由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

近代という隘路 その6

2011年07月25日 | 近現代史
メインテキスト: 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社 平成20年 平成21年第16刷)

サブテキスト: 石光真清『石光真清の手記三 望郷の歌』(中公文庫昭和54年初版 平成10年第11版)

 日露戦争の前提について、一番大雑把なところをまとめておこう。
(1)幕末以来、対外問題に多少とも関心のある日本人が例外なく、一番気にしたのは、北の超大国、ロシアのことであった。
 この国はその後ソビエト連邦と名を変え、現在は、いくつかの周辺国が独立してロシア共和国となったが、依然として日本にとって脅威であり続けている。
 ただし明治時代には、脅威ももっと切迫したものだった。戦争が今よりずっと簡単に起こる、帝国主義の時代である。クリミア戦争での敗北の結果、ロシアが領土拡張の野心を東方に転じたのは国際的に知られた事実であった。放っておけばやがて中国東北部、即ち満州と、朝鮮半島はその支配下に入るだろう。
 果たしてそうなれば、日本の独立もまた、決定的に脅かされる。これは、共通認識というよりは、常識に近いものとしてあった。
(2)明治三十年代の政府高官の大部分には、もう一つの共通認識があった。ロシアと戦争をしても勝てっこないない、ということである。国力に差があり過ぎる。しかし戦争以外に、上の状況を打開する手だてはない。それで明治三十七年(1904)には戦争になった。
 似たような事情は、大東亜戦争の開始時にもあった。ロシアを相手にしたときには、運良く勝った。厳しい見方をしても、負けはしなかった。アメリカを相手にしたときには、そうはいかなかった。すべては運、などと言うつもりはないが、その要素は確かにある。
 しかし、国政を預かる政府要人は、こんな言い訳を口にすることは許されない。想定外のことが起きても、想定しなかったことに責任を負わねばならない。それが人の世の習いである。
 それはそうと、日本の近代初頭の、この厳しい時代を生きた一般の日本人の意識は、例えばどのようなものであったか。私の関心事はそういうところにある。

 石光真清の手記は、一時埋もれかけたが、近年NHKがドラマ化するなどして、一般にも知られるようになった。そこですべて事実のみが語られているとは思わない。真清の手稿を整理して現行の形にした息子の真人が、どれくらい筆を入れたかも測り難い。それをも含めて、ここには、明治元年に生まれ、近代日本の動乱に密着して、数奇な運命をたどった一個人の生の息吹が感じ取れる。貴重な記録と言うべきであろう。
 日露戦争時の記録は、三巻目『望郷の歌』の前半部分にある。ここまでのところで、真清は、陸軍幼年学校を出て、日清戦争では台湾に出征した後、ロシア研究の必要を痛感して留学。やがて軍を休職してハルピンで諜報活動に従事する。日露戦争が始まると、予備役も召集されたので、実質的に日本の主力部隊となった第二軍の、司令部付副官となる。おかげで、日本軍の指揮とはどういうものだったのか、具に見聞することができた。
 大日本帝国陸軍の主な戦い方は、白兵戦だった。ロシア軍がべトン(コンクリート)で塗り固めた要塞の中に立て籠もっているときも、三十年式歩兵銃という小型ライフルを主力武器とした歩兵が突っ込んでいくのである。もちろん戦車などない時代だから、むき出しの、生身のままで。誰しもこのムチャクチャさには気づかざるを得なかった。真清は書いている。

 南山は大連、旅順に至る途上の最大拠点であった。見渡したところ、なだらかな丘陵であるが、山麓には幾重にも厳重な鉄条網が張りめぐらされ、中腹には強固な堡塁が二十数カ所も見られる。しかも山頂は要塞化されて、砲七十余門がわれわれに砲口を向けていた。十分に砲撃を加えてからでなければ到底手をつけられないと思われたが、わが軍には敵を沈黙させ進撃路をひらき得るほどの砲兵隊もなかったし、それほどの砲弾もなかった。

