由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

小浜逸郎論ノート その3(共同態・上)

2024年03月01日 | 倫理


メインテキスト:小浜逸郎『倫理の起源』(ポット出版プラス令和元年)

 初期の著作『男はどこにいるのか』からいきなり晩年の大著に移るのは、最近これについての勉強会を開催したからです。それで久しぶりに『倫理の起源』を読み返して驚いたのは、書かれていることの九割方に同意できること。それなのに、初読(小浜ブログ「ことばの闘い」の連載記事)の時から感じてきた違和感はなんだったのか、あらためていぶかしく思えました。今回はこれにこだわってみます。

Ⅰ.善の在りどころ
 小浜の最大の意図は明瞭で、西洋の大哲学者たちが、倫理の根拠を、善のイデアだの我が内なる道徳律だの、やたらに高いところや深いところにおいてきたものを、身近で具体的な人間関係の場に降ろそうということである。
 その中でも、あまりに卑近に感じられるからだろう、従来まともにとりあげられることもなかった男女の性愛関係に重きを置こうとする指向は、独創的と呼ばれてよいかも知れない。
 それ以外だと、一般的に、人間にとって最も重要なのは具体的な共同性であるのは当然すぎる話だ。人間は人間から生まれるだけではなく、普通は家庭という最小の共同体内で、人間に育てられなければ人間にはなれない。共同性(他者とのかかわり)以前に個人はない。倫理(人としての正しいふるまい)もまた、人の間にいればこそ必要なのである。

「善」とは、そもそも共同存在としての人間の生活を離れたところに自立的に成り立つような「観念」ではない。それは人間生活がうまく回っていることやうまく回そうと努力していることを示す「現実」の表現である。(P.077)

 ならば「善」は、なんら特別なことではなく、家庭も社会もひっくるめた共同体が無事に経営されている、それを支える日々のルーティンの中の「ひそやかで慎ましいもの」(p.079)であるはずなのだ。しかし、しばしばそれでは足りないと考えられて、それは簡単に錯覚だとは言えない。
 すると、むしろ問いは、なぜことさらに、共同性以外の人倫の根源を、特に西洋の思想家たち(東洋にもなくはない)が、探してきたか、という形にすべきではないだろうか。
 小浜が置いてくれた里程標を辿って、この問いに自分なりに向き合おう。
【実は、つい最近まで本当に忘れていたのですが、以下の記事は以前「倫理の起点」として書いたものと内容はかなり重なります。ただ今回は、ここから自分なりの一歩進めたいという意欲だけははっきり自覚しましたので、それに沿う形で編み直しました。】

Ⅱ. 国家の在り方
 近代国家は現在のところ最大の共同体だが、大きすぎて、全体を完全に把握することは誰にもできない。日本ぐらいの国になれば、国内でも、一度も行ったことのない土地のほうが多いだろうし、大部分の人とは一度も会っていないだろう。ごく普通の意味で(エロス的に)愛せるようなものではなく、「そこに属する住民の福祉と安寧とをいかに確保するかという機能的・合理的な目的意識によって支えられている」(p.418)ものなのだ。
 具体的には国家はどのような体制であるべきなのか。一見両極端が挙げられている。

(1)生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する(p.466)

 国家は国民の安寧秩序を守ることを第一の目的とすべきだ、ということなら、私を含めて、反対する人は現在少数だろう。ただ上の言葉を、個々人の幸福のためなら国家なんてどうでもいいんだ、というふうに取るなら、戦後の進歩主義と同じだということになる。小浜はそうではなかった。

(2)もし公共体としての国家が、外敵から己れを守るために個人の命を捨てることを要求する場合には、進んでそれに従わなければならない。(p.390)

