由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

別役実論ノート その4(赤い鳥の居る風景)

2020年08月12日 | 

上原正三画 赤い烏の居る風景 昭和41年

メインテキスト:『別役実戯曲集 マッチ売りの少女/象』(三一書房昭和44年)
        別役実『言葉への戦術』(烏書房昭和48年)

Ⅳ さりげなく過ごすこと

 雨が降つてゐる
 いろいろなものをぬらしてゆくらしい
 かうしてうつむいてすわつてゐると
 雨といふものがめのまへへあらわれて
 おまへはさう悪いものではないといつてくれさうなきがしてくる


 八木重吉の詩「雨」。「赤い鳥の居る風景」の主人公〈女〉のモノローグ中にそっと引用され語られたとき、強い印象が残り、忘れられなくなった。その時の私は、尾形龜之助同様八木重吉も、名前を知っている程度で、別役実が「八木重吉氏について」(初出は昭和42年企画66「赤い鳥の居る風景」初演時のパンフレット。『言葉への戦術』所収)で種明かしをしてくれているのを読むまでは、この詩自体を知らなかった。
 八木には他にも「雨」という題の詩があり、こちらのほうが比較的よく知られているようだ。

 雨のおとがきこえる
 雨がふつてゐるのだ
 あのおとのやうにそつと世のためにはたらいてゐよう
 あめがあがるやうにしづかに死んでゆかう

 別役は、八木重吉は不気味だ、という。そう言われれば、確かに。この祈りの真摯さは疑うべくもない。しかし、それはどこへ向うのか。まっすぐに、天へ? そうだとしたら、それがわかっているなら、どうして詩人は「うつむいてすわつて」いなければならなかったのか。「おまへはさう悪いものではない」と言ってくれる「雨といふもの」をなぜ希求しなければならなかったのか。
 彼岸のことは知らない、人と人の間のこの世では、特にこの日本という風土では、どこかに具合良く収まるためには、彼の一見静謐な祈りの背後の情念は強すぎる、とは言えそうだ。そのため、まるで宙に浮いた風船のようにふわふわと、行き着く先もなく淋しく漂っている。そんな印象になる。
 そのような自我、別役の用語を使えばタマシイ、のために文学がある。それが証拠に八木重吉も、純一な信仰生活の傍ら、詩を遺した。それはそれとして、「特にこの日本という風土では」の部分にこだわってみたい。
 
 初演の二年後、劇団青俳によって「赤い鳥の居る風景」が再演された時の上演パンフレット中の一文「イーハトーブ伝説について」では、日本におけるゲゼルフシャフト(堺屋太一の訳語だと、機能体的組織)の成立し難さが語られている。この一文は宮澤賢治論としても示唆的だが、賢治は私にとって別役実と同じくらい巨大な存在なので、ついでのように論評する気にはなれない。その他の部分を紹介しよう。
 「日本の精神構造に、「家」の概念はあっても「街」の概念はない事、つまり「自然村」の概念があって「自由都市」の概念のない事、これはこれまで多くの社会科学者が指摘してきた」。例えば大塚久雄はゲマインシャフト(自然共同体)・ゲゼルフシャフトなる概念を戦後日本で流行らせた一人だが、彼は日本の庶民に自由で自律的な個人の意識が乏しいことを問題視していた。そのような個人同士が約束(契約)して作った社会なら、無謀な戦争に全員がなすところなく巻き込まれる、なんてことはなかったはずだ、と。
 これを要するに、近代人の観点からして日本人はオクレている、見倣うべきお手本は海外の先進国にあり、ということで、それなら、知識人の役割は、日本の哀れな一般民衆の啓蒙・善導にある、という、まことに脳天気な結論になる。
 そう言われたくないなら、最低でも次の二点にはきちんと目配せすべきだろう。第一に、近代的個人なる観念は、観念としてなら確かに西洋にはあるようだが、実際に社会で呼吸して動き回っているものかどうか。第二に、実態はもちろん観念としてもそんな個人が根付かない日本的風土とはなんなのか。オクレている、とだけ言って済まされるような問題ではないはずだ。