 それでも一応援護砲撃はあったものの、気休めにもならなかったようだ。強行突破を期して突撃する日本兵たちは、瞬く間にロシア軍の機関銃による一斉掃射で薙ぎ倒されていく。日本軍が機関銃というものを実際体験したのもこれが初めてだそうで、装備からして、近代戦争を戦うにしてはあまりにも危ういものがあったことは明らかであろう。
 この日、真清は、第二軍参謀本部から、旗下の第一師団にくだした命令を口達する任務を受ける。その命令とは「全滅を期して攻撃を実行せよ」。
 こういうのを作戦とは言わないであろう。しかし、命令された下士官たちは、不条理は感じても口には出さず、黙々と攻撃を続行した。ために、明治三十七年五月二十六日払暁に始まったこの戦闘での戦死者は夕方の六時までに四千人を超えた。これまたそれまでの日本軍の常識を越えることで、他所の軍首脳からは「四百のまちがいではないか」と言われたというエピソードが残っている。
 第二軍司令官の奥保鞏(おく やすかた)は、やむを得ず、進軍を暫時止めて、夜になってから再度の突撃を試みる。すると意外なことに、南山は簡単に陥落した。ロシア軍は、このとき既に旅順方面に退却していたのである(以上P.15~18)。
 このようなことは、この後も何度か起きた。ロシア軍としては、日本軍の、兵士の命などなんとも思っていないような肉弾戦は、全く常識はずれであり、度肝を抜かれたのは事実であるようだ。そこで、そんなやつらはいずれ自滅するだろうから、常にまともに戦うことはない、捨てられる場所はさっさと捨てたほうが得策だ、という判断が働いたろう、と、これは真清の推測である。
 そうかも知れない。そうだとしたら、白兵戦も、無謀ではあっても、このときは無意味ではなかったことになる。西洋合理主義が、日本の非合理と初めてまともにぶつかって、独特の化学変化を起こしたようなもの、とでも言えるだろうか。
 もちろんいつもそうなったわけではない。旅順の場合のように、ロシア側も徹底抗戦に出たら、日本軍の犠牲はさらに飛躍的に大きくなる。この過程で、日本も、要塞近くまで塹壕を掘り進めて、その中から攻撃する「正攻法」を学び、実行するのだが、それまでは、白兵による一斉攻撃を繰り返すしかなかった。
 これに当たった第三軍司令官乃木希典は、戦後神格化されたが、近年では司馬遼太郎から、「殉死」や「坂の上の雲」などで、参謀長伊地知幸介とともに、軍人としては無知無能であると、さんざんこきおろされることになった。が、この無策さは彼らだけではなく、日本軍全体の問題だったことは、上に見た通りである。