 これはスイスの憲法の規定らしく、小浜自身が明らかに賛成しているわけではないが、反対はしていない。
 この二つはどのように両立するのか。

個体生命倫理そのものはなるべく貫かれるべきであるし、個々の個体生命の限界を超えて維持されるべきであるが、しかし絶対的ではない。いずれ誰もが死ぬということは、すべての人がよく知っているので、(中略)この倫理をただ何よりも優先されるべきものとして前面に押し出せば済むのではなく、ケースによっては死んでも仕方がないという諦念をいつも傍らに引き寄せておく必要がある。(p.393)

 「ケース」は、〈自分の属する共同体を守るために必要なら〉というのがすぐに頭に浮かび、だから(2)のような要求も出てくる。しかしこの要求が正当であり、従うしかないとすれば、「よりよい関係を築きながら強く生きる」のほうは損なわれる。これはアポリア(解き難い矛盾)とするしかないと思う。

(前略)公共性という概念そのものは厳として存在する。それは、もともと私的であることと一対の関係にある概念だから、抽象的であることを免れないのである。つまり、この種の関係概念は、ある事態(たとえば家族生活)が他方の事態(たとえば国家活動)に比べてより私的かより公的かという相対的な位置関係で把握するほかない概念である。言い換えると、私的・公的という対概念は、互いに他方の「否定態」としてしか成立しない。 (p.395)

 それでも小浜は後のほうで、このアポリアを解くことはできるという考えを示した。そのモデルとして採り上げられたのが百田尚樹の小説「永遠の0」。これについては前にも述べたが、未読の人のために以下に粗筋を書いておく。
 主人公は宮部久蔵という大東亜戦争中の軍人であり、達人の域に達した戦闘機乗り。にもかかわらず、戦場にいて「生きて家族の元へ帰りたい」と公言して、物議をかもす。戦局が悪化し、彼が指導した若いパイロットたちが特攻によって散っていくことが重なるにつれて、罪の意識からの葛藤に追い詰められていく。最後には彼自身が特攻に志願するが、同時に進発する隊員の中にかつて宮部を庇おうとして無茶をした大石がいた。宮部は自分が乗る予定の機に不調があるのを知って、口実を作って大石の機と交換し、自分は無事(?)米艦に突撃して戦死する。大石は、エンジントラブルのために無人島に不時着し、帰還する。この場合に限って、特攻から生還することが認められていたのだ。そして終戦。大石は帰国し、宮部の妻と面会、やがてお互いに行為を抱くようになって結婚、彼女と子どもとを守る。宮部が家族とした約束は、このようにして、大石によって果たされた、とみなせる。
 感動的な話である。お伽話としては。「単に戦前・戦中をひたすら軍国主義が支配した悪の時代と見る左翼的な平和主義イデオロギー」と「その左翼イデオロギーの偏向を批判するために、日本の行った戦争のうちにことさら肯定的な部分を探し当てたり、失敗を認めまいとしたりする一部保守派の傾向」という「戦後における二つの対立する戦争史観の矛盾を止揚・克服している」(以上p.445)とも言えるかも知れない。
 しかし、現実には。上の梗概の、「最後には彼自身が特攻に志願する」以下の部分の、偶然の連なりを考えれば、宝籤の特賞に連続して当るほどの確率だから、こんなことの実現はほぼ不可能だな、と自然に納得されるのではないだろうか。
 お伽話そのものも、ありがちなご都合主義も軽蔑はしない。そこには人間の時代や場所、さらには根本的な人間の条件をも超えたいとする切ない願望の現われである。それが傲慢な駄法螺にはならないのは、語るほうと聞くほうに、「世の中、そう都合良くはいかないがな」という諦念があればこそだ。
 結局、公と私とは、「互いに他方の「否定態」としてしか成立しない」のであれば、(イギリスの王家の紋章に描かれた王冠を支えるライオンと一角獣のように)、決して完全には相容れず、争い続けるまさにそのことによってこの世界を保っているということだ。
 ならばまた、個々の場面では、どちらかがどちらかのために犠牲になることを完全になくす術はない。この場合、弱い立場の私・個人のほうが、犠牲になるべく強いられることが圧倒的に多いのもごく自然であろう。
 できることは、「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きる」ことこそ人間が望み得る最高の幸福であり、簡単に無視されたり毀損されることがないように心がけていく、ぐらいではないだろうか。これすら、けっこう難しいのだ。

