。
 とは言え、会社の上司か、政治的な権力の持ち主でもなければ、他人に公的に支配力を揮うわけにはいかない。そのような関係を作るためには、まず他人と密接に結びつかなくてはならない。その点、加害者は、一見なかなか魅力的な人間に見える必要がある。

 普通の人々はモラル・ハラスメントの加害者を見ると、羨ましいと思うことさえある。というのも、そういった人々は並はずれた力を持っていて、いつも勝者の側に立っているように思えるからだ。実際、この種の人々は他人を操ることにたけているので、政界や実業界で幅をきかせることが多い(P.22)。

 人を人とも思わぬ傲慢さは、それ自体で力の現れであり、魅力になる場合もある。自分は軍隊時代部下から崇拝されていたが、「それはやつらを人間扱いしなかったからだ」と、J・P・サルトル「アルトナの幽閉者」の主人公は言っている。
 で、相手を魅了して、親密な関係になる、それはつまり、外からは容易に実態がつかめない関係になるということだが、それから加害者はどのようにして権力を行使し、相手を被害者たらしめるのか。ちょっとしたほのめかしや嫌味、あるいは無視を繰り返して、「自分にとってお前は価値がない」という無言のメッセージを伝える。親密な関係の中で存在価値が疑われることは、普通の人にとって重大問題である。
 典型的な手口の一つは、本書の173頁に簡単な例が挙げられている。義母が女婿に簡単な用事を頼んだ時の話である。

「駄目よ。これじゃ」
「どうしてです?」
「言わなくたってわかるでしょう?」
「わかりませんね」
「じゃあ、考えてごらんなさい」


 ここで仕掛けられた罠から逃れるには、とりあえず、「考えてもわかりません。たぶん僕にはできないんでしょう。すみませんが、他の人に頼んでください」と言って、義母から離れるべきだろう。もちろんそうしたら、彼は無能だというあからさまか、隠微な、非難や嘲りが続く。で、なければ、人を平気で無視する心の冷たい男だとか。気にしないでいることは、普通に真面目な人にとっては、かなり難しいに違いない。義母とはもう滅多に、あるいは全く、会わなくても済むならよいが、日常的に、しょっちゅう顔を合わせなければならないとなると。
 そこまで考えたら、たんぶん何気ない調子で言われるこの種の要求が、いかにタチが悪いかわかるだろう。義母は何をどうしろと具体的に指示することはない。責任をかぶりそうな事態はなるべく避けるのが最上。指示の仕方が不適切だったとか、そもそもまちがっていた、などが明らかになったりしては最悪。なんであれ、どうやるかまで含めて、彼に考えさせればいい。不親切じゃないかと言われたら、「そんなの常識でしょ」とか。「あんたは頭がいいみたいだからわかると思ってたわ」などの、お決まりの返し文句がある。自分はただ、なされたことの結果の、裁定者の地位を保てばいい。こんな簡単な策略で、相手に対して優越した立場にいられる。
 これだけならたぶん、ありふれた日常生活での主導権争いと言えるのだろう。私のように、そういうのが鬱陶しくてたまらない人間がいる、というだけで。イルゴイエンヌによると、それも問題なのである。ありふれているので、なんらかの解決や救済が必要だとはなかなか感じられないから。
 いつそれが必要なのか? 相手が自己愛的な変質者だった場合。そして、こちらが、「こんなふうに扱われるのは自分にも何か問題があるのではないか」などとつい反省しがちな、調和型の性格だった場合。それこそ最悪の、加害者―被害者の組み合わせなのだ。
 加害者は、何かのために相手を支配しようとするのではない。自分が満足感を得るためでさえ、ない。人格攻撃は、相手を破壊し尽くすまで、止まない。これは自然な道筋だとも言える。他人を完全に支配するとは、その人を完全に壊すということなのだから。
 また、解決、と言ったが、きっぱりと、完全に別れる以外、どうにかできるのではないかと思うこと自体が危険である。何しろ、コミュニケーションは、形式的表面的なもの以外、全く成り立たない、その意味さえわからない人間が一方の当事者なのだから。それでいて、形式的表面的には、人を信用させる名人なのだから。