 旅順が日露戦争中第一の激戦地になった理由は、現在、歴史好きの間では周知であろう。
 旅順湾内には、ロシア太平洋艦隊の主力が停泊していた。やがて日本海へ出てくるバルチック艦隊(正確には太平洋第二、第三艦隊)とこれが合流したら、その戦力は日本の艦隊の倍以上になり、勝ち目がなくなる。負ければ、日本海の制海権はロシア側に奪われ、大陸の陸軍に補給がつかず、正しく戦わずして立ち枯れとなり、日本の敗戦はもう必須である。バルチック艦隊が来る前に、なんとかしておかなくてはならない。
 海軍からのこの要請を受けて、乃木以下の第三軍による、最終的には七割の戦死傷者(のべ十三万人の兵力のうち、戦死だけでも一万五千人以上)を出す壮烈な戦いが展開された。
 しかし、上の事情からすると、極論すれば旅順要塞などはどうでもいい、旅順湾を一望に見渡せる場所、例えば二百三高地を占拠して、そこに大砲を据えて、太平洋艦隊を撃破すればそれで済む。しかし旅順攻略戦開始当初、日露双方ともにこの認識はなかったようだ。海軍は、自前で実行した、三度にわたる旅順湾口閉鎖作戦などに失敗してから、陸軍にこの作戦を依頼するのである。
 そのための最適な場所として二百三高地に目をつけたのは、参謀総長児玉源太郎か、海軍参謀の秋山真之(両者とも「坂の上の雲」で称えられている人物だ)か、定かではない。ともかく、日本海海戦(明治三十八年五月二十七日~二十九日)が近づいた三十七年末までには、海軍では焦眉の問題であるとされた。
 加藤葉子は、三十七年十一月三十日付けの、秋山が乃木に出した手紙を引用している(P.148)。「実に二〇三高地の占領いかんは大局より打算して、帝国の存亡に関し候えば、ぜひぜひ決行を望む」「旅順の攻略に四,五万の勇士を損するも、さほど大なる犠牲にあらず」
 加藤は、このようなことを実例として、日本には早くから陸海軍の緊密な連携があったとするロシア軍人の見方を紹介し、賛意を示している。う~ん、どうですかね?
 たぶん確かなのは、乃木希典個人が、海軍をどう思っていようと、大本営など、日本軍の中枢が決めたことなら、黙ってそれに従うしかないと感じたことだ。さらにその下には、「さほど大きな犠牲ではない」などと言われているのを知ってか知らずか、文字通り必死(必ず死ぬ)で戦う兵士たちがいた。

 日本軍のこのようなやり方への批判は、当時もなかったわけではない。石光真清の従兄弟で、早稲田大学の法学博士浮田和民(うきた かずたみ)は、いわゆる有識者として生前有名だった人だが、遼陽会戦の後で、以下のような評論を『時事新報』に載せたという(『望郷の歌』P.49~50)。

 遼陽の戦いは犠牲が多過ぎる。徒に前途有為の将卒を喪ってはいないか。(中略)日本の軍人は責任観念を誤解してはいないか。官吏なら辞職、軍人なら戦死によって最高の責任が果たされるように思っているのは誤りである。自分の職分、地位によって、責任の限度があることを知るべきである。その限度において、全力を尽したら、それでよいのである。負傷者、病者は、直ちに後方に送るべし、而して健全なる戦友に職務を譲るべきである。こうして初めて国家としての戦闘能力が発揮されるのであって、無理に死ぬまで戦わせるようなことは、名誉でもなければ、国家として奨励すべきでことでもない。

 戦地にあってたまたまこれを読んだ真清は、「誰が死にたくって死んでるものか!」と激怒する。そして、筆者が自分の従兄弟であることは隠して、同僚の副官連に回覧させると、意外と賛成者も多かったそうだ。日本でも、合理的な思考が完全に排除されていたわけではなかった証拠であろう。
 真清自身は反対の立場で、浮田を難詰する手紙を書き送っている。曰く、兵力でも兵器でもはるかに立ち勝っているロシアを相手に、日本がこれまで辛くも勝ち進んでこれたのは、司令官から一兵卒に至るまで、死力を尽くして戦ってきたからである。この兵士たちに、「自分の責任としてはこれくらいでよかろう」などと考えている余裕はない。それを、自分の職分を越えた余計なことをするから死んだんだ、とも取れる言い方は、まことに非人道的である、と。
 これに対する浮田の返事には、「自分等をして、このような、のんきな議論をなさしめる余裕を与えられたのは、全く責任感念の強い、誠忠なる軍人の賜であって、(中略)貴下は銃後の国民に、これだけの余裕のあることを知って満足してください」とあった。真清はこれを、怒っていいのか、笑っていいのかわからず、朝日新聞の従軍記者上野岩太郎(靺羯)に見せたら、「君の負けだよ……」と笑われて、返書を細かく引きちぎって屑籠に捨てただけで終わった、という。
 日本人が合理的な判断を最上としていたら、日露戦争も、大東亜戦争も起きなかったであろう。その結果歴史はどうなったか、それこそ想像を超える。現実に、悲惨きわまりない戦争を経て、現在の日本の平和と繁栄があるのは確かだが、かつての兵士たちの同時代人でもないのだから、「満足してください」とも言いかねる。このように呑気に議論を展開していても、かれらとどのような道でならつながれるのか、迷うばかりである。

