由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

悲劇論ノート 第3回(オレステス)

2015年06月07日 | 
蜷川幸雄演出「オレステス」、平成21年シアターコクーン

 次のやうにも考へられるであらう。「お前は何者か」には、なるほど、究極の解答はない。それがわかつてゐても、この問ひがやめられないのは、人が、人と人の「あひだ」で生きなければならないからだ。完全に孤立した、一人だけの人間といふものは、もしゐたとしても、彼がなんであり、何をなすか、は全く問題にならないであらう。
 言ひ換へると、個人の「意味」は、なんであれ、「あひだ」にしか見出されない。「あひだ」は、個人に先行してゐる。それなら、人間の本質、と呼べるやうなものもまた、「あひだ」にしかないことになる。「人+間」がhuman beingそのものの意味にもなる日本語は、この点たいへん示唆的である。
 ただし、個々人がゐないとすれば、「あひだ」がないこともまた、単純な事実である。「あひだ」の意味は、それを成り立たせる両端の個人(あるひは、集団対個人)のありかたによつて、いかやうにも変はつていく。それが、「お前は何者か」の問が立ち現れてくる所以である。だからこの問は、戯れではないとしたら、必ず「私(たち)にとつて」が前提になつてゐる。会社にとつて、お前は何か。家族にとつて、お前は何か。国家にとつて、お前は何か、など。
 また、「すべきこと」/「してはないらないこと」を定めるのもまた、「あひだ」に国家などの枠を嵌めた社会である。人と人のあひだが一定不変ではないとすれば、社会もまた一定不変であるはずがない。それなら、「すべきこと」/「してはならないこと」の基準もまた、変はる。同じ行為が、善になるときも悪とされるときもある。後者の場合、社会は、どういうふうに個人に責任を負はせられるのか。個人は、どういふふうに責任を取る「自分」を示せるのか。

 ギリシャ神話の体系の中で、テーバイ王家の悲劇と並んで、アレゴスの、アトレウス家の人々の物語はきはめて有名で、多くの悲劇作家によつて取り上げられた。しかし、その中心人物オレステスは、前者のオイディプスほどには人の記憶に残つてゐない。どちらかといふと、彼の姉のはうが知られてをり、「エレクトラ・コンプレックス」なる術語にもなつてゐる。
 彼らの父親は、トロイ攻めのギリシャ連合軍総大将アガメムノン。戦争が終つて凱旋帰国してから、従兄のアイギストスと通じた妻(エレクトラとオレステスの母)クリュタイメストラによつて殺害される。エレクトラは、父親のために、母親への復讐を果たさうとする。オレステスはその道具に過ぎない、わけではないけれど、なんとなくそのやうな印象が持たれてしまふ。
 別の神話で、彼はエレクトラの上の姉イピゲネイアに助けられたりもする。彼の仇討ち劇のきつかけを作り、事実討たれる母はもちろん女。彼女を殺害したことで今度は彼が復讐の神(悔恨の念を擬人化したものと言はれる)につきまとはれるのだが、これは三人の女の姿をしてゐる。最初から最後まで、女によつて運命を決められる男であるやうだ。
 それ以上に次のことは重要である。オイディプスは、自分では知らないうちに母親と交るのに、オレステスは、自分が誰を殺すのか、事前に充分に知つてゐる。まつしぐらにさうするわけではない。アイスキュロス「供養する女たち」でも、エウリピデス「エレクトラ」でも、事前に戸惑ふ様子は描かれてゐる。いかにも、アルゴスの正当な王子として、父の仇は討たねばならないだらう。しかしそのために、母を殺した者になるのはどうか。この迷ひそのものはもちろん正当な、悪く言へば平凡なものである。そのために、仇討ちの実行へと彼の背中を押す者として、エレクトラが必要とされた、とも見ることができる。
 しかし、ひとたびやつてしまつた以上は、彼はある原理「不当に殺された父の仇は討たねばならない」のために他の原理「母を殺してはならない」を明白に捨てたのであつて、それ以外の者ではありやうがない。事前にどれほど躊躇しようと、事後にどれほど後悔しようと、彼が現に為した行為、母殺し、の前ではものの数ではない。周囲すべてにさうみなされるので、彼自身もまた、自分のやつたことの正当性を、少くともその不可避性を主張する。一方の正義を代表するのがオレステスなのであつて、その単純明快さが、彼の人物像から受ける印象を弱めるのだ。

