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悲劇論ノート 第7回(チェーホフの反悲劇)

2024年11月03日 | 

桜の園 初演の舞台写真

 ヘンリック・イプセンが近代劇の父なら、アントン・チェーホフは現代劇の父と呼ばれるに相応しい。「人形の家」の初演は1879年、「かもめ」は1896年で、17年の間隔しかないが、物事が起きるときには連続して起きるものなのだらう。具体的には、近代写実劇が完成すると、その限界も目につき、以降の作家は乗越えを目指さざるを得ず、そこで最初に大きな成果を挙げたのがチェーホフといふことになりさうだ。
 最大のポイントは、イプセンが一般市民(といつてもけつかう富裕なブルジョワだが)を題材とした悲劇的な作品を完成させたのに対して、チェーホフは近現代での悲劇の不可能性を、劇の根底の一つとして見せたところにある。

 今まで折に触れて述べてきたが、ギリシャ劇から、17世紀フランスのラシーヌやモリエールまで、悲劇は王侯貴族や神話上の人物を描くもの、喜劇は一般庶民を、と決まつてゐた。
 単純な話、例へばシェイクスピアの「リア王」「マクベス」「ハムレット」などで、主人公の言動が国家全体を揺るがす大事になるのは、彼らの身分が高いからだ。リア王が王様でなければ、たとへ大金持だつたとしても、アホな頑固ジジイに過ぎない。当事者以外からは笑はれるのに相応しいので、喜劇になる。
 さうは言つても、一般庶民でも、自殺もすれば人殺しもする。嫉妬もすれば熱烈な恋もする。これをドラマに仕組めないものか? いはゆるブルジョワが、たくさんお金を稼いだおかげで社会の中枢に成り上がるにつれて、その要請は自然に強くなる。

 イプセンは初期の頃、韻文で、「ブラン」や「皇帝とガリラヤ人」のやうな壮大な歴史劇を主に書いたが、「青年同盟」(1869)や「社会の柱」(1877)などの、現代を舞台とした劇も手掛けてゐる。しかし「人形の家」が決定的なのは、第一に緊密を極めた構成、第二に平凡な家庭の主婦にドラマ性≒悲劇性を見出した点にある。
 先蹤はと言ふと、西洋古典悲劇の系列の最後に位置するジャン・ラシーヌであつたらう。極限まで狭められた場所と時間の中で、際立つた個性の持ち主たちが言葉をぶつけあひ、うねるやうに、しかし一筋に結末にまで行き着く。過去の情況説明も舞台上の「現在」の進行中に、過不足なく伝へられる。現代でも依然として、映画やTVドラマを含めた、せりふによる劇作品のお手本であらう。

 しかし、「人形の家」がイプセンの名をヨーロッパ中に広めたのは女性解放運動の文脈で受け取られたからだ、といふのは、皮肉としか言ひやうがない。彼はこれまで、自由主義の立場からした社会諷刺を鏤めた劇をいくつか書いてきたのに、「人形の家」では、その種のものは一番後景にまで退いてゐる。因みにヒロインのノーラは、女性の権利、なんぞとは一言も口にしてゐない。
 ノーラはフェミニストではなく、ボヴァリストなのだ。夢と現実の区別がつかないのではなく、夢の実現を容易にあきらめず、ために破滅に至る。この生き方は悲劇のヒロインたるに相応しい。ただ、エンマ・ボヴァリーもノーラ・ヘルメルも、女王でも王女でも、貴族の令嬢でもなく、ブルジョワの主婦である。
 その身分の者は、「真実の愛」などといふものを求めてはいけないか? いけなくはない。ただ、いつまでも保ち続ける、あるいは保ち続けてゐるかのやうなふりをする義務はない。まして、命を賭けてまで。さういふのは貴族のもの、即ちノーブレス・オブリージュ(高貴な義務)なのだ。そんなものからは免れてゐる庶民が、何を場違ひな、といふ感じは、決して拭へない。
 簡単に言えば、「ボヴァリー夫人」を読んだり、「人形の家」を観たりする人のかなり多くが、「なんか、大げさなんじゃないか?」との思ひを抱いてしまふ。
 後者については、この家庭は自分が思ひ描いてゐたやうな理想的な場所ではなかつた、夫は自分を一人前の人間とは看做してゐなかつた、と気づいたときの幻滅の大きさをできるだけ思ひ遣るとしても、それで、夫だけならともかく、三人の子どもまで捨てて出て行くのは、やり過ぎではないか? 私が実際に会つた中でも、さういふ感想を言つた人はけつかう、女性の中にも、ゐる。

 では、彼女のやうな人間の身の程はどんなものか。「桜の園」に登場する、農奴上がりの商人・ロパーヒンは、眠れない夜には時々次のやうに考へると言ふ。

神よ、あなたは実にどえらい森や、はてしもない野原や、底しれぬ地平線をお授けになりました。で、そこに住むからには、われわれも本当は、雲つくやうな巨人でなければならんはずです……。(神西清訳で引用。以下同じ)

 これを聞いたヒロイン・ラネーフスカヤの反応は、

まあ、巨人がご入用ですつて……。お伽話のなかでこそ、あれもいいけれど、ほんとに出てきたら怖いわ。(以上第二幕)

 ここで象徴的に言はれてゐるのは、彼らはどこからみても巨人≒英雄ではなく、ちつぽけな人間であつて、しかもそのことを自覚してゐる、といふことだ。これが大前提。
 それだけでも、「桜の園」の主要人物はヒーローとはなり得ない。力も、覚悟すらなく、切迫した状況に投げ込まれれば、正面から対峙できず、ひたすらやきもきしてウロウロする者たち。彼らを描くのは悲劇ではあり得ない。