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4 コメント

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Unknown (W.H.)
2011-09-18 08:18:48
「日本人が合理的な判断を最上としていたら、日露戦争も、大東亜戦争も起きなかったであろう。その結果歴史はどうなったか、それこそ想像を超える。現実に、悲惨きわまりない戦争を経て、現在の日本の平和と繁栄があるのは確かだが、かつての兵士たちの同時代人でもないのだから、「満足してください」とも言いかねる。このように呑気に議論を展開していても、かれらとどのような道でならつながれるのか、迷うばかりである。」
 
なるほどなと思いました。

私は、ひとり勝手に、つながっていきたいと考えています。
また、つながっている気でいます。

わたしは、近代の流れに棹差しながらも、時に逆流する潮を見つければ、また利用する気分をもっています。
むろん、手痛いめにあうのは覚悟なのです。それが私にとってはつながる道かも知れません。

私の直感では、
マルクス主義で若気のあやまちを犯した人たちが、今度は近代主義でおいらくの失敗を繰り返している。そのように思えてなりません。
ただそう感ずると、今は言いたいと思います。
返信する
W.H.様へ (由紀草一)
2011-09-18 22:45:55
 コメントありがとうございます。

 おっしゃることは難しくて、私はまだ何の結論にも達しておりません。
 ただ、こちらも直感で申しますと、反近代とか超近代とか、ポストモダン(近代後、ですな)とか、広い意味ではみんな「近代主義」の変種なのかな、と。
 これから、気長に考えていきます。
 ですので、今後とも宜しく。
返信する
Unknown (W.H.)
2016-01-26 18:14:31
少し余裕ができたので書きたいと思います。
どこに書いたらいいのか迷ったのですが、ここが適切であろうかと見当をつけました。
由紀さんの2015-07-24 00:04:50のコメントは以下のようでした。

>「「勇気過剰たる」日本軍を愛するのです。またかなしく思うのです」は、W.H.さんらしい純粋さに溢れたところで、好感が持てます。しかし、ずっとひねこびた私は、これはジェンダー・ハラスメントというよりは、タテマエであったろうと考えます。「武士は喰わねど」なんとやら式の。まあ、戦後、このような、タテマエを保つための「痩せ我慢」は、おっしゃる通り、嘲笑の的になり、これまたおっしゃる通り、それがいいとばかりは思いません。それでも、ノスタルジー自体は決して建設的ではない。それには同意していただけますか?
 やっぱり、これまでのやりとりの繰り返しになってしまいますな。ただ、沈思黙考より、言葉が外部へ出る分、いくらかでも前進しているような気がします。