 オレステスのしたことは正当か否か。悲劇作品の中にもいくつかの論点が見られる。エウリピデス「オレステス」に出てゐるのはとりわけ興味深い。クリュタイメストラの父、即ちオレステスの祖父テュンダレオスが次のやうに言ふ。
「誰かが誰かを殺す。殺した者は、殺された者の復讐のために、他の誰かに殺される。そのまた復讐のためにその他の誰かも殺される……などといふことが続いたら、この復讐の連鎖は果てしなく続くだらう。さういふことにならぬやうに、法があり、非道なことを裁くのは個人ではなく、法だといふことにしたのだ」
 これは、仇討ちなどの私刑を禁じた、近代法の精神に合致したものだと言へやう。ところが、これを唱へたテュンダレオスは、オレステスを憎むあまり、彼に死刑の判決がくだるやう、審理に当つた人々を煽動するのだ。つまり彼は、法の厳正中立性、それによる正義の実現など、本当は信じてゐないのである。
 法による判断が、さうでないものより優れてゐると考へられる根拠は、一つしかない。それは非個人的だといふところだ。現実の行為以前に、「してはならないこと」が定められてゐて、それが適用される(罪刑法定主義)のだから、ある人(々)の時々の感情や都合によつて左右されることは少い分、「公正」と呼ばれるものに近づくだらうと期待されるわけだ。
 夫殺しと母殺しと、どちらが罪が重いか、わかつたものではないが、とりあへず、オレステスは憎いので、ここは後のはうが重罪だとしてをかう、などといふことになつたら、個人への好悪の念によつて判断が左右されることになり、ついには「してはいけないこと」の概念も常に揺らぐ。まだしもそれは防げるなら、こちらを採る意味はある。

 それでも、人が判断する以上、感情が完全に消えるわけはない。判断する人間の数を増やせば、その弊害は減るだらうと思へはするが、ゼロにはならない。エウリピデスが伝へてゐるアレゴスでの裁判では、判決は参加者の多数決によつて決まつたらしい。すると、煽動者の暗躍する余地も高くなる。
 その状態で人を罪に落とすのはやはり問題がある、といふことで、現在のアメリカの陪審員制度は、全員一致の評決のみを有効としてゐる。それでも全く公正といふわけにはいかず、裁判は、陪審員にどういふ人間が選ばれたか、その時点で決定する、などと言はれてゐる。
 結局法は、究極の正義や公正を保証するものではなく、まして個人の救済を目指すものではない。さういふことをこの世で完璧に実現することは不可能だ、といふ断念のうへで、それでも「してはならないこと」はあるはずだといふ信念と、社会の秩序は守られなければならないといふ実際上の都合、この二点の便宜のために定められるのが法なのである。二つの対立する正義が登場した時、どちらが上か、などと決定できるやうなものではもともとないのだ。