 チェーホフは短編小説家として広く名を知られるやうになる以前から劇作を志し、挫折を経験してゐる。「イワーノフ」の改訂版(1889)は成功したが、それは、この頃までモスクワやペテルスブルクの上流人士の間では流行語だつた「余計者」としてのインテリゲンツィアを採りあげたところが大きいやうだ。
 しかしその同じ年に書かれた「森の主」は上演を断られてゐる。当時の劇の主流だつた悲劇の、衰退・通俗形式たるメロドラマからして、この劇は筋の起伏も大仰な情熱の発現も乏しく、要するに退屈だと看做されたのだ。
 その後7年間劇作に手を染めなかつたが、1896年には「かもめ」を完成した。初演は失敗して、チェーホフに深い絶望を与へたが、2年後、コンスタンチン・スタニスラフスキーの演出によるモスクワ芸術座の再演は大成功で、ためにこの劇団も作者も名声を確立した。以後のチェーホフの多幕物四作品は、すべて同じ劇団・演出によつて演じられてをり、ヨーロッパの演劇革新運動の主要な拠点となつた。

 「かもめ」は最初から喜劇と銘打たれた。普通に言つて笑ふ要素はほとんどない(ラテン語まで使つた言葉遊びや言ひ間違ひによる擽りは少しあるやうだが)、むしろ陰鬱な印象が残る作品だといふのに。それを敢えて喜劇としたのは、当時の劇界や劇作品のあり方に対するチェーホフの強い反感の現れだらうが、内容的には諷刺を主眼とするところがこの名に相応しいと思へたのかも知れない。ただそれも、非常に独特のやり方で、だが。
 エレオノーラ・ドゥーゼ並だといふ元大女優と、ツルゲーネフ並だといふ流行作家を登場させ、彼らの贋物性が描かれる。それは自分自身がけつかう自覚してゐるので、彼らは決して道化ではない。今更ドタバタ何かやつたりはしない。男や女を求める以外には。
 ドラマはより若い世代が起こす。彼らの名声に憧れる若い女と、彼らの古くさい芸術に反発して新形式を求める若い男が、そのために破滅するのだ。自分たちの情熱によつてではなく、その対象の空虚さに直面することで。これは悲惨ではあつても、悲劇ではない。
 しかしだからと言つて、この若い男・コースチャが自殺する結末は、私には、ノーラの家出以上の唐突感がある。劇にまとまりをつけるための強行手段ではなかつたか。そんなふうにさへ感じる。

 それもあつて私は、この後1899年に上演された「ワーニャ伯父さん」からの三作こそ、本当に革新的な、真のチェーホフ劇と呼ばれるべき作品なのではないかと考へる。
 すぐに目につく特徴は以下。ここまでの、二十歳そこそこで書かれて作者の死後に題名が欠けた状態で原稿が発見されたものを含む四作は、すべて主人公と言つていい男が変死することで終はる。題名のない戯曲のプラトーノフは女に撃ち殺され、あとの三人、イワーノフ、ジョルジュ(ワーニャの前身)、コースチャはすべてピストル自殺。
 それが、「森の主」が改作された「ワーニャ伯父さん」になると、ワーニャはピストルを振り回すものの誰も殺さず自殺もしない。最後に劇を締めくくるのは、彼の姪・ソーニャの「でも、仕方ないわ。生きていかなければ!(中略)長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じつと生き通していきませうね」から始まる有名な長科白。死ぬより辛く、勇気も要るこの決意の切なさは、誰の心にも沁みるだらう。
 このやうに、死ぬことでせめて格好をつける男たちに代って、女性の苦悩を経た覚悟が残るのは、次の「三人姉妹」にも引き継がれる。「もう少ししたら、なんのために私たちが生 きてゐるのか、なんのために苦しんでゐるのか、わかるやうな気がするわ
 なんのために生きてゐるのか≒自分とは何かは、やはり呪はれた問ひとしてある。しかも現代人は、とりわけ女性は、ヒーローとして自らの選択や行為の結果そこにぶつかるより、愛ある(と、見えただけ、を含む)関係から弾き出されて孤独になって、自分自身と向き合ふ。問ひに答へられる者はゐない。もしも全能の神があるなら、きつと、死後に教へてくれるだらう。

 かうして、英雄ではない、さうなることもできない≒さうなることを期待されてゐない者たちに相応しい必然性を備えた現代劇は出来上がった。
 ただしチェーホフの最後の戯曲は、情況の深刻さや感情の激発を押さえたより穏やかな雰囲気のもので、「かもめ」以来初めて喜劇と銘打たれてゐる。「桜の園」の初演は1904年1月で、その5ヶ月後に彼は亡くなつてゐるが、健康を害してゐたとはいへまだ四十四歳で、死を意識してゐたかどうかは定かではない。
 例えば「三人姉妹」にはあつた死(主人公とは言へない男のだが)も、「桜の園」の劇の進行中にはない。死は、六年前、ラネーフスカヤの息子が川で溺死したこと、そして、最後に皆に忘れられて館に取り残された老僕が、たぶん遠からず迎へることが予想される。言はば、桜の園消滅の、舞台外の序章と終局を成してゐる。
 もう一つ、これは今まで述べた内容の点より重要かも知れない。登場人物が各々自分の思ひに捕はれ過ぎてゐて、会話がすれ違う場合が非常に多い。愛も憎しみも、人間以外のものへの憧れも執着も、ちやんと他者に受け取られて、返されることはほとんどなく、いつの間にか虚空に消えてしまう。これは「かもめ」以後の特徴だが、「桜の園」では最も露骨に目につく。
 イプセンの、何が焦点であるかが常に明確なドラマとはおよそ逆であり、言はば、筋の一貫の代わりに雰囲気の一貫が置かれてゐる。現代劇を拓くためには、この要素が何よりも大きかつたらう。
 いや、そんなことより、皆が自分の穴の中に籠もつてゐて、他人に同情はできても、本当に関わり合うことはめつたにできない。また、自分自身の運命の主人公にもめつたになれない。それこそ我々がちつぽけな存在であることの何よりの証左なのだ。喜劇の手法を応用して、舞台上に現出されたこのリアルこそ、最も憂鬱で、最も恐るべきものであらう。

