由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

本の紹介 『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』

2016年06月24日 | 文学


 何かの宣伝をすることは、当ブログの趣旨に反します。もちろん、そんなことにこだわるのは私だけでせうが、それにしても、方針変更には三つばかり理由があります。
 第一に、本書は、現在出たばかりですので、紹介しがひがあります。第二に、私も少し編集を手伝つたといふ、個人的な事情による思ひ入れがあります。第三が、一番重要、といふかこれだけが重要なのですが、本書は凡百の解説よりすぐれた福田恆存入門になつてゐます。福田の数多の文業中から、そのエッセンスを最も鮮明に示すと思はれるところを抜き出し、箴言集の形にまとめたものだからです。
 ちよつと付言しますと、福田恆存は、生前保守派の親玉のやうに言はれ、今もその色眼鏡越しに見られがちなのは、何よりも日本の言論界・思想界にとつて損失です。保守派・進歩派の区分など、畢竟その時々の社会状況に応じた、便宜的なものでしかないでせう。私にとつて福田恆存とは、できるだけ根源にまで降りて思考し、結果よりむしろその過程を言葉で表現する営みのスリリングさとダイナミズムを、初めて具体的に教へてくれた存在でした。
 個々の意見に賛成するにせよ反対するにせよ、福田は、本腰を入れて考察するに値する思想家だといふことです。取つ掛かりとして、全体の簡明な見取り図があつてよい。今までにも福田のアンソロジーは各種あったのですが、本書は最もよくこの役割を果たし得てゐます。たいへん、おすすめです。
 この顰に倣ふなら、これ以上の贅言は慎むべきでせう。入門のそのまた入門、ではなく、「あつちに入口があるよ」と示す小さな道しるべとして、本書から、私が年来震撼させられてきた言葉を順不同で抜き書きしておきます。
【文章末の(  )には文章名と発表年代のみ記しました。現在の収録本などの書誌情報については、直接本書をご覧ください。】


◎私たちが真に求めてゐるものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起こるべくして起つてゐるといふことだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしてゐるといふ実感だ。

 なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはゐない。ある役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞する―――ほしいのは、さういふ実感だ。

 生きがひとは、必然性のうちに生きてゐるといふ実感から生じる。その必然性を味はふこと、それが生きがひだ。(以上「人間・この劇的なるもの」、昭和31年)

◎人間があるべきすがたで、あるべき場所に立つたとき――それは孤独にゐるといふことにほかならない。そこで、もつとも大事なこと――ひとはまづ孤独のうちにおのれの不幸を自覚し、しかも究極において、孤独においてしか幸福を発見する道はないと知るのだ。(「幸福への意志」、昭和23年)

◎ところで、自分のエゴイズムになぜ気づきたがらぬのか、なぜこれを正当化しようともくろむのか。自分に自信がもてないからだ。食ひたいものを食ひ、欲しいものを身につける自信がないからだ。きみたちはそれほど生きることことに自信を持てないのか。( 「白く塗りたる墓」、昭和23年)

◎毎日顔を突き合せてゐる親子、夫婦の間柄においても、人間は他者を絶対に理解出来ないのである。もし理解したとすれば、それは自分の理解力の枠内に相手を引入れ、力づくで手籠めにしてしまつたといふ事でしかありません。(「せりふと動き」昭和54年)

◎思ふに人を教育しようと思ふくらゐ強い我意はあるまい。政治家の権勢欲など、これにくらべれば何ほどのものでもない。(「日本にあるユートピア」、昭和27年)

◎理想や観念だけ見て、現実のみえぬものが甘いとすれば、その逆もまた甘い。真のリアリストといふのは、その両方がみえ、どちらにもとらはれぬ人間のことでありませう。( 「芥川龍之介Ⅱ」,昭和25年)

◎作家にとつて重要なことは、いかに自己を表現するかといふことではなく、いかに自己を隠蔽するかといふことであらう。(「自己劇化と告白」、昭和27年)

◎日本の進歩主義者は、進歩主義そのもののうちに、そして自分自身のうちに、最も悪質なファシストや犯罪者におけるのと全く同質の悪がひそんでゐることを自覚してゐない。一口に言へば、人間の本質が二律背反にあることに、彼等は思ひいたらない。したがつて、彼等は例外なく正義派である。愛国の士であり、階級の身方であり、人類の指導者である。(「進歩主義の自己欺瞞」、昭和34年)

◎“進歩”もいいことなのですが、“進歩主義”といふと、進歩を第一の価値とするといふことで、私は反対するのであります。ですから、“保守”はいいことですが、“保守主義”などといふことになると、保守を第一の価値とする。それに把はれるといふことで、私は、すべて“主義”がつくものは、眉に唾をつけてみるといふ習慣があります。(「日本における知識人の生き方について」大倉山精神文化研究所講演筆記、昭和55年)

◎個人の生命より大事なものはないといふ考へかたは、大変な危険思想であつて、それは裏がへしにすれば、任意に他人の命を奪つてもいいといふことになるのです。(「戦争と平和と」、昭和30年)

◎私達はたとへ軍人でなくとも、善き国民として「自分を超えたもの」即ち国家への忠誠心を持たなければならない、同時に、善き人間として「自分を超えたもの」即ち、良心への忠誠心をも持たなければならず、その両者の間に対立が生じた時、後者は良心に賭けて前者と対立する自由がある、たとへその自由が許されてゐない制度のもとでも。(「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」、昭和55年)

◎言論は空しい、いや、言論だけでなはい、自分のしてゐる事、文学も芝居も、すべてが空しい。が、それを承知の上で、私はやはり今までと同じ様に何かを書き、何かをして行くであらう。「私にとつて人生の唯一の目的はそれを生きる事です」(ラディガン)と言へば少々きざになる。詮ずるところ、幾ら食つても腹が減る事を承知しながら、やはり食はずにゐられないといふ事に過ぎまい。(「言論の空しさ」、昭和55年)

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