 ことはアテネで改めて裁判にかけられる。アポロンがさう命じたのだ。この神は、このたびは予言だけでなく、オレステスに復讐を命じ、その後彼を庇護するまでの積極性を見せてゐる。
 アテネにはアポロンの姉アテナがゐる。アポロンは、知恵と防衛を象徴し、アテネといふ都市国家の名前の由来ともなつたこの女神に、オレステスの裁きを委ねたのである。アイスキュロス「慈しみの女神たち」にこの顛末が描かれてゐる。エウリピデスはこの作品を知つてゐて、アレゴスでの裁きとそれから起こる騒動を、これの前史として、創作したのだ。
 さて、最終決着を任されたアテナだが、これはもう彼女一人の手には余るとして、アテネの賢明な市民たちから成る陪審員団を招集する。彼らは劇中一言も発せず、劇の大半は、検事役の復讐の女神たちと、弁護士役のアポロンの論戦によつて占められてゐる。
 女神たちはかう主張する。「我々は非道な行ひを為した者をどこまでも苦しめるのが役割なのであつて、もしオレステスが許されるやうなことがあれば、自分たちの存在意義がなくなるばかりか、人倫が地に墜ちることにならう」
 これにはオレステス自身が反論する。「非道を責めるといふなら、なぜクリュタイメストラの罪を不問に付したのか」。女神たちは答へる。「彼女とアガメムノンの間には血の繋りがなかつたからだ」
 夫婦関係より、血縁関係のはうが上であり、母殺しは夫殺しより重罪だといふわけだ。今も賛成する人はゐるかも知れない。しかしさうだとしても、夫殺しもやはり罪なのであれば、それを放つておいてよいとは言へまい。クリュタイメストラがしかるべく罰せられてゐたとしたら、オレステスが手を汚す必要もなかつたのだ。その情状を無視して、彼だけを罰するのは、やはり片手落ちといふものだ。
 一方、アポロンは次のやうに論じる。「血縁関係の中で、重んじられなければならないのは父とのそれであつて、母との関係は二義的なものである。ゆゑに、父を殺した母を仇敵としたオレステスの行為は正当である」。こちらの、父系のみを重んじる原理は、先のオレステス有罪論以上に、現代で素直に受け入れられることはないであらう。
 選ばれたアテネの市民たちは、どちらの側からも、致命的な欠陥を含む理屈を聞かされるだけではなく、自分たちの言ひ分を通さないなら、以後この市を呪ふぞ、などと脅しまでかけられてから、評決に臨む。結果は、有罪と無罪と、同数の票になつた。
 その場合どうするかは、アテナはあらかじめ言明してゐた。彼女自身の一票によつて、すべての決定とする。そのうへ、「自分には母はなく、父ゼウスの頭部から直接生まれたのだから、アポロンの父系優先主義に賛成する」と、つまり「ひいき」するとまで公言してゐたのだつた。かくてオレステスは無罪となる。
 これは欺瞞であり、それくらゐなら最初からアテナ一人の判断でことを決したはうがましだつたらうか。必ずしもさうは言へまい。肝心なのは形式なのである。一人の人間(この場合神も含まれる)の意向ではなく、多くの人間が参加したうへでの決定のはうが、「社会的正義」の名に相応しい。それを欺瞞と言ふなら、民主主義制度自体もまた、欺瞞であるしかない。そして我々は、社会を営むのに、このやうな欺瞞以上のものを、まだ発見してゐないのである。
 最後にアテナに残された仕事は、ぶつぶつ不平を言ふことをやめない復讐の女神たちを宥めることだ。「お前たちもそんなことだけをしてゐたのでは嫌はれるばかりだ、人を許すことも覚えたらどうだ」。
 驚くべきことに、この説得が効を奏して、復讐の女神は慈しみの女神に変貌し、劇はめでたしめでたしで終はる。
 これについても、そんなんでいいのか、と思はず聞きたくなるかも知れない。しかしここにも一定の智恵があることは認めざるを得ないと思ふ。万人が納得する正義が実現し難いとき、人間に(この場合も神を含む)できることは、許すことだけなのだ。そのはうがまだしも、ずつと憎しみと争ひが続くよりはいい。もちろん、いつでも、誰でもを、許すわけにはいかないのであるが。

 以上は「オレステイア(オレステス物語)三部作」と呼ばれる作品群の締めくくりなのだが、オレステス個人の影はひどく薄くなつてゐることは認められるであらう。彼は無責任なわけではなく、恐ろしい女神たちに悩まされたり、裁判の被告になつたりと、充分に自分のしたことに対応してゐる。しかし、本当の問題はそこにはない。
 不完全な人間が作る社会は、やつぱり不完全だといふ実情が露はになつた。その狭間に落ちた者は、もはや自分自身の運命の主人として振る舞ふわけにはいかない。彼は英雄ではなく、犠牲者になるしかない。たぶんそれがわかつたからであらう、後代の、シェイクスピアやラシーヌなどの悲劇作家は、このやうな者を主人公とはしなかつた。
 現代では悲劇のヒーローに足る人物を見つけ出すことは難しいであらう。一方、オレステスの場合のやうな不条理に陥る者なら、ゐる。橋本忍脚本の「私は貝になりたい」は、テレビドラマの傑作として名高く、リメイクもされ、近年映画化もされた。戦地で、上官の命令に従つて捕虜を射殺した元日本軍の二等兵が、戦後その行為のために戦犯となり、アメリカ軍によつて死刑に処される。これはフィクションだが、事実同じやうな目にあつた人は確実にゐる。
 深海にゐる貝ではなく、人と人のあひだで生きなくてはならない人間は、時として、悲劇作品以上の悲劇を生きなければならない。できれば救済せねばならぬのは、かういふ人間たちであらう。

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