Ⅲ. 自己を支えるもの
 戦後の日本は、「個人の命を捨てることを要求」することはないだろう。少なくとも、露骨には。(個人の)生命至上主義は、普段敢えて頭に上ることさえないぐらい我々の常識になっている。とりあえず、結構なことと思う。
 国民が命懸けで国のために尽くす場面の代表はなんといっても戦争、壮年男性であれば必ずそこに参加することを義務とする、つまり徴兵制は、現在の先進国ではたいてい、実質的になくなっている。しかし、軍隊はある。徴兵制に対して志願制で。日本でも(自衛隊は軍隊かそうでないか、なんぞという面倒な議論は置くとして)、以下のような誓約をしてから国防の任に就く。

事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います。

 つまり、国家から与えられた責務を完遂するためには一身を擲つこと、するとかなりの確率で「身近な者たち」の「よりよい関係」を失うことまで要求できるのは、事前に「それでいい」と約束した人だけになる。最初に個人の決断が必要とされている。
 いや、最初ではない、そもそもある個人がそのような決断に至るまでには、彼の過去の共同性に由来する価値観や、今後の共同性をうまく保っていくための配慮(だいたい、日本国憲法第九条がある以上、日本は戦争なんかしない、だから、兵士として危険な目に合うなんてことは実際はないんだ、と予想するような配慮まで含めて)が、決定的な働きをしているはずだ、と小浜的な立場からは言うだろう。
 それに間違いはないのだが、いずれにしろ個人の意向はあり、それは無視できない、というのは民主主義国家の重要な前提、いやタテマエである。
 そうでなくても、人生には選択がつきものである。人がある共同態の中でけっこう不満を抱えていようと、まずます幸福にすごしていようとも。その選択の基準もまた、共同体から得た価値観にあるが、個別具体的な事態は決して繰り返されることはないのだから、結果は完全な予測は不可能であり、『人間は時間の中でたえず新たな「決断」と「行為」をなしていく存在』(p.304)であるからこそ、人は絶えず不安を抱えずにはいられない存在である。
 本書には、妻が難産で苦しみこのまま出産を続ければ母体も危険である、と言われた場合が例にでている(p.388)。このように直接に生死に関わる問題以外に、介護が必要になった老親を施設に入れるか在宅介護にするか、いつどの相手と結婚するか、転職するかしないか、家を建てるかマンション住まいを続けるか、などなど。
 念のために言うと、その問題が各個人及び家族にとってどれほど重い問題であるか、まで含めて、よそからは窺い知れない。自己責任なる言葉は好きではないが、何かを選んで、何かを捨て、何かを為すのは、個人であるしかない。
 ただ、小浜はこここで、それでもやはり、共同体への信頼感(これこれをやれば、家族や知り合いに認められる、少なくとも非難はされない、といった)がなければ、人は何事も決断し得ず、何事もなし得ない。つまり、人は不安であるからこそ、共同体内部の信頼が必要となる、としている。ここは非常に微妙なポイントなので、後で改めて考える。
 いずれにしても、現に決断して、その結果を受け止めねばならないのは個人である。選択がうまくいかなかったと感じられたときには、であることによって、そのを物心両面にわたって産み出した共同性が実現されている、という幸福な一体感は揺れて、単独者としての私が顔を出す。
 大前提として、小浜は、身近な人間関係、即ち彼の言うエロス的関係以外は、国家も、自由で自立的した個人も、すべて人間社会を保つためのフィクション(人工物・仕組み・約束事)だと考えていた。私もそう思う。しかしそれがフィクションである以上、〈共同主観〉ではあっても、根拠が見失われたら雲散霧消してしまいかねない。その危険は常にある。