 最も簡単に言うと、「私は私である。私は私以外の何者でのない」と言い得る「個人の観念」、もっと言えば「個人の物語(フィクション)」はあることにしよう、とする社会的合意が、西洋の、知識階層にはあり、書物に書かれているので、日本の知識階級はそれを学んだ。けれども、現実の生活の場で、社会的合意を結ぶことはもちろん、それがあるべきなんだと主張することも、容易ではない。
 劇の例だと、本当の人間同士の結びつきはどうあるべきか、家庭内で、一見、堂々と主張する女性が、西洋近代劇の劈頭に登場した。これについてはずいぶん前に紹介したが、このヒロイン・ノラは、女性の地位云々の社会的な理念より、ずっと個人的なロマンスを夢見て生きている。それでも、「夢見る権利」は当然のこととして要求する・個人の資格でそうする、ことはまちがいない。それと彼女が一介の主婦であることは矛盾せず、少なくとも舞台上のリアリティは損なわれない。【とはいえ、彼女の末路はたぶん悲惨なものになりそうなのは、予想できる。それを含めてのリアリティなのだ。】
 日本ではこれは非常に難しい。なぜか。別役実は、次のように考えた。「日本の精神風土を村落共同体から都市共同体へ移行させたものは「(近代的)国家」の理念であって如何なる「自我」の自発的な衝動でもなかったのである。ただ「自我」は、既に無理やりに都市化されてしまった状況下で、被害者的に目覚めたに過ぎなかったのだ」(「イーハトーブ伝説について」『言葉への戦略』所収)
 これも以前にあげた夏目漱石の言葉だと、日本の近代は「外発的」であった、ということに重なる。諸外国、特に欧米列強と伍してやっていくためには、政治・産業・軍事のすべてをあちらふうにしていく必要が感じられたからそうしたのであって、個々人内部の欲求は問題ではなかったのだ、と。
 それでもなんでも、外面的な近代化は成し遂げられた。それも、アジア諸国の中では珍しいぐらい、うまく。ここで「自我」なるものはなんらかの役にたったのか? 答えはどうもノーらしい。ただしかし、身分制は撤廃されたし、政治家は(制限つきだが)選挙で選ばれるようになった。理念としては個人を前提としているはず、というところで、個人意識=自我は言わば後付けで目覚めることになった。
 近代化によって学校に通う期間が長くなり、直接生産には関わらず、宙ぶらりんの状態で、余計なことを考える時間が一般的に増えたことも、この事情に大きく与っている。この土台の上に、「反抗する若者像」が誕生した。
 さらに、自我が「被害者的に目覚めた」とは次のようなことである。とにもかくにも近代社会であるなら、個我が生きる道はあるはず、と思ってみても、家の内部にも外部=社会にも具体的には見つからない、という発見によって、反対側に、そのように発見するものとしての、自我が発見された。言い方はややこしいが、自然主義文学の作家たち、田山花袋や島崎藤村が描いた自己とは、そんなものだった。
 そこに流れる最も大きな感情は、詠嘆としか言い様がない。苦悩、という言葉もよく見かけるけれど、個人が反抗して、現実の壁にぶつかって、苦しむ、という形のものはほとんどない。そのようなドラマはこの日本では、どうもリアリティを持ち得ない。個人は反抗以前に、無力な自分に絶望し、嘆くだけ。
 もっと積極的に社会の現実を変えようとする人物は、後にマルクス主義によって登場した。しかしこれも、個人を生かそうとするものではなかった。むしろ個人には、唯物史観の、革命の正義のために、その他すべてを犠牲にすることを要求する。戦前、彼らは弾圧され、紛れもなく「被害者」になったが、それが即ち彼らが「正しい」証とされた。
 被害者ではない自己は、どこまでも置き去りにされる運命だったのだ。西洋でも同じような実態はあるだろう。しかし日本では、個人を物語るはずの近代文学ですらそこを超えられなかったところが、精神的に大きな問題なのだ