 例えば、ラネーフスカヤには、守るべきものはあり、それが桜の園だ。「桜の園のないわたしの生活なんか、だいいち考へられやしない」(第三幕)とまで言ふ。しかし、全力を挙げて守らうとするのかと言ふと、かなりズレてゐる。
 桜の園とは何か。「世界ぢゆうに比べものもない美しい領地」〈第四幕〉とも言われる宏大な土地で、ラネーフスカヤが生まれ育ち、結婚後もしばらくは過ごした館がある。ただし楽しい思い出だけではなく、六年前に夫がシャンパンの飲み過ぎで亡くなると、続いて愛息の事故死に見舞はれた。それで堪らなくなつた彼女はフランスへ赴くのだが、その時は男が一緒だつた。その後、この男に彼女は持ち金全部を搾り取られた挙句、捨てられて、故郷に戻つてきた。これが劇の始まり。
 この劇には明確な時期の指定はないが、ロシア革命(1917年)以前に始まつてゐた貴族階級の没落を背景にしてゐるのは明らか。農奴解放(1861年)の結果、もとは絶対服従だつた使用人たちが、時には主人一家を馬鹿にした態度をとるやうになつている。
 それにラネーフスカヤ自身、貴族階級出身ではあっても、貴族ではない弁護士と結婚し、そのうへ前述のような次第で、身持ちがいいとは言へないので、(たぶん、本家みたいな)伯爵夫人の伯母さんからは嫌はれてゐるといふ、言はば正式な貴族からは外れた存在なのだ。
 性格は、よく言へば優しい好人物で、頼まれるとどんどん人に金をやつてしまふ。そのため(だけではないだらうが)、借金の抵当になつた桜の園を守る実務的な能力は、兄・ガーエフともども、全くない。これが第一幕から強調されてゐるので、「彼らは桜の園を守り通すことができるか」のサスペンスは半ば以上失はれてしまつてゐる。

 ラネーフスカヤが桜の園を失ふのは、ただ世間知らずのためだけではない。別荘地として分割して貸し出せば、所有権を手放さなくてもすむ、といふロパーヒンの提案を二度に渡つて断るのは、「俗悪」だからだ、と言ふ。
 桜の園がばらばらに解体されて、新興成金たちが我が物顔に(借地権はどの程度のものかわからないが、その範囲では「我が物」に違ひない)闊歩する、桜の木も木材として伐られるのにも耐えなければならない。さうなつたら、そこはもう何よりも貴重な桜の園などではない。わかつてゐないのは、財務状況にしか興味のないロパーヒンのはうなのだ。
 と、正面から主張して議論を続けるなら、作品の対立軸は明確になり、価値あるものを守らうとして挫折する人間の悲劇として劇構造も安定する。ギリシャ悲劇も、イプセンの劇も、そのやうになつてゐる。
 しかし、ラネーフスカヤはすぐに話を逸らしてしまふ。彼女は、理屈はわからず、感情のみで動く人物として最初から最後まで振る舞ふので、「全くどうしようもない」といふ印象しか残らない。

 同じやうなことは、最終的に桜の園を買い取ることになるロパーヒンについても言へる。「新陳代謝の意味では、猛獣が必要」であり、「君の存在理由」(第二幕)は要するにそこにある、と、他人についてはやたらに鋭い見方を発揮する万年大学生のトロフィーモフに評される彼だが、最初から奪ふ者として登場するわけではない。
 彼は農奴の子どもだつた時代に優しくしてくれたラネーフスカヤを心から慕い、なんとかして助けたいといふ善意に満ちてゐる。が、本当の意味でそれができる手段は持ち合はせてゐない。
 かくてこの両者は決して噛み合はず、劇の中心はなんなのか、単純明快な筈なのに、ひどく曖昧な印象が残ることになる。

 このやり方でチェーホフは、劇中から本当の悪人を取り除くことに成功した。
 「三人姉妹」では、最初野暮な田舎娘として登場したナターシャが、三姉妹のただ一人の兄弟の妻となると、次第に家庭内の主導権を握り、姉妹を閉め出す。その過程が、そんなに目立つわけではないが、主筋ではある。彼女は市会議長と不貞を働いてゐる疑いが濃厚で、この男の手先として、女性が象徴する繊細で優美なものを押しのけて滅ぼす力の象徴になつてゐる。
 これはチェーホフ劇では珍しいはうの例である。桜の園は繊細で優美なものの象徴には違ひないが、それを滅ぼすのは、個人の顔のない時代の流れとしか言ひやうがない。ガーエフやラネーフスカヤがもつとしつかりしてゐて、このときは桜の園を守り通せたとしても、二十年も経たないうちに革命によって失はれてしまつたらう。我々はそのことを知つてゐるのだから、所詮は空しい努力だとしか言へない。

 最後に、喜劇につきもののはずの笑ひについてもう一度考へておかう。
 第三幕、桜の園の競売の日だというのに、館では舞踏会が開かれる。このチグハグさは、まさに喜劇的だが、それで笑ふためには、競売場で無力を曝け出しているガーエフや、雰囲気に巻き込まれて(だらう)競売に参加することになり、勢いのままに桜の園を競り落とすことになつたロパーヒンの姿などを眼前に展開させる必要がある。
 しかし、彼らが登場するのは、すべてが終わってからで、ラネーフスカヤは泣くことしか出来ず、他には、なんとかして母を慰めようとする娘のアーニャがいるばかり。とても笑へない。

 もう一つ、最終幕(第四幕)で、せっかく機会を作ってもらったのに、ロパーヒンはどうしてワーリャ(ラネーフスカヤの養女で、桜の園の管理をしてゐる)に求婚しないのか。お互ひに思ひ合つてゐることは、第一幕から明らかにされてゐるといふのに。教養のないことへのコンプレックスから脱却できないので、金儲け以外のことには臆病になつてしまふのだ、といふ説明は一応つくが、それにしても。
 ワーリャのほうでも、女性からプロポーズはできない、といふ当時の常識に縛られて、ただ泣くばかり。最後に、半ば無意識のうちに傘を振り上げるが、ロパーヒンがぎよつとすると、「わたし、そんなつもりぢやなかったのに」と言ひ訳をして、二人の関係は完全に終はる。
 いつそ叩いてやればよかつた。そこからてんやわんやの滑稽な騒動が始まり、結婚という幸福な結末に至るのは、喜劇作家たちがよくやる手だ。それがないのは、思ひ切つた行動ができない平凡な者たちを描くといふ、悲劇とは正反対の方向に、針が振り切れている感じがある。