 私は「これまでのやりとりの繰り返し」に関心があります。また反復が好みです。そこで「ノスタルジー自体は決して建設的ではない。それには同意していただけますか?」というところから始めましょう。私は概してノスタルジーを建設的でないなどとは考えないのです。少なくとも郷愁を捨てなければならない必要を感じません。それは、過去の積み重ねのうちにしか私はないし、未来もその中でしか考えられないという単純な事実を念頭においてです。また、鑑とする過去は、必ず感情的なものとして現れ出るということに依拠してです。私だけでなく、多くの人が過去との感情的なつながりの中で日本と日本の先行きを見ているのだろうと思います。むろん、過去を忌避する概して不幸な、どちらかといえば少数の人がいるだろうことは推測できるし、のっぴきならない現実の要請によって、既往を断ち切ってしまわなければならないケースがあるのもわかります。しかし、そうは言っても大切なものは予測を越えることが多々ある未来だけではない。羅針盤の針にその方位を与える磁極は過去であると私は思っています。むろん、だからこそ由紀さんも歴史を語っているのだと思います。それに対し、未来志向という態度は、その志向することには間違いはないものの、なにか曖昧なところがある。将来の姿を、高の知れた人の知能が、己れの予想できる範囲内で空想する、極めて安易なものが多いのではないかと考えています。たとえば、「自由」であるとか「平等」といった抽象的な言葉から連想する漠然とした夢、または、幼年時に見た物語・映像などを基にした貧しいイメージが主役になっているのではないか、と疑うのです。どうしたって未来というものは、畢竟過去の鏡でしかないからです。そして悪いことには、その安易なイメージから生まれた理想は、往々危険きわまりないものともなりうる。さて、私は、ドイツ語のオリエンティーレン(方向づける)という言葉が、多くの場合「~を手掛かりにして」という前置詞句とともに用いることをふと思い出したのですが、未来への「方向づけ」は、それが物語であろうと何であろうと既往へのエロス「を手掛かりとして」生じる。だからある程度、その「手掛かり」はリアリティのある確実なものでなければならない、と考えます。その点で「昔はよかった」はたいへん貴重な言葉ではないでしょうか。ですからその既往の物語をどう作るか、どう織り上げるかが重要になるわけです。その物語には、「昔、これこれの恥かしいことをした」「触れることもおぞましく感じられる」苦々しいストーリーも含まれるでしょう。どう粉飾しようとしきれないものも銘記されなければならない。それらが隠蔽され、忘却されがちだということは重要な事実です。しかし、それと同様に、過去の美しい「物語」も重要である。歴史が客観的であると同時に主観的であるべきことは前にも述べたことがあるように思います。

 このことに関連して、何年前か、由紀さんとご一緒した人間学アカデミーでのやりとりを思い起こします。たしか少年法の問題を扱っていたパネルディスカッションであったと記憶します。そのとき、由紀さんもこの件に関して発言されたと記憶しますが、多くのパネラーが「昔はよかった」に否定的な見解をとっていました。滝川一廣氏の発言のメモが手元にあります。滝川氏は、<「昔は良かった」という見方が普遍的・伝統的であり、進歩史観の方が少数であろうか。「昔は良かった」は「若いころは良かった」から来ていると思われる。安倍政権は安易に「昔は良かった」と言う。>などとコメントされていたようです。

 また、小浜さんは『大人問題』で以下のように書かれています。
   たしかに昔は、そういうよい意味での濃密さや「ぬくもり」に満ちあふれていたような気がしてくるのだ。だがもちろん昔がそんなによいことばかりであったはずはなく、私たちの多くがその特有のきつさから逃れたいと思ったからこそ、現在のような社会を作り上げてきたのだということを忘れてはならない。

 確かに滝川氏が言うように、「昔は良かった」には「若いころは良かった」が色濃く投影されているのだろうと思います。また小浜さんが書かれているように、過去には現在以上の「特有のきつさ」があったでしょう。とは言うものの、過去に、必ずしも客観的な「良かった」がないこともないであろうし、現在にも鋭く強い「固有のきつさ」があるはずです。大切なことは、何よりも共有される、そういった「良かった」という思いが世代の慣習、価値観を作り上げているのだという事実ではないでしょうか。現代のような極まりなく進展するロボット時代にあっても、方向づけ(オリエンティールング)の「手がかり」は過去にあり、それ以外に求めるときは注意が必要だと思うのです。そして、その注意とは殊に「進歩」に類した観念に対するものであると言えるでしょう。