 別役実は本シリーズその1で述べたように、「体制が圧制的なら私は反逆的である」というような「私」の成立を「安易な公式」とみなした。この時別役は学生運動(その多くが戦前のプロレタリア運動の意識と方法論を引きずっていた)から離脱し、文学的な出発を遂げたのだろう。
 「マッチ売りの少女」と「象」では、広い意味の戦争被害者が、心の傷の置き場が見出せないままジタバタする有様を描いた。それは、戦争中の現実なんて忘れ、置き去りにすることによって復興を遂げた「市民社会」の欺瞞を告発するものともみなされた。しかしこのテーマは、もっと深く掘り下げることができる。
 特に悲惨な体験をしたわけではなく、従って「被害者」とは言えないのに、なぜか、社会との折り合いをつけられない者たち。「甘えているだけだ」と言えば言えるが、それだけに、彼らの内面を思い遣り、文字上なり舞台上で可視化することは難しい。「ひきこもり」とか「ニート」などの言葉が一般化した現在でも、そうだ。「赤い鳥の居る風景」は、小此木啓吾の「モラトリアム人間」などの言葉もまだなく、若者と言えば、反抗する学生たちが典型のように感じられていた昭和42年の段階で、そのような、ある意味で地味な、精神の危機を描いた。

 この劇は、全六場で構成されているが、一~三場と四~六場で明確に二つの部分に分かれており、実質的に現在の英米演劇の主流である二幕ものになっている。別役実が影響を受けたと言うアーサー・ミラー「セールスマンの死」も二幕で、前半(第一幕)で緊張をはらむ展開のうちに周到に伏線をはりめぐらし、後半(第二幕)の最初に一気にカタストロフにもっていく手法は、ここから学んだと思しい。しかし、主人公は、ウィリー・ローマンを原型とする漂泊者ではなく、それを言わば受け止める側である。
 こちらの「側」は「市民」と呼ばれる。かつてのマルクス主義に基づいたプロレタリア文学や社会主義リアリズム演劇には、「小市民(プチブル←プチブルジョワジー)」なる差別語があった。大ブルジョワから抑圧され差別される存在でありながら、僅かばかりの所得・財産への未練が捨てられず、革命を邪魔する立場になる、どうしようもない愚物、というような意味だ。
 周知のように、日本では、高度経済成長の結果、そもそも「革命」を理想とする観念形態(イデオロギー)がどんどん色褪せていった。昭和50年代には国民の九割が中流意識を持つようになったと言われ、そうなるとブルジョワもプチブルも革命家も、社会のどこに位置づけられるのか、さっぱりわからなくなったのだ。
 この「一億総中流」自体もまた、バブル期を経て雲散霧消してしまった、というのが別役の見方である。ここには「生活感覚」はあっても、相変わらず「哲学」はないところが最大の脆さであったかも知れない。それをも含めて、彼は、「この小市民の台頭と没落の過程に、昭和という時代の、最も大きなドラマを感じ取」(『東京放浪記』平凡社平成25年P.217)り、これを劇作の大きな柱にしていく。
 「赤い鳥の居る風景」はその第一作になる。別役劇で初めて、前述のように「市民の側の論理」が正面から描かれたからだ。幼い娘の屈辱的な体験を、「忘れることだ」としか言えない「マッチ売りの少女」の初老の夫婦にも、原爆被害者である「象」の主人公の情念を、逸らし、無視する、舞台には登場しない「社会」を構成する大多数にも、それなりの理由はある。それを考慮しない「糾弾」は、方向が変わった弾圧であるしかない。
 もちろん、劇として、「大多数」を描くのは難しい。そこには危機(crisis=分かれ道)が、目につくような形では、ないから。別役はそこで、この論理によって破れ、傷つきながら、最後に敢えてそちらを選ぶ者をヒロインに据えた。これだけが、自分が「小市民を肯定的に扱った作品」(同上)だと彼が言うのは、そういう意味である。