 「絶望の虚妄なるは希望の虚妄なるにまさに同じ」といふ言葉が思ひ出される。チェーホフは、自分自身はちつぽけだし、世界に意味が見出せないからと、何も出来ずにゐる男を最も嫌つた。生きるとは、人と人の間で、何かをやり続けること以外ではない。もしそこに意味があるとしたら、その果てにしか見えてくることはないだらう。「ワーニャ伯父さん」や「三人姉妹」の女性たちが言ふ通りに。
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別役実論ノート その5(中仕切り・小市民の劇)

2023年09月30日 | 

「紙風船」 UPSつつじヶ丘アトリエ公演 平成19年

メインテキスト:川口一郎「二十六番館」(昭和7年。『川口一郎戯曲全集』白水社昭和47年より引用)
岸田國士「紙風船」(大正14年)

 本年9月16日に、日本演出者協会関西ブロック主催「日本の戯曲研修セミナーin大阪202」に招かれて、川口一郎「二十六番館」について話をする機会がありました。
 この戯曲は今では知る人も少なくなりましたが、戦前の日本戯曲の中で一番西洋演劇に近づいた作品だと思います。と、言うより、当セミナー中のディスカッションと俳優さん達のリーディング(朗読劇、最小の所作は含まれる)、それに三人の若手演出家による演出プランの発表、を通じて、そう確信するに至ったと言うべきでしょう。お招きいただきました演出家の山口浩章氏には、この場を借りて心からお礼申し上げます。
 それともう一つ、研究者の端くれとして招かれて、一応レクチャーをすることになったので、考えてみて、ある問題に改めて直面する思いをしました。それは日本の近代劇の問題ですが、大きく言えば日本の近代の特質そのものに結びついているでしょう。
 となると広大すぎる主題で、私は当日までまとめきることはできず、舌足らずで終わってしまいました。少し心残りなので、もう一度愚考を進めてみようと思います。日本で西洋風の劇を創る困難、を通じて日本の精神的な近代化の困難、その一側面を瞥見しようとする試みとして。

 それでも一応、戯曲「二十六番館」のあらましを紹介しておく。
 舞台は1927年のニューヨーク。ただし登場人物八人は全員日本人。二十六番館とは日系移民が住みついている安アパート(家主はユダヤ人)で、あと一ヶ月で取り壊される予定になっている。ここに住む、商売でけっこう成功した山下夫妻は、息子の良一の嫁にと、妻の姪の春子を日本から呼び寄せる。しかし渡米してきた春子は、長尾安二郎という現地の大学で勉強中の青年と懇ろになり、妊娠する。このため安二郎は、プロフェッサーになる夢を断念し、春子と結婚するが、この子は生後間もなく亡くなる。希望を失った安二郎は、自暴自棄な言動が目立つようになり、仕事も辞める。この夫婦も二十六番館に住んでいるので、春子は、新たな住居も探さなくてはならないという実際上の悩みと、安二郎がこうなったのは自分のせいだと思う自責の念の、双方から苦しめられている。
 以上はいわゆる設定で、幕が上がる前にこれだけのことはすんでいる。

 これだけでもある程度察することができると思うが、これはdisillusion(幻滅、幻想破壊)を中核とした劇なのだ。ギリシャ悲劇以来最もポピュラーなドラマツールギー(作劇術)の一つで、「かくあるべき自分」と「現にかくある自分」の落差でドラマが展開する。
 例えばソフォクレス「オイディプス王」は、スフィンクスの呪いから都市国家テーバイを救った英雄王だと思われ、自分でもそう思っていた者が、実は父を殺して母を娶るという人間として最もやってはいけないことをやった人間だった。眼も眩むような激しい転落。
 ただこれは、「運命の転変」ではない。厄災が外からやってくるわけではないからだ。主人公オイディプスは、幕が上がる前に、決定的な行為はすべて成し終えている。劇中で起きるのは、彼自身がそれを認識することだ。
 アリストテレス「詩学」にあるように、アナグノリシス(認知)によってペリペティア(急展開)に至り、我々は主人公を通じて、「〈私〉とは何か」→「人間とは何か」という問いが立ち上がる場面に直面する。これこそ最も劇的な瞬間だ、と観じる感性が西欧では主流、とまで言えるかどうか、太い流れにはなっていて、そこで今我々も劇(ドラマ)とは例えばこういうものだと、漠然と考えている。
 そこで、近代劇でもこのパターンはしばしば使われている。ヘンリック・イプセン「人形の家」(1879)のヒロインは、三人の子がいる主婦だが、自分と夫は理想的な夫婦だと信じている。正確には、不安を抱えつつ、信じようとしている。それが幻想だと分かった瞬間に彼女は家を出る。規模は全然違うとは言え、すべてが明らかになった末に放浪の旅に出るオイディプスと同じ道を辿るのだ。
 ただ、こういうふうに、舞台上でアナグノリシス→ペリペティアが露骨に起きる劇は少ない。そんなことは現実にはめったにないからだ。だから劇になる、とも考えられるが、他方、「作り物(フィクション)」感はなるべく少ない方がいいという近代リアリズムからの要請もある。
 そこで、例えば、アントン・チェホフの主人公達は、劇の開始時点でもう幻想から醒めかかっている。ただし、諦めきれないので、「人生とはもっと美しい、意義深いものだったはずだ」などと嘆いている。
 それでどうなるのか? どうにもなりはしない。最初の頃の作品でこそ、主人公は自決したりして、自己の幻想に言わば復讐を遂げるのだが、「ワーニャ伯父さん」(1897)と「三人姉妹」(1900)では、彼ら/彼女らの境遇は劇が始まったときと終わるときで変わらず、皆幻滅の人生を歩み続ける。自分たちと悩みや苦しみにはどんな意味があるのか、神はご存じであって、そうであれば私たちにもやがて、多分死後に、分かるだろう、と言って。
 一方、「二十六番館」の安二郎は次のように嘆く。