 たとえば、私が、四十代になって小学校の臨時任用教員になったとき、はじめに聞かされた言葉は「昔の学校と同じと思ったらいけない」ということでした。その意味するところはよく分かりましたが、私が数カ年にわたり、小学校で教員を務めながら指針としたことは、結局「昔の自分の学校生活を幸福にしたもの、それを児童に与えられたら」ということであり、それ以外にはあり得ませんでした。流行変化するものに適応していくことは必要なことでしょう。安全への配慮の徹底、各家庭の意向の尊重、より平等な児童の扱い、公務員の立場の変化、等々の時代の要求を無視することは決してできない。しかし、そうだからと言って、その中に実現すべき理想が内包されていると考えるべきではないでしょう。時代の希求しているものは玉石混交であり、個々の欲望の交錯であり、その総合的な判断は簡単でないと思われます。最終的な核は私固有の思いでしかありえない。そして、その固有の思いと言っても、世代が共有する「よかった」から大きく逸脱することがなければいいのではないでしょうか。われわれは「変化」というものにおもねる必要はないと思います。変わっていく方向が何か「良い」ものであるとは限らないからです。世代間でぶつかることは忌避するべきものではなく、必然であり,また必要なことではないかと思うのです。おしまいに判断するのは次世代であってもです。

 また、ある種の言い訳の範型、すなわち「こう言ったからといって、昔を懐かしんでいるわけではけっしてない」といった決まり文句、これはいったい何に対する弁明なのだろうか、と考えます。回顧・郷愁に浸って済みません、と悪いことでもしたかのように語る。それは、さながら現代の一つの強迫観念であるようです。この世には、とにかく進むしかない領域があるのも確かです。生き馬の目を抜くような世界がある。それは科学技術にかかわる事柄、また商売に関する事柄などがそうでしょう。時代の先を見越すことがたいせつな意味をもっている。しかし、あらゆる領域がそうであるわけではありません。家族のありかた、地域のありかた、男女のありかた、個人が生きるにあっての規範、そうした文化的な価値には世代独自のものがある。

 昔。ある討論番組で、右翼の代表が「理想とする時代はいつですか」と聞かれ、即座に、確か明治四十年代を挙げたのを思い出します。その躊躇することのない断言に印象を深くしたのでした。むろん、このような理想の提示が、極めて恣意的なもの、個人的な物語に依拠するものであることは分かります。しかし、何かしらの態度・立場(オリエンティールング)はこうしたものから決まるのだと思います。繰返しになりますが、それに対し、未来が大切だというような人の多くは、もっと漠然と美しい世界の物語を考えているのでしょう。しかし、それを現実にすれば案外グロテスクな化け物ともなるだろうと私は予測するものです。右翼のいうような「昔はよかった」の方が案外、単純であり、現実的で安心であり、それに対し、由紀さんから感じ取られる「進むに任すしかない」といったような、理解を示すような言い方にかえって危惧を感ずるのものです。由紀さんは、どうなのでしょう。いわば「変化の今を生きる」といったような言い方をされるのでしょうか。また、過去は反省の材料に過ぎないと考えるのでしょうか。時代の流れに棹さしていくのと、私のように無駄な抵抗をするのとでは、ずいぶん異なる在り方であるように思われます。 (続く)
返信する
Unknown (W.H.)
2016-01-26 18:17:42
(続き)

 戦後の思索が進歩主義との対決だったこともあり、進歩に関して何かしらの譲歩を余儀なくされた世代があったことは想像できます。何か未来に確たる目標があって、そこに行きつくことが我々の生きる意義であるかのような言説が盛況だった時代、高度成長、また科学・産業技術の急進展のなかで、循環型の時間などとても考えることができなくなった世代には、進歩という観念への譲歩が不可欠だったろうと推測します。いや、今でも目くるめくITによる世界の進展というジェットコースターに乗っているようです。しかし、繰返しますが、既往の認識の中にしか今の私たちがいないのもまた明らかなことです。いや、既往の中にこそ我々は我々の普遍を見出すように心がけるべきではないでしょうか。日本の過去の歴史の中にこそ日本の未来を限定するものを見ていくべきだと言いたいわけです。夢があるとしたらその中にあるとするのがより確実なものの見方ではないか。むろん、先ほども言いましたように、不確実性という大きな前提のうちにあってです。