 幕が上がると、葬儀の場面。参列者は傘をさしていて、「セールスマンの死」の最後の場面を引き継いでいることが、さりげなく暗示されている。
 亡くなったのは、「模範的にして平凡な市民」である廃品回収業吉田幸三郎氏と令夫人芳子さん。彼らはまだ若い盲の娘(〈女〉と表記される)とその弟を遺して自殺したのだが、書き置きも遺言もなく、なぜ死を選んだのか、誰にもわからない。そこへ誰も知らない〈旅行者〉が現れ、故人にお金を貸したのだと言う。ほんの僅かの、言うにも足りないほどの額であり、何も請求に来たというわけではないのだが、と。
 次に「この町と、これを取りまく七つの町の代表によって」結成された委員会から派遣された〈男〉が登場して、〈旅行者〉を連行する。今のところ、吉田夫妻に関してわかっていないことはほとんどなく、しかし自殺の理由は不明。ただ、借金の話は初耳だったので、調べなければならない。「人は原因なしに死んではならない。それが委員会の思想」だから、と。〈女〉は、以前旅行者が家に訪ねてきたのを思い出す。
 第二場は〈女〉の回想シーン。ある晩、一家四人は食卓についていた。そこへ、遅れて、父の古い知人だという〈旅行者〉が訪ねてくる。彼には家族がなく、各地の「お友達」の家を巡り歩いている。いつもひとりぼっちだから「久し振りにこうしてやさしい人たちに囲まれて、胸がいっぱいなのです」。一番怖いのは、そのお友達がお友達でなくなっていることだ。「つまり、私が扉を開ける。こんばんは、みなさん。ところが、みんなみんな向こうを向いて、振り向かない。シンとしている」。
 以上で彼がウィリー・ローマンの、そして「マッチ売りの少女」の〈女〉の、「象」の〈病人〉の後継者であることは明らかだ。少し違うのは、このような立場自体に妙に意識的なのだが、そうなる理由はわからないところだ。彼は、一人の「お友達」から別のへと、ピンポン玉のように弾かれて生きている。それは、「まるでちょっとしたバクチです」と言う。どうして一つの場所にゆっくりしていないのか? あきられるからだ。「私はあきられる前に旅立つのです」。
 彼はすっかりすねてしまっていて、人の表情に浮かぶちょっとした不快感にも敏感に反応する、そういうところがますます嫌われる。〈旅行者〉はそんなドツボに嵌まっているのだ。この夜も、〈父〉(吉田氏)がふと席を立とうとしたのを見逃さない。「あなたは今、私をケイベツしましたよ」と。〈父〉はこの難詰をそらさず、まっすぐに答える。「君の云う通りだよ。私はお手洗いに行く必要なんかなかったのさ。ちょっとムッとしてね。つまらないことさ
 市民の論理はこのようにさりげなく舞台に現れた。中身は、忘れることだ、という「マッチ売りの少女」の夫婦と同質ではあるが、それをはっきりと主張し、さらにそれをも「つまらないこと」のうちに含める。まるで、何かにこだわることが、「何かをするってこと」自体が悪い、とでもいうように。因みに、「象」でこう言った人物は原爆被爆者というれっきとした被害者であって、平凡な市民ではない。
 なぜそうなのか、と〈旅行者〉は疑わずにはいられない。その穏やかな日々の底に流れているものは何か、自分はそこから疎外されているという思いを捨てられないから。そういう自意識を持ってしまったから。
 第三場で時は元にもどる。委員会の調査で、〈旅行者〉は高利貸しだったことがわかる。吉田夫婦にも多額の金を貸していた。夫婦はそれを苦にして自殺したのだと推測され、彼はこの町とそれを囲む七つの町から追放される。立ち去る前に、なぜ自分がそうなったのか、〈女〉に語る。既に「ずっと昔に、私は追放を受けているのです」と。