若々しい情熱も冷めちゃった。(微笑して)春ちゃん、お前じゃないが、お伽噺の世界だったね。[中略]僕は僕らしく生きる必要があるんだ。[中略]僕等はね、この大きな機械の、有ったって無くったって、全部の運転にゃあ、一向差し支えのない一部分なんだ。その癖僕等は、次第に、擦り減ってゆくんだ。

 これはいかにもチェホフ的な科白であり、その影響は顕著である。ただチェホフ劇は田舎が舞台で、主人公たちは直接にはそこの味気ない単調さに苦しめられている。近代的な巨大都市の、絶えず動き続ける文明=経済機構(≒機械)の中で、自分たちは、いくらでも取り替えのきく部品でしかないと感じる者の悲哀は、今でこそありふれているようだが、「二十六番館」発表の時代ではかなり新しかったろう。
 その違いはあっても、両者の劇の開始時点で、主人公達は幻想をほとんど失っていて、それを自覚もしていることは共通する。劇中で起きるのは、言わば最後のダメ押しのようなものである。
 「それだって意味があるはずでは?」「意味ねえ……。いま雪が降っている。なんの意味があります?」(「三人姉妹」)。人生に究極的な意味などない。あっても、人間には見つからない。この苦い認識を抱えて生きていかなくてはならないのは、根本的な人間の条件だと思うが、具体的な現れ方は各々違う。
 「二十六番館」の安二郎は、妻に未来の希望を語るのだが、一方で、本当はそれを信じておらず、手っ取り早く自分の人生に決着をつけようとしているように見えるところもある。それがはっきりせず、どっちつかずなのは、弱点と言えるかも知れない。最後の彼の死は、事故死なのか自殺なのか? 後者だとすれば、彼はチェホフ劇では「かもめ」のコスチャに似ている(後者の自殺も、私には唐突感が残る)。
 好意的に見れば、これには作者は解答を出さず、上演に際して演出家や演者が自分で考え出す余地を敢えて残したのかも知れない。
 ここではこれ以上この問題に深入りすることはやめて、なぜこのような幻滅の劇が日本ではあまり見かけないのか、それは日本の近代の特徴と関連しているのではないか、という見通しを辿りたい

 ざっくり言って、日本人には「私とは何か」「人生の究極的な意味は」などとしつこく問いかける思想的な、心(精神)の習慣は、なくはなくても、乏しい。
 それはいいことでもある。だいたい、こういうのは呪われた問いであって、いつでもどこでも誰でも納得できる一定の答えなどあり得ないのはもちろん、厳しく、妥協なく問い詰めようとしたら、そのこと自体で人間は不幸になるしかない。だからこの劇形式は日本語では悲劇と呼ばれる。いや、不幸になってもなお、「意味」や「真理」を求める試み自体に人間の偉大さがある、というのが西洋の思想的感性。そんなことは神様仏様にお任せして、微力な人間は、目の前の生活に一所懸命取り組もうというのが日本的な良識、と一応言えると思う。
 しかし、明治以降、日本は開国して、西洋世界と付き合わねばならなくなった、というより、向こうの文明を目の当たりにしたら、戦争で勝てるはずがないことはいやでもわかってしまったから、その点では西洋化するしかなかった。それは西洋文明の地球全体に渡る進展に巻き込まれた、ということを意味する。
 そこで日本は、驚くべき能力を発揮して、アジアの中で随一の進歩を成し遂げた。もちろん、表面的には。あまり人間の内面の、精神などには拘らないで、目に見えるものに懸命になる日本的現実主義がこの場合功を奏した可能性が高い。
 とは言え、表面の底にはそれを支える深層がある。機械ならともかく、資本主義経済や議会制民主主義のような制度は、人間が直接運営するので、精神の部分は関係ない、というわけにはいかない。日本人はそれも学んだ。実用とは離れた思想問題でも、例えば朝永三十郎『近世における「我」の自覚史』(1916)というような研究書も出ている。
 だから、「(男女を問わず)個人の人格」の大切さも、理屈としては、わからないことはない。しかしそれを、たとえ外国語が出来るインテリの家庭であっても、実際の生活の中に浸透させるとなると、そう簡単にはいかない。そして劇は、特にリアリズムの演劇は、日常の振る舞いに基礎を置いて創られるものだ。
 日本の普通の主婦が、夫に向かって、「あなたは私をペットのように可愛がるだけで、一人の人間として見てくれなかった」などと実際に言ったとすれば? 少なくとも戦前なら、何かのパロディにしか見えなかったのではないだろうか。「板につかない」絵空事に過ぎない、と。絵空事には絵空事の需要があるが、そんなに高いわけはない。供給側でも、翻訳劇をやればよしとして、戯曲の段階から新たに創っていこうなどとは滅多に思わないのが当然なのである。
 因みに「人形の家」の文芸協会による初演は明治44(1911)年、同年にはたまたま平塚らいてう主幹の『青鞜』も発刊されていて、最初期のフェミニズム(女性参政権運動)が開花した年でもある。そのためかどうか、「人形の家」は女性解放を訴える劇とされ、今日までそのレッテルが貼り付けられている。一人の女性の、家庭での悲劇と見られることはほとんどない。また因みに、この時期、女権に目覚めた、今で言う「意識高い系」の女性をからかう劇も、いくつか出ている。
 こういう点で、演劇は、社会の真の姿を映し出す鏡になり得る。などと言うと、抽象的な話の常として、どんな根拠や感覚に基づいてどんなことを言おうと、曖昧なところは残るし、逆に、どんなに曖昧でも、それなり(かな?)のことは言えそうにも思える。それは承知の上で、演劇に即して、別の視点を取り上げてみよう。