それでは、「個人の自由意志の結果としての行為」という、近代道徳の図式の基礎にあるフィクション性には何の根拠もないのかといえば、そうではない。そこにはフィクションを構成せざるを得なかったそれなりの理由がある。また私たちは、人と交わりつつ生活していくうえで、このフィクションを設定せずにはすまない。
 それは、簡単に言えば、私たちが関係を編みながら生活しているとさまざまな摩擦葛藤が生まれ、やがてそれが高じて取り返しのつかない不幸な事件や解決不能な不祥事が引き起こされることがあるからである。つまり自由意志から行為へという因果関係は、じつは逆なので、まず不幸や不祥事が起きた時に私たちの感情が混乱し、自己喪失や共同性の崩壊の感覚に襲われるのだ。それを何とか収拾して未来に臨むために、私たちは、「ある個人の行為は、その人の自由で理性的な選択意志を原因としている」というフィクションを必要とするのである。
(P.193)

 問題は、不幸や不祥事だけではない。我々庶民が生涯のうちに何度か直面せざるを得ない選択もそうであることは前述の通り。だいたい、crisisの原義は「分岐点」なのだ。
 あらゆるものがそうであるように、共同性も時間の中にあり、変化する。親も自分も年老いるし、幸せな性愛関係を結んでいた相手もあるとき突然心変わりする。そこに肉親の扶養義務や、結婚という制度の枠を嵌めて、外側から、あまりに乱脈にしないようにするのは国家の役割だが、内面的に、既成の共同性を超えてを支えてくれる存在への冀求も生じる。そこにまた、自分を大きな存在と思いたい心性も相俟って、永遠に確固不動の超越者・絶対者の概念が、人間社会の中に広く長く見出されるようになる。
 我々東洋人、特に日本人は、伝統的に、「自己喪失や共同性の崩壊の感覚に襲われ」ることが少なかったか、あるいは、それをことさらに問題視する心の習慣に乏しかったせいで、絶対なる観念とは縁遠かった。それは幸せなことと言ってよい。なぜなら、そんな観念が必要と感じられる共同体は、けっこう不幸なものだろうから。
 しかし、今後もその幸運が続き、例えば、私というフィクションを支えるための絶対者などの大フィクション(苦しいときに頼む神であっても)の必要が実感されないかどうか、そこまではわからない。

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3 コメント

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回答ありがとうございます。 (古代神話好き)
2024-03-07 12:52:51
回答ありがとうございます。さて、パターンの繰り返しなら未来も過去も一緒に見えてしまいますよね。計算機科学においては「意味」ベクトル(n次元空間座標)として解析できるようです。パターン化できない未来の原因(時間の非対称性)が分かればいいのですが。
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古代神話好き様へ (由紀草一)
2024-03-03 15:26:39
この話題、私には詳しいことはよくわかりませんが、人間の言動はかなりの部分パターン化可能な部分があり、それをアルゴリズムにすることができるなら、コンピューターが倣うことはできるでしょう。例えば翻訳機械で、文法規則でそれこそ機械的にある言語を多言語に直し、それを直した言語中の「自然」と感じられる表現に換えていくことなど、充分に可能、というか、もう実現しているわけですね。けっこうなことだと思いますよ、機械の説明書や商業上の契約書など、翻訳の労力も、誤解の可能性も減るわけですから。これは世界の進歩でしょう。
 すると、人間にしかできないことは? 真に人間的とは? となるわけですが、私はそれは、思考実験としては面白くても、その他では大した意味はないんじゃないかと思います。そんなものは我々の日常の体験とは元来関わりがないことであって。我々は、パターン化できない、ではなくて、パターン化なんて無意味な生き方をしていますから。もともと、「意味」こそ、人間的な、あまりに人間的な領域ですからね。
 そんなわけで、今日も明日もがんばっていきましょう。
https://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/f1e0777222f77135cf38bdb041349218
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明治維新サムライ心技一体 (古代神話好き)
2024-03-03 03:09:46
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズムは人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。ひるがえって考えてみると日本らしさというか多神教的な魂の根源に関わるような話にも思える。
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