 なぜこういう人間が生まれるのか? 精神分析学の定石通り、「加害者」の成育歴の中に、問題の根本があったのだろう、とはイルゴイエンヌも認めている。しかし、そこに詳細に踏み込もうとはしない。そうしたら、いくぶんかは加害者への「共感」が必要になってくるから。あまり知られていない犯罪的な行為があり、救うべき人間(被害者)がいると指摘するのが急務なので、そういうのはむしろ余計、と考えられている。
 たぶん、本書にも何度か取り上げられているスイスの精神分析学者(だったが、後にこの学問自体を批判している)アリス・ミラーなら、それは「闇教育」が生み出す、と答えるだろう。親や教師が子どもを無条件に服従させることだ。改めて考えるまでもなく、子どもほど支配されやすい立場の人間はいない。しかもその支配には、「教育」とか「躾」とかいう美名が付けられているので、誰も、周囲も当事者も、それが悪にもなり得るなどとは思いもよらない。しかし、悪はある。中でも最悪なのは、喜びや悲しみや怒りなどの自然な感情が、「わがまま」として禁じられ、抑圧されることだ。
 この「教育」が成功した場合、子どもは何を学ぶだろう。人間的な感情になど価値はないのだから、それをコントロールすること、即ち、支配する力こそが最上なのだ、と。従って、唯一の正しい人間関係は、支配―被支配関係なのである。
 成長してからは、凡そ二つの道をたどると予想される。
①自分がなんらかの「力」を得られなかった場合。外部の、親に代る力=権威をやすやすと受け入れ、それにすがって生きていくことになるだろう。どんなに理不尽な力でも、いやむしろ、理不尽なほうがいい。親の要求が、およそ理不尽だったのだから。
②力を得た場合、最も剣呑な暴君となる。彼/彼女は他人を支配することを当然とみなすのだが、そこで発揮させる苛烈さは常に過剰になる。他でもない、彼/彼女はそのとき、子供時代に被支配者として受けた虐待の、代償行為、即ち仕返しをしているのだ。
 例えば1930年代に猛威をふるったナチズムは、この頃まで主流だった厳格な教育の、直接の結果なのである。中でも、「世界全体に向けられた」とさえ思えるヒトラーの悪意は、幼い日々に父親から受け続けた精神的肉体的な圧迫を外部へ返したものだ。そして、それを良しとし、さらには憧れさえ抱かれる広範な社会心理の背景があった。そう考えて初めて理解できる。
【私は、ミラーに共感するところは多々ありますが、それは教育や精神分析の欺瞞を暴いた部分です。すべての悪の根源は幼児期の虐待にある、と言うが如き書きぶりは、少しやり過ぎではないかなあ、と感じます。
 もう一つついでに。本シリーズ「その2」で取り上げたエーリッヒ・フロムにミラーは批判的です。彼もヒトラーの幼児体験に言及しているものの、それは僅かで、「権威主義的」なる性向が、内向的とか社交的とかいうのと同じように、自然に存在する(時代状況が生み出しやすくしていることはあっても)ような印象を与えているところが気に入らないようでして。しかしそれを除けば、ミラーのナチズムの心理研究は、フロムを補完するものになっているのではないでしょうか。】
 もちろん、ヒトラーなんてめったにいるものではない。『魂の殺人』で取り上げられているもう一人の、幼児殺害者なら、いつでもどこでも、この日本でも、間欠的に登場するとは言え、数はそんなに多くはない(多くては困りますわな)。では、こういう例外以外は別に問題はないのだろうか? そうではない。支配―被支配の関係及びその反復は、ごく日常的な場に潜んでいる。モラル・ハラスメントという用語を使って、それを明らかにしたのが、イルゴイエンヌたちの功績である。そう言っていいと思う。

 多分次のことは何度も繰り返したほうがいいだろう。モラハラ加害者は、他人の価値がわからない、と言っても、では他人を必要としない、という意味ではない。それなら、社交術に長けるわけはない。むしろ、熾烈に必要としている。本当に価値がないのは、実は自分自身だからだ。