 近代日本の産み出した階層と言えば、なんと言っても給与生活者、即ちサラリーマンである。
 江戸時代には農民が全人口の八割以上を占めていた。それが、厚生労働省の資料によると、大正期の1920年代で、第一次産業は産業別就業人口の六割を割り、第二次産業で20%、第三次産業がそれより少し多くて、合わせると五割近くを占めている。第二次産業の代表は工場労働者、第三次は広い意味のサービス業で、ものを売る仕事、の違いはあっても、会社勤めの点では共通している。そして大企業の多くが東京・大阪などの大都市にあるので、地方からの流入者も急速に増えた。
 これには農村から見ても有利な点があった。戦前の日本は基本的に長子相続で、土地を含めた全財産を長男が相続する。すると次男、三男は、他家に養子に出るか、さもなければ生活の基盤からして新たに築かねばならない。そこで、経済的に余裕のある家庭はそういう子を旧制中学校まで進学させ、いわゆるホワイトカラーの事務や営業職に就ける。そうでなければブルーカラーの労働者、当時の言葉では職工となる。これがさらに亢進して、農村の過疎化を招くのは戦後のこと。
 さて、このようにして急速に、多数発生したサラリーマンたちこそ、日本の近代化を根底で支えた存在であることにまちがいはない。しかし特に、前者のホワイトカラーを描いた文芸作品は、この時代、ほとんど見当たらない。私が知らないだけの場合には、ご存じの方のご教導をお願いしたい。
 後者の、工場労働者なら、小林多喜二や德永直のプロレタリア文学に登場するが、それはもちろん社会主義リアリズムの実践例としてである。後にプチブル(←プチ・ブルジョワジー。多少の知識と事務能力で資本家に仕え、革命を阻害する愚か者たち、ぐらいのニュアンス)と呼ばれて蔑まれた階層は、洟もひっかけられない感じなのだ。

 超例外としてある岸田國士の初期の戯曲を見ると、その理由がなんとなくわかる。四作目の「紙風船」は、当時としては郊外の(現在の京王線沿線あたりだろう)、たぶん貸家に住む結婚一年後の若夫婦を描いている。
 倦怠期にしては少し早すぎるようだが、たまの日曜日、彼らにはやることがない。「散歩か」「散歩でもなんでも……」。彼らは、生活にも、お互いにも、これと言って具体的な不満はない。なんとも言いようがない落ち着かない感じがあるだけ。

お前が、さうして、おれのそばで、黙つて編物をしてゐる。お前は一体、それで満足なのか。そんな筈はない。おれの留守中に、お前は、どこか部屋の隅つこで、たつた一人、ぼんやり考へ込んでゐるやうなことがあるだらう。おれは外にゐて、お前のその淋しさうな姿を、いくども頭に描いて見る。百円足らずの金を、毎月、如何にして盛大に使ふか、さういふことにしか興味のないおれたちの生活が、つくづくいやになりやしないか。今更そんなことを云つてもしかたがないと諦めてゐるかも知れない。しかし、お前は決して理想のない女ぢやないからね。おれは、今のお前がどんなことを考へてゐるか、それが知りたいんだ。かういふ生活を続けて行くうちに、おれたちはどうなるかつていふことだらう。違ふか。それとも、お前が、娘時代に描いてゐた夢を、もう一度繰り返して見てゐるのか。

 これはいくぶんかチェホフ風の科白だが、もっとずっと漠然としている。それは岸田劇の主人公たちの階層が一段低いことに関係する。チェホフ劇の主人公達は、皆けっこう金持ちで、働かなくても食っていけるブルジョワだった。対して、こちらはプチブル。何より、学歴と会社での地位以外には資産がない。
 彼らは、田舎の土地と、現在でも消えたわけではない煩わしい地縁血縁から逃れ、自由を手にしている。どこへ行ってもいいし、いなくてもかまわない。よく考えると、人間は元来は、皆そうなのかも知れないが、故郷で、どこそこの家の誰それという、何世代かにわたってその場に住みついた一族の一部となると、その存在の、共同幻想中の重みは、格段に違う。そのしがらみの重しから外に出たからこそ、自由な個人となった。
 しかし、この個人のなんという頼りなさ。自立しようにも、どこに軸足を置けばいいのだろう? 教養か?
 女性について言えば、勤め人として、学歴が高くなった男の伴侶となるべく、女学校進学者の数も増えた。そこで学んだ「理想」や「夢」とはなんだろうか? 百円ぐらいの金(ざっと現在の六、七万円に当たるだろうか。生活費を差し引いた若いサラリーマン家庭の、いわゆる可処分所得は今でもそんなものだろう)でどうなるものではないことは明らかだが、では?
 社会的にはもう一つ、ここで、専業主婦が大量に発生したことは注目される。農家を初めとする第一次産業の家庭では、嫁さんも、手伝いという形であれ、労働に携わるのが当り前だった。これは商家でもそうだろう。家事労働しかしない主婦は、人口の5,6パーセントを占める武家階級にしかいなかった。
 それで、サラリーマンは江戸時代の武士の末裔である、という人もいる。その最大のエートス(実生活上の倫理)は、かつては主家(藩)に対する忠節だったものが、その対象が会社に変わったのだ、と。これはある程度当たっているかも知れないが、するとここにも個人が生きる余地はないことになる。
 「紙風船」の家庭は夫婦二人きりで、戦後の「核家族」に似ている。専業主婦は家を守るのだ、と言っても、目下その家には舅姑も、子どももおらず、第一大半が、貸家の仮住まいなのだ。
 そういう家には、ひいては、そこで暮らしている自分たちには、なんの意味があるのだろう。夫婦二人で一日中顔を合わせていると、ふと、そのような呪われた問いが立ち上がることがある。「あたし、日曜がおそろしいの」「おれもおそろしい」。ここに、意識と現実の乖離から来る、幻滅は認められる。しかし、一見してあまりに些細なので、これを文芸で、特に劇で表現しようとする試みは滅多にない、ということである。