 世の中は時々刻々と移っている。それは確かなことです。ただ、よい方向へなのか、それとも悪い方向へなのか、それが分からない。人がよい方向へ行こうと思う心の向日性は認めたいと思うけれど、それが教養小説(ビルドゥングス・ロマーン)よろしく線状に進展していくのかどうかは分からない。万事塞翁が馬と言ったら言い過ぎかもしれませんが、より高い視点に立った時、発展してきたのだと簡単に言うのは危険であると考えます。「歴史の狡知」というヘーゲルの言葉が語るように、どこへ行くかは我々には見えにくい。「特有のきつさから逃れたい」と思った、その思いがまた別な「きつさ」を産んでいるかも知れない。それにまた、個々の人びとの切実な状況、思いからだけ歴史は進んでいるわけでもありません。つまり、常に近代主義的なイデオロギーが抽象的なかたちで時代を牽引し、後押ししてきたことに目を向けなければならない。しかして、そのイデオローギッシュなものに抗する方途は決して「昔はよかった」批判ではないように思うのです。

 ここで「旧日本軍の過剰なる勇敢を愛する、かなしく思う」ということが、単なるノスタルジーとして排斥さるべきものなのかと問うてみたくもなります。もう二度とやってこない甘い幻影、あるいは悪夢を追っているのかのように、由紀さんの言葉は私の耳に響きました。勇敢や名誉などといった徳は、今後、郷土資料館へでも行かなければお目にかかれなくなるということでしょうか。でも、そうは言っても、それは現に生きている父や伯父の世代の出来事でもあります。我々の父や伯父がいまだに繰り返して語る直近の出来事でもあります。とすれば、やはりわれわれの「現実」ではないのでしょうか。戦争の残虐、悲惨、不合理の側面ばかりに目を向ければ、現実を直視していることになって、その勇敢、名誉を語れば、戦争オタクのファンタジーとなるのではおかしなことです。この項で由紀さんは「かれらとどのような道でならつながれるのか、迷うばかりである。」と書かれています。私は「勇気過剰たる日本軍」への愛惜・悲しみにつながっていきたいと思います。歴史は理性的にだけ見るものではない。以上が、「ノスタルジー自体は決して建設的ではない。それには同意していただけますか?」という提案に接して思ったことです。


 さて、本題に入りましょう。といっても一言に過ぎませんが。私と由紀さんとの間にあるという相異、「やっぱり、これまでのやりとりの繰り返しになってしまいますな。」といったこれまでのやりとりの内実が、きっと「ノスタルジー自体は決して建設的ではない」という由紀さんの言葉の背景にあると見当をつけて書いています。そして、それは最終的に、「近代化の流れは不可逆だ」という由紀さんによって繰り返されたテーゼに関係するのだろうと推測します。私は、何度か、その言葉に対して異論を唱えた覚えがあります。またそれは以前、竹田青嗣氏、西研氏の口から繰り返されたテーゼでした。また小浜さんも「近代個人主義の不可逆性」ということを言われていますし、また他の識者が語っているのも耳にします。惟うに、このテーゼはフランシス・フクヤマの名著『歴史の終わり』(1992年)の影響下に始まった言い方であるのではないか、そんな風に漠然と考えています。西研氏はもちろんフクヤマが依拠しているヘーゲルの研究家ですから、もともとそういった見方には慣れ親しんでいたのかも知れません。しかし、リベラル・デモクラシーを最終的なものとして語ることが出来たのは、ベルリンの壁崩壊以前ではないでしょうから、同書を契機として澎湃と起こった新たな進歩史観の亜種ではないかと考えています。むろん、進歩をもって世の中を見ていく考え方は、近代とともに始まり、きわめて一般的に流布していることは勿論のことです。そして、もちろん、トクヴィルが『アメリカの民主主義』で語っていたものと同様、フクシマの議論自体が、いわゆる近代主義的な進歩史観とは根幹のところで異なっていることは認めた上でですが。