〈自己愛的な変質者〉、すなわちモラル・ハラスメントの加害者は〈他者〉によって満たされる。それがなければ生きていくことができない。〈他者〉は自分の分身でさえない。(それだったら少なくとも一個の存在を持っているからだ)。ただ鏡に映る自分の像なのだ。(P.214)
(前略)加害者はまず、自分の空洞を満たすために被害者に愛を求める。だが、被害者として選んだこの母性的な人物から栄養を吸収し、それを取りこむためには、たとえ萌芽のようなものにせよ、加害者のほうにそれを受け入れるための実体がなければならない。ところが、加害者はそういった実体を持たないので、相手から栄養を吸収することは不可能になる。すると、相手の存在は逆に加害者自身の空洞を浮き彫りにするので、加害者にとっては危険なものとなる。その結果、今度は相手を憎むようになるのである。(P.219)

 自分の「実体」を持つこと、つまり自分自身であることは、幼いころに抑圧されきって終わっている。だから他者(他人と、政治結社など組織的なものを含む)の中にそれを見つけようとする。見つかった、と思えばそこに盲目的に帰依するが、たいがいはだめで、そこで見つかるのは自分の空虚そのものである。それだけで、その他者を憎み、破壊しようとする動機としては充分であろう。
 もっとも、イルゴイエンヌが「加害者」を「自分のイメージを作り出す機械」と呼ぶのは、言い過ぎと言うより、不正確であろう。彼/彼女が全くの機械であるわけはない。どれほど理不尽であっても、憎しみの感情そのものは、彼/彼女自身のものである。また、「被害者」も、機械ではなく、生きている人間だからこそ、改めて機械化し、破壊することに「意味」があるのだ。すべてが人間的な、あまりに人間的なできごとなのである。
 もう一つ、これほどの「変質者」が出てくるのは、ある極端な「教育」のせいであるとは確かに考えられるにしても、そもそもの前提として、現在の個人主義のあり方を考えておくのは、よいことであろう。イルゴイエンヌも、ごく簡単に、そうしている。曰く、現代社会は個人の自由を重んじ過ぎるので、あらゆる規範(言っていいこと、いけないこと、などの)が弱まり、例えば他人への心遣いをどう保つかについても、曖昧になりがちである。半面、個人の「強さ」も重んじられるから、他人に圧迫されがちな「弱い」人はあまり同情されない。そういう場合には、「圧迫を跳ね返すだけの強さを身につけろ」などとよく言われるし、また「被害者」も、助けを求めることは恥ずかしいと思いがちになる。事態をますます悪くする一方、というわけだ。
 これらはいかにも、モラハラがはびこる土壌となる、と言ってよい。が、より自由度が低い、例えば身分制社会にはあった強い社会規範を復活させようとしても、第一不可能だし、第二にそれでも無理やり、例えば政治権力を使って取り戻そうなどとしたら、それこそ闇教育そのものとなり、破壊的な事態を招くだろう。
 そして第三に、ではなくてむしろもっと以前に、こういうことを考えるなら、根本的に押さえておくべき事情がある。個人主義の時代だからこそ、明らかに見えてきた、個人の空虚。個人は何かに支えられなければ成り立たない。なのに、それを忘れたような顔をしなければ、個人主義ではないように思えるところが、最も困るのである。うまく忘れられなかった場合には、他者の中に支えを見つけようとする。すると、見つかるのは、自分が空虚である証拠ばかり。そこで、他者を憎むようになる。
 以上はイルゴイエンヌの作った精神分析話の、私なりの言い換えだが、こう考えると、個別特殊な事例である「自己愛的な変質者」より広い見地から、問題を捉えることができるだろう。我々は自己―他者関係の最中に爆弾を抱えているような時代を生きている。完全な解決策など見出し難いのだから、まずは問題の困難さをじっくり見つめておくべきではないかと思う。

【上に一場面を掲げたロバート・アルトマン監督「三人の女」は、モラハラそのものを扱った作品ではないですが(「的」なものはあります)、現代人の空虚、他者への渇仰と反発、模倣と分裂、そして罪を介したうえでの結合、といったテーマをスクリーン上に描き切った傑作です。最近DVD化されたのを知り、久しぶりに見てみたら、気分的に、今回の記事にぴったりだと感じました。】

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