 「二十六番館」の価値を最初に認め、演出まで務めたのが、この岸田國士だった。

舞台は紐育だが、人物は悉くわが移民の群である。そこには、「根こそぎにされたもの」の姿が、特殊な雰囲気のうちにそれぞれ面白く描き出され、諧調に富む心理的リズムが、この無装飾に近い「ビルディングの物語」を、切々たる「生活の詩」ともいふべきものにしてゐる。(「川口一郎君の『二十六番館』」昭和7年)

 アメリカへの移民となると、日本の共同体から完全に離れた「根こそぎにされたもの」(デラシネLes déracinés。元来はフランスの右翼作家モーリス・バレスの言葉で、もちろん悪い意味)であって、その自由な気楽さは譬えようもない。
 「こんな暮らしいいところはないじゃないか。〈中略〉毛唐のうちへ奉公すりゃあ、こづかいぐらいはすぐ出来る。あきたらやめる。困ったら、また働くさ」。これを言う登場人物は寡婦である。男はなかなかこの心境には留まれない。地縁血縁はほぼ全く関係ないが、この地にはまた別のエートスがある。いわゆるアメリカン・ドリーム、社会的な成功がすべて、という。
 この戯曲には四人の男が登場する。一人は、一応成功して小金を貯めたが、いまだにアメリカ風に馴染めず、日本へ帰りたがっている。その息子はかなり軽い性格だが、その分迷いなく金儲けに邁進しようとする。もう一人は、生業につかぬ一種の無頼漢で、「おれの生活には何かしら、不足なものがある」と不安を抱いている。
 最後の一人が前述の安二郎で、夢破れた後の自分をどう扱ったらいいかわからない様子でいる。妻の春子は新たに妊娠したことを彼には言えずにいたが、安二郎もそれを知っていて、親子三人の家族で「根気よく始めるか」と言う。
 しかし一方、彼が「普通の生活」を恐れていたことは、春子の科白でわかる。「その落ち着いた生活って言うのを、安二郎さんはひどく気にするの。[中略]結婚生活の破綻というのも、そんなところから起こってくるんですって」。これに前述の「僕は僕らしく生きる必要があるんだ」という当人の科白。彼にとって、家族と根気よく暮らしていくなど、およそ身の丈に合わず、一旦は春子のために妥協しようかとも考えたが、最後にはそれは無意味だ、という思いを克服できなかったのかも知れない。

 このようなプチブル、は差別語なので、小市民と言ったほうがいいだろうが、その悲劇を描いた作品として「二十六番館」は先駆的な作品と言えるのではないだろうか。アーサー・ミラー「セールスマンの死」は、第二次世界大戦後の1949年の作だ。
 そう言えば、大学を辞めた後の安二郎は、重いサンプル・ケースを抱えてあちこち歩く仕事をしていたというのだから、セールスマンだったのだろう。「人生に固い地盤はなく〈中略〉靴をぴかぴかに磨き、にこにこ笑いながら、はるか向こうの青空に、ふわふわ浮いている人間」だからこそ、「夢に生きる」者。最後に奇妙な、曖昧な死を遂げるところまで、ウィリー・ローマンと安二郎は共通する。

 さて、以上を踏まえて、またもう少し時間をかけて、近代日本で最も意識的な劇作家・別役実の小市民劇について考えてみたいと思います。
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正しい道はあるのか? その4(幕間即興狂言)

2011年02月15日 | 倫理


 ちょっと足踏みして、今回は芝居を題材にしておしゃべりします。

 前回私は、「立派な行為」と呼ばれるべきなのは、むしろ、他者のために身近な人を犠牲にするようなものではないか、と述べて、後でそれを簡単に覆してしまった。単純に、あまりよく考えていなかったからだが、なんとなく前者のような感覚が持たれるのは、いくらかは国民性に関連した、普遍的な問題でもあるかな、と思える。
 我々日本人が「私」というとき、それは「公」の反対概念であり、後者より価値の低いもの、と考えがちである。「公」の要請の前では、「私事」は必ず控えなければならない。これが嵩じると、「私」から遠く離れたものほど重要だ、というような感じにさえなる。一種の倒錯かも知れない。ちょっとこだわりたいところだ。

 日本の「公」は、実践すべき徳目としては、義とか義理とか呼ばれるものになる。その代表が、武士の世界の、主君への忠義。武士というのは、江戸時代で人口の一割にも満たなかったわけだが、このノーブレス・オブリージュ(高貴な義務)を背負う者として、人々の上に君臨する道徳的な根拠を得た。一方「私」に関わることは、人情と呼ばれる。
 武士を主人公とする、時代物の浄瑠璃(多くが歌舞伎になった)のヒーローは、公の価値、即ち義の体現者である。義経も、大星由良之助(モデルは大石内蔵助)も、唐木政右衛門(モデルは荒木又右衛門)も、この点でブレることはない。大岡裁きのような、というより一休さんの頓智みたいなものを使って、人情を汲み取ることはあるものの、公→私の順は彼らの中では不動だ。
 こういう人物には葛藤がないので、本当は劇的とは言えず、事実、よく上演される有名な場面(時代物というのはやたらに長いので、全場が「通し」で上演されることは現在ではまずない。一方、各場面の独立性が高くて、一つの芝居として完結していると見えるから、それだけ取り上げられるのが普通である)では、多くの場合彼らは登場さえしない。ここでの実質的な主人公は、公と私、即ち義理と人情の間で、引き裂かれて苦しむ、より心が弱く、立場も弱い者たちだ。
 ここでも、必ず公が尊ばれることは変わらない。人情に惑わされて、主君への忠節や世間への義理を欠く者は、正しい者とはされず、後で自決して責任を取ることで、ヒーローに昇格する(代表例は「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平)。そうではなく、大きな私的犠牲を払って公のために尽くした者の場合でも、芝居の眼目となるのは彼らの人間としての苦しみである。
 そのためには、犠牲が大きく、従って苦しみが大きいほどいい。敵方に殺されそうになっている主君の子どもを救うために、自分の子どもを身代わりにする、という筋は、ほとんどすべての演目にある。いくつか見ているうちに、ええ加減にせえよ、と言いたくなるぐらいだ。
 もっと凄いのもある。「菅原伝授手習鑑」中の「寺子屋」では、主君である菅丞相(モデルは菅直人、ではもちろんない、菅原道真)の幼子菅秀才を匿いつつ寺子屋を営む武部源蔵が、いよいよ敵の追求から逃れられない際まで追いつめられて、菅秀才の身代わりに、寺子屋に来ている他人の、上品な子どもを殺してしまう。いくらなんでもそんなのアリか、と思わせておいて、実は、この子どもは、本心を隠して敵方の藤原時平に仕える松王丸の実子で、松王丸はこうなることを見越して源蔵の寺子屋に我が子を預けたのだ、という隠された事情が後でわかる。さすがに他には例を見ないこのすばらしいご都合主義によって、源蔵の行為は最終的に、公の、正義に叶うものとされるのだ(正に、結果良ければすべてよし、ですな)。
 上はもちろんフィクションであって、江戸時代の観客といえども、こんなことが実際に武士の世界にはある、などと信じていたわけではないだろう。それでも、こんな物語が浄瑠璃語りによって繰り返し語られ、人形浄瑠璃として上演され、さらに歌舞伎として生身の役者によっても演じられて、今日まで伝わっている事実は、何者かではある。
 物語によって私たちのエートスが形成されるのか、それとも私たちのエートスと響き合うから、こういう物語が広く受け入れられるのか、これは卵―鶏関係と言うより、同じものを別の面から見ているだけのことだと思う。ともかく、「何が立派か」についての、私たち日本人の感性に、このような「身を捨てて仁(ではなくて、義、だけど)をなす」行為は確実に面影を留めている。
 乃木希典のかつての人気は、彼が我が子も一兵士として特別視せず戦場に送り出し、結果として二人の息子を戦死させた事実に依るところが大きいだろう。戦後でも、フィクションなら、「義理と人情を秤にかけりゃ/義理が重たい男の世界」という歌をバックに死地へと赴くヒーローを描いた「昭和残侠伝」シリーズがヒットしたのは、割合と最近の話である。
 
