由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

宮澤賢治の「信仰心」

2022年10月22日 | 文学
メインテキスト:宮澤賢治「二十六夜」「ビジテリアン大祭」
法隆寺蔵 玉虫厨子に描かれた 捨身飼虎の図
 
 宮澤賢治は私にとって長い間非常に特別な存在でした。他の大作家は、ドストエフスキーでも夏目漱石でも、畏敬は感じつつも、生意気にも論評してやろうという気になるのですが、この人は、そうしようとしてポツポツ読み返すと、作品世界の豊穣さに圧倒されて、何も言えなくなってしまう。そういうことを若い頃からずっと繰り返してきました。
 ここへきて、一応表現者である者として、そんなことを繰り返してもしかたないと思えてきましたので、ポツポツやってみようと思います。
 まず、賢治の「自己犠牲」と呼ばれるものについて。

 一番端的に示されているのは、「銀河鉄道の夜」中の、女の子(かおる、か、かおる子という名)が語る、蠍の火のエピソードだろう。
 バルドラの野原というところに一匹の蠍がいて、小さな虫を殺して食べていた。ある日いたちに追いかけられ、逃げて、井戸に落ちて、溺れ死にそうになった。その時の祈り。

ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとつたかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになつてしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまつていたちに呉れてやらなかつたらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸ひのために私のからだをおつかひ下さい。

 気がつくと蠍の体は空で燃える星になっていた。
 宮澤賢治に親しんだ人にはすぐにわかるように、これは「よだかの星」の原型、あるいは、もしもこちらのほうが後に書かれたのだとしたら、「よだかの星」などに現われているモチーフを、簡潔にまとめたものだ。
 そしてこれが、賢治の「自己犠牲」の中核にある思想と感情なのである。「身を殺して仁をなす」(「論語」)というようなのとは、微妙でも決定的な違いがある(「グスコーブドリの伝記」のような、外部的な自然災害との戦いを描いた作品は例外)。生そのものに対する根源的な罪の意識から発生しているのだから。といって、キリスト教の「原罪」とも違う。
 例えば、食物連鎖。一例は、植物を草食動物が食べ、その草食動物を肉食動物(人間を含む)が食べ、肉食動物の死体は地中の微生物に分解され、植物を育てる養分となる。持ちつ持たれつ、とも言えそうだが、動物の段階になると、本能的に個体の死を恐れるようだ。
 人間に到っては、「命は大切だ」なんて言ってる。しかし、そうなると、他の生物の生命を奪って食物として、自分が延命するのは矛盾ではないか?
 もちろん人間だけではない。たいていの生命体が、能動的に殺すかどうかの別はあっても、他の生命の死に依存しなければ、生き延びることはできないし、この世に種を残すこともできない。すると、生命そのものが矛盾していることになる。

 「そんなことを言われたって……」と言いたくなりますね。どうしようもないのだから。虎に自分の体を食物として差し出しても(捨身飼虎)、蠍が狐に食われてやって一日生き延びさせても、かえって、その一日でさらに多くの生き物の命が奪われる結果になるわけだし。
 ここには「救い」なんてものが成り立つ余地はない、ように思える。それなのに、食物連鎖なんてことが考え出されるずっと以前から、このような矛盾を「業」と呼び、積極的に直面するように求めた宗教もあるようだ。
 厳しすぎる考え方にも取り柄はある。「献金しなければ救われない」=「献金すれば救われる」なんてことには決してなりようがないのだから。
 でも、「救い」はなんにもなし、だとしたら、普通の意味で宗教にはならないのでは? それでも、成り立つとすれば。