 その上で私は、そう簡単に歴史の方向性というものを語っていいものだろうか、という昔ながらの懐疑を反復したいと思うのです。リベラル・デモクラシーというものはもう間違いのないものだとする見方、不可逆であるとする通念、それは、私には高々現代の数十年、もしくは近代の数百年の歴史しかもっていない流行思想のように思われるのです。近代というものが、多くの幸運な条件に支えられて現われているものと捉えることは出来ないのでしょうか。科学技術の比較的順調な発展、人口の増大を十分支えるだけの農産物を支える気候、まだ世界大へと進展しきっていない自由・平等と言った理念への素朴な信頼、いくつかの条件に支えられて生ずる歴史の動きととることは出来ないのか。むろん未来を予測することの重要性は言うまでもないことですが、それが知らず知らず新たなイデオロギーを招来していないだろうかということです。

フランシス・フクヤマ(もしくはコジェーブ=ヘーゲル)は自然科学の発展の不可逆性から、また人間のもつ認知願望から社会、歴史の流れは定まっているとします。またヘーゲル以前より、多くの識者が進歩を語っているわけですが、それをほぼ確定した議論としていいのか。科学・技術の発展と社会の発展との相関性は明らかであるとしても、どうしてそれがリベラルな民主主義しか結論しないのか。フクヤマには大いなる敬意を表するものの、彼の議論だけから納得することはできません。近時の傑作映画として、私は『マッド・マックス デスロード』を挙げたいと思うのですが、あのような娯楽映画の世界がそのまま現実となる確率は低いとしても、不可能ではないとしか言えないのではないでしょうか。未来は全く見当がつかない。その可能性の広がりに対する「感性」が世界的に弱まっているのではないか、と思うのです。無論、由紀さんのみならず多くの著名な識者がそう言っているのですから、私の意見など一笑に付されるべきものかもしれません。しかし、我々の未来はどうなるのでしょうか。近代社会は最後のおしまいに行きついて、一種の熱平衡のような状態が生まれるのか。もしくは新たなビッグ・バンが生じるのか。先はなにも分からない。ヘーゲルは神を人間の造り出したものと考えましたが、そのヘーゲルもなお神の掌中で遊んでいた可能性は残っています。未来の展望、ことに近未来の予測は非常に重要なことであるけれど、「近代化は不可逆だ」と簡単に語る時、その言葉にからめとられるものがあるような気がします。

 「近代化の流れは不可逆だ」と由紀さんが語るとき、そこに「上昇」という意味での進歩の意識は含まれていないのかも知れません。ただそこに、由紀さんと私との間に何かしらの懸隔をもたらしているものがあるのかも知れないと思って書いているのです。私は、この言葉からは「近代主義」のなし崩し的な肯定以外の何ものも生まれないのではないかと考えています。いわば近代化という大きな流れに掉さすだけの言葉であると思われるのです。福田恒存につながる由紀さんの批評の主旨が近代化の肯定にあるとは思いませんが、「近代化の流れは不可逆だ」と断定して語る時、私は、いったいどういった近代批判がそこから可能になるのか見当がつかなくなってしまうのです。私は保守思想というものを、彼方に設定された目的地へ急ごうとする、その流れを抑制する思想であると考えています。時代の流れに対してブレーキをかける役割をもつものです。「近代化の流れは不可逆だ」と言い切ってしまえば、それはもうアクセルを踏んでいるのと五十歩百歩であるのではないのか。抽象的な議論と思われるかもしれませんが、私にとっては切実な疑問なのです。以上が短いながら本題です。参照すべき由紀さんの文献その他がありましたら、それを指示してください。

 由良のとを渡る舟びとかぢを絶え
 行き着くところまで行くがよいと言うのでしょうか。
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