 お話変わって西洋では。
 二つの原理が妥協の余地なく対立している、crisisの最中にある者こそ劇のヒーローである。そこは日本とほぼ同じで、違うのは、その二つの間に、あらかじめ優劣関係はないところだ。
 ギリシャ悲劇「アンティゴネ」では、題名になっているヒロインは、かの有名なオイディプスが彼の実母イオカステとの間にもうけた、都市国家テーバイの王女である。同じ父母から、他に息子が二人と娘が一人生まれている。父(であると同時に兄)の、忌まわしい醜聞が暴かれて、彼自身がくだした命令によって追放されると、彼女の兄二人の間で、王位をめぐる争いが起きる。破れたほうは、他国の軍勢をたのみ、テーバイを襲撃する。激戦の末、兄弟は相討ちに斃れ、敵軍は撃退されて、テーバイには平和が戻る。新たに王となったイオカステの弟クレオンは、戦後処理の一つとして、この二人のうち、国を守るために戦って死んだほうは鄭重に埋葬し、裏切り者であるもう一人の死体は野に晒しておくように命じる。
 この禁令を破った者がアンティゴネである。彼女はテーバイ城外に打ち捨てられたままの兄の遺骸に、ひとくれの土をかけるという、最も簡素な行為で、哀悼の意を示した。肝心なのは、彼女が、人情からそうしたのではないところだ。
 なぜ国王の命に背くのか、というクレオンの詰問に、アンティゴネは敢然と答える。家族を埋葬するのは、国家以前に、神々の定めた掟である。その後にできた人間界の都合によって変更されていいものではない、と。
 日本なら、国事の公に比べたら家族間のことは私事で、小さな問題だ、とすぐに考えられる。しかしアンティゴネが依っているのは、もう一つの公であり、これがあり得ると考えただけで、国家は相対化される。現実には彼女に与する人間は何人いるのかはわからない(大勢のほうが公に近く、つまり正義に近いとつい考えがちなのも、日本人の悪いところかも知れない)。原理の話なら、「あり得る」だけでも充分である。
 ずっと時代が下って十九世紀末、西洋演劇は、たった一人で「公」を主張するもう一人のヒロインを出現させた。「人形の家」のノラは、夫は自分をまるで人形のように愛玩するだけで、一個の人間として扱っていないと言って、三人の子どもまで置いて、家を去る。
 作者ヘンリック・イプセンの名誉のために、一言断っておくべきだろう。ノラは別に、今日のフェミニストの先祖ではない。
 ことは次のように起きる。かつて夫が大病をして、医療費が足りなくなった時、彼女は死の床にあった父の署名を偽造して、借金をした。夫にはずっと隠し通してきた、犯罪行為である。それがばれそうになったとき、ノラは、夫は自分をかばうために、罪を被ろうとするのではないか、そんなことは耐えられないから、すべてを告白して自殺しよう、と考える。ボバリー夫人と同じ、結婚にロマンチックで過大な幻想を抱く主婦、それがノラだ。
 こんなのは当然、すぐに破れる。夫は、世間体や自身の出世のことばかり気にして、一方的にノラを詰る。半分以上の夫は、まずはそんなものであって、子どもっぽい夢を見たノラが愚かだった、というだけの話にも見える。
 しかし、幻滅して、裸の現実を突きつけられたノラに、「人間同士の本当の結びつきとは何か」という問題が、切実に立ち上がってくる必然性はある。彼女は、本当に一人の、「全き個人」に近い者になって、彼女だけの答えを見つけるために、家を出るのだ。これまた愚かな行為と呼ばれてもいいが、動機の部分では、「人間」に関する西洋近代の公的な概念に、直接関わっているのは確かなのである。

 私は、西洋と日本を比べて、どちらが優れている、とか劣っている、とかいう話にはあまり興味がない。それでも、個人がストレートに公につながることもあり得る、と考えられているようだ、というところでは、あちらを少し羨ましく思うときもある。また、そのような個人観があるからこそ、社会契約説というのにも、原理としてはリアリティがあるのかな、とも。まだ思いつきの域を出ないが、言えそうなことを言ってみた。
コメント (4)
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