 賢治の初期の童話に「二十六夜」がある。梟の僧侶が三晩に渡って(二十四夜から二十六夜まで)梟たちに説教する説教会を描く。お経まで創作され、それが四回繰り返す。
 説教の内容は、お前たち(梟たち)は、虫や小鳥を捕らえて殺すという悪行を、現世だけでなく、輪廻転生による過去生でも来世でも繰り返すしかない哀れな者なのだから、自力救済などは思いも寄らない。ただ、この宿業から解脱した疾翔大力(別名は捨身大菩薩。元は雀の聖鳥)の大慈悲にお縋りせよ。といったもので、これは賢治が信仰していた日蓮宗より、家族が帰依していた(賢治は改宗させようと試みて失敗した)浄土真宗の教えに近い。
 この最中に、説教に飽きた子どもの、兄弟梟が三匹、逃げ出してよその林へ行く、そこで一番年下で一番大人しい穂吉が人間の子どもに捕まる。次の夜には逃がしてもらえるのだが、気紛れに足を折られて、ついに死んでしまう、という悲しい出来事が起こる。穂吉は、人間に対して何も悪いことはしていないにもかかわらず。
 若い梟たちは、色めき立って、人間に仕返しに行こうと騒ぐが、坊さんの梟は止める。それでは今度は向こうの心に恨みが生じ、復讐が始まるだろう。そのようにして「一の悪業によって一の悪果を見る。その悪果故に、又新なる悪業を作る」。かくて悪は子々孫々にまで絶えることなく、さなきだに悲惨な現世に、さらに無数の悲惨を加えるだけだから、と。
 言葉の内容は、賢治的な基準からして、全く正しい、と言える。しかしこれを、高みから説教されるとなると、何か、どうも……。自分もまたその宿業から免れ得ないことをちゃんと自覚しているなら、こんなに偉そうに言えるもんかな、と疑問が湧いてくる。ただそれは、作中の、梟の僧侶の話。
 宮澤賢治の真価は、他人にどうせよ、と教える前に、この巨大な罪業を解決不能な「悲しみ」として背負い、そこから、せめて「まことのみんなの幸ひ(とは何か、また難解ですが)のために」生きたい、という祈りが出てくる、これを基に創作と実践を遂行していったところにある。
 前記「よだかの星」や「なめとこ山の熊」といった、まさに珠玉のような作品には、この祈りが結実している。結末には救いが描かれているようにも見えるが、主人公たちの心持ちはわからない。ここにあるのは何かの過程でも結果でもなく、悲哀と祈りの純粋結晶なのだ、と考えたほうが、素直に胸に落ちる。

 ここで終わりにしてもいいのだが、宮澤賢治には別の面もある。たいてい失敗したが、社会運動の実践家でもあり、また科学者として、理論の世界に生きる人でもあった。実生活では、ベジタリアンで、しかも後年になるに従ってどんどん過激な、今で言うヴィーガンに近くなり、そのために命を縮めた可能性も大きい。
 理論面では、「ビジタリアン大祭」という童話に、この思想が語られている。ビジタリアンはベジタリアンのこと、でいいのだろう。童話、と言っても、宗教や科学の術語がふんだんに散りばめられ、親鸞や孟子の名前も出てくる異色作。
 内容はニュウファウンドランド島の村・ヒルテイで行われた、ビジテリアン大祭に日本代表として出席した「私」の体験記の体裁をとっている。そこでは、会が始まる前から反ビジタリアンによるパンフレットが多数撒かれているのを目にし、会場にも反対派がいて、論戦をしかけてくる。それを「私」を含むビジタリアンたちが次々と論破していく、というもの。
 この論戦にはなかなか迫力があり、賢治にはポレミック(論争家)の面も欠けていなかったのだとわかる。
 議論の前提としての「私」の立場は以下。ビジタリアンには大別して二種あり、同情派と予防派。後者は、肉食は健康に悪い、というもので、今もある。ここは措く。「私」自身は同情派に属し、その核心の考えは。

結局はほかの動物がかあいさうだからたべないのだ、(中略)もしたくさんのいのちの為に、どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから泣きながらでも食べていい、そのかはりもしその一人が自分になつた場合でも敢えて避けないとかう云ふのです。けれどもそんな非常の場合は、実に実に少いから、ふだんはもちろん、なるべく植物をとり、動物を殺さないようにしなければならない、くれぐれも自分一人気持ちをさっぱりすることにばかりかかわって、大切の精神を忘れてはいけないと斯う云ふのであります。

 どうですか? すんなり納得できますか?
 ぱっと見て、問題が二つ。後のほうから言うと、数が問題なの? あなたが森で狼の群れに囲まれたら、こっちは一人、向こうは複数なんだから、戦ったり逃げようとしてはならない? 大人しく食われてやれ、ということ? 
 こう言うと皮肉に聞こえるかもしれないが、宮澤賢治を心から畏敬している私が、ここで皮肉を言いたいわけはない。自然にそうなってしまうぐらい、生物としては不自然な考えだということだ。それを敢えてやるのが菩薩行というものか。捨身飼虎は確かに、そういう話ではある。救いのため、解脱のためには必要なのかも知れない。でも、そういうことはできないから凡夫凡婦なんでしょう?
 まあ、そんな場合はめったにないから心配しなくてもよい、と。え? ここへ来て現実的になるのか? と思えるのは押さえて、肝腎な、「動物がかあいそう」の「大切の精神」のほうへいくと。