小学校へ上がったばっかりと云っていいかもしれない。その頃私は、どんなふうにみんなと、遊んだり、ケンカをしたりしていいのかわからなかった。私が努力すればするほど、みんなから離れるのです。私には友達がいませんでした。その事で私は、みんなに非難されました。私の両親も、その頃は健在でしたが、その事で私を叱りました。少し大きくなって、あれは中学の頃かもしれません。ちょっとした事で私は、人にお金を融通しました。ごくささいなお金です。でも、その人は返してくれなかったのです。私は、返してもらうために何度か、その人の家へ通いました。私にはどうしても必要なお金だったからです。とうとうそれは返してもらえませんでしたが、その家に通ううちに、私には、そういうやり方での交際ということを知ったのです。

 「正常なつきあい、人間と人間との、愛と憎しみの関係」を「とりもどすために」と〈旅行者〉は言うのだが、これはおかしい。「つきあい」も「関係」も、彼には最初からなかったのではないか。社会が悪いわけでも、たぶん、家庭のせいでもない、だから、何かを要求するわけにもいかない。ただ、金銭の貸借関係になれば、公的(?)に、他人に要求はできる。とんでもない勘違いとしか言い様がないが、他には何もできなかった。
 おそらく、こんな自己を入れる容器=物語は日本同様西洋にもない。ただ日本だと、「そんなに我を張ってはいけない」とする意識は、西洋よりも強いのだろう。それだけ、突出した個人には馴染みがないのだ。
 この述懐の後で、〈旅行者〉は〈女〉に結婚を申し込む。そうすれば〈女〉は委員会が肩代わりした借金を返さなくてもすみ、〈旅行者〉は、彼女の町の住民になれる。「住むということは、住みつくということは、とてつもなくどぎついことに違いない。利息を一分一分上げてゆくように、一日一日をくらしてゆく」のだ、と彼は言う。
 〈女〉は、「父と母は、私と弟に、盲の私とまだおさない弟に借金を負わすために死んだ」ことがわかった、だから誰の力も借りずに返していくことが本望のはずだ、と言ってこの申込みを断る。

 第四場から姉弟の新しい生活が始まる。〈女〉は編み物をし、〈弟〉は、〈女〉の決意を「えらい」と言う町の人々の好意で、会社勤めを始める。
 しかし物事はすぐにうまくいかなくなる。〈弟〉は理由もなく脅え初め、会社を休み、町中を走り回る。「僕はこんなに苦しんでいるんだから、そのうちにきっと救われるだろって」、しかしそれはやっぱり「虫の良い話」に過ぎないことはわかっていたので、止まれず、倒れ、自分で立ち上がったのだが、それを見ていた不良の〈若い女〉に助けを求める。
 助ける、とは、どんなふうに? 彼は「ウスノロ」だから、不良にはなれない。でも、ついてきたければ来るといいわ。〈女〉の前でそう言われたので、〈女〉は〈弟〉に、選ぶように言う。「つらいほうを選びなさい」と。「逃げてはいけないわ。どっちへ行けば逃げることになるのか私にもわからない。でも……」。〈弟〉は、会社に戻る、と言う。「逃げたりはしない。今度こそやるよ」と。そこへ警官が来て、〈弟〉が盗みを働いて、追いかけてきた男を刺したことを告げる。
 第五場。刑務所(だろう。そこはリアルに描かないのは、「不条理劇」の特権)で、〈女〉は〈弟〉を激しく追い込もうとする。
 〈弟〉はくたびれていた。公園のベンチで、男がいきなり立ち上がった。鞄を取って、走った。追いかけてきた。振り向いた。許してもらえるかと思って。殴られた。刺した。カッとしたのではない。ただ怖かった。
 彼は自分のやることの意味はわからず、やった後でもわからない。許される? 救われる? それは、甘えというよりは空想でしかない。そうではなく、人と人との間で「現実に」生きる自分というものは、〈弟〉にはどうしても見つけられない。
 でも、本当はみんながそうだ。みんな怖いのだ、と〈女〉は言う。父も母も怖かった、そしてそれに耐えていた。自分もまた……。「決心しなければいけませんよ。あなたは、刑務所でしばらく生活して、それから、今云った人たちのもとへ帰ってくるのです。それがあなたの借金なのです」。
 「今云った人たち」とは、父母の葬儀にも参列した町の人々だが、〈弟〉を待たず、事態をよりいっそう悪い方へと動かす。彼を「可哀そうだ」と感じて、減刑運動を始めるのだ。まだ若い子が、ひねくれてしまわぬように、思いやりが必要だ。姉は目が不自由なのだから、署名を取りに歩かせれば効果的だろう、ついでにお金も集めればよい……。
 「世間」がこんな具合なのでは、〈弟〉は自分を作っていくことはできないだろう。抵抗のない水の中では泳ぐことができないように。彼はもっと追い込まれる必要がある。〈女〉は〈弟〉を逃がす決心をする。
 第六場。【この冒頭で、〈女〉が、最初に紹介した八木重吉の詩を呟く。】脱走の企てを辞めさせようとする町の人々を、〈女〉は懸命に説得する。

私には、みなさんの今の思いやりがとても良くわかります。でも、あの子には、恐らくわかっていません。あの子は、どこまでもその思いやりに支えられようとするでしょうし、そうなったら当然、町の人たちは戸惑うでしょう。そのすき間の中で、また何かが起こるのです。私にはそれが恐ろしい。あの子が泣けば泣くほど、町の人たちは泣けなくなります。そしてそのすき間は大きくなります。私はいつも、そのすき間の中で息を殺しております。どうしていいかわからないのです。私はあの子にその事を教えてやらなければなりません。お父様とお母様がそうであったように、つつましく、重々しく、厳粛に生活することを教えてあげなくてはいけないのです。

 あの〈旅行者〉はやはりまちがっていた。「住みつく」とは、利子を一分一分上げていくように、人間同士の緊張感を次第に高めていって、存在の手応えをつかむことではない。借金を少しづつ返していくように、つきすぎもせず離れすぎもしない微妙な距離を、他者との間に保つことだ。そのためにこそ、勇気が要る。あの子の中に、盗む勇気と壊す勇気と火をつける勇気ができた時、あの子にとって、盗まないで、壊さないで、火をつけないで、しかも逃げないで生活することが、大切になるはずです」。
 勇気。耐える勇気。何に耐えるのか。「自己」の無意味さに。そう言っては身も蓋もないが、とりあえず、他人に、自己が自己であることの確認を求めても無駄だ。いやそれは、最大の不躾というものだ。誰もそんなことをするだけの義理もなければ力もないのだから。あるときふと、目の前に「雨のようなもの」が現れて、雨のようにそっと何かを囁いてくれるのを待つより他に、人間にできることはない。この頼りなさ、寂しさに耐えること。それができて初めて、人は、人と人の間で生きて行くことができる。これが、特にこの日本の、市民社会とやらの逆説なのである。
 最後に、脱走した〈弟〉は、なんとか〈女〉のもとにたどりつくが、後から撃たれていて、落命する。「何故、正面からうたなかったのかしら……。この子は、どんなふうにして死んでいいのかもわからなかったに違いないわ。ただ、走っただけよ。私たちの中へ……
 すべてが去り、一人残された〈女〉が、市民として生きて行く決意を語る。「私、きっとつつましいしとやかな女の人に見えてよ。お買物の途中でどこかの奥さまにお会いしたら、私、少しわらって、おじぎをするわ。こんばんは、奥様、いやな雨でございますわねえ……」。激しい葛藤を経た後の諦念とともに幻視される「街」。我々はそれを見るのではなく、感じるべきなのであり、だからこそこのヒロインは盲目と設定されているのだろう(実際、盲人としての特徴は劇中ほとんど書き込まれていない)。二十世紀に初めて現れた日本型小市民、それを描く劇は、このようにして創始された。

【上原正三は別役実の中学校時代の美術教師で、「赤い烏の居る風景」はその代表作。別役実はこの「カラス」を「トリ」と読み違えたまま、戯曲のタイトルとした(『別冊新評 別役実の世界』新評社昭和55年)。その寓意は、「不燃焼の「自我」が他者と対した時、意識の底辺をチラチラかすめ飛ぶ赤い危険信号」(「イーハトーブ伝説について」)だとのこと。】
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