 生物であっても、植物は最初から対象外。たぶん意識はなく、苦痛も感じないから、いいんだ、ということらしい。それから、農作物を収穫するためにも、害虫(人間にとって害がある、ということですね)を駆除する必要はあるんじゃないか、と思うが、それについては一個のキャベツを作るのに青虫(やがて蝶になる)百匹を殺さねばならん、という話が少し出て来る。
 そして、植物だか動物だかわからないバクテリアの話とまとめて、支那人の陳氏というベジタリアンが反論する。アンチ・ベジタリアンは「バクテリアも動物で、それを殺してはいかんということなら、空気中にも多いときには一万もいるのだから、我々はうっかり呼吸もできないことになる」(引用ではなく、要約)などと言うのだが、そんな極端な例を持ち出されても困る、と。
 「常識的に」馬を殺すのとバクテリアを殺すのは大きな違いで、我々は馬は可哀そうに思うが、バクテリアはそうではない(青虫もそうではないんだろうな)。「それでいいのです。又仕方ないのです」、ただし将来人間の文明が進めば、また変わってくるかもしれないが、と。
 穏健妥当? それだけに、これを教義とするのは少し弱いのではないだろうか。可哀想だと思うから食べない、ということは、可哀想だと思いさえしなければ食べてもいい、ということになってしまう。可哀想だと思うのが人間としては当り前だと言いたいらしいが、これもまた、結局は個々人がどう感じるかに拠るしかない。「人として何が正道か」の感覚は、何しろでかすぎる上に複雑至極な問題なので、植物と動物の境目以上に、曖昧になりがちなのだし。
 それが悪く働いている例は、陳君自身の話の中に見出せる。「私の国の孟子(メンシアス)と云ふ人は徳の高い人は家畜の殺される処又料理される処を見ないと云ひました」。これは「君子は厨房を遠ざくる也」という成句の元になったお話。君子=徳の高い人というのは、生きている動物を見たりその声を聞いたりすれば、可哀想になってその肉を食べる気が失せる。ゆえに君子は調理場には近づかないのだ、と。
 でも、この君子は肉を食わない、という話ではない。殺されて調理されるところに立ち会いさえしなければ、可哀想に思う心(惻隠の情)は起こらず、安らかに美味しい肉を食える、ということ。それではさすがに、ビジタリアンの立場からして、いいとは言えないから、陳君もそのことは詳述しない。
 また皮肉か、なんて言われないように、必要以上に怒りを表明しておく。こんなの、欺瞞でしかない。嫌なことは下の者に任せておけばいいんだ、という身分社会には「常識」だった差別意識に基づくところ、欺瞞が二重になっている。そして陳君は、議論に勝つために、意識的にか無意識的にか、それには目を瞑っている。

 この童話の最後には、キリスト教国生まれでありながら仏教徒、それも浄土真宗本願寺派の信徒だという人が登壇し、「二十六夜」の梟の僧侶と同主旨のことを言います。曰く「この世界は苦である」、この世界で行われることはすべて矛盾であり、罪悪である。我々が感じる正義なるものはすべて、自分が気持ちがいいというだけのことなのだ(だから、肉食が気持ちがいいなら、それを止める根拠は、我々の内からは出てこない、ということになる)。ただ阿弥陀仏に帰依せよ。すべてはそこから始まるべきなのだ、と。
 これに対して「私」が激昂して反論します。お釈迦様が肉食を禁じたかどうかの高度な仏典の解釈は、私にはわからないので、措く。最後のあたりに言われているのは以下。
 宗教の真髄は、仏教でもキリスト教でも愛である。また、生命は生々流転を永遠に繰り返すので、我々のまわりの生物はみな永い間の親子兄弟である(これは仏教独自の考えだろう)。親子兄弟を愛するならば、これを殺して食べるなどということがどうしてできようか。僧侶でありながら肉食を認めた親鸞などは、堕落した仏教徒である、とは言っていないが、理の当然で、そういうことになるだろう。
 「私」=宮澤賢治、とは即断できないが、賢治の思想の一部はここに、かなり簡潔かつ明瞭に出ている、とみていいだろう。そのためにかえって、生き物の悲しみを見つめ続けるところからくる諦念は感じられない。前述したように、それこそ我々を深く感動させるものだろう。結果「ビジテリアン大祭」は、彼の遺した著作物の中で比較的知られていないものになっているのだと思う。

 それは賢治にもけっこうわかっていたのではないだろうか。
 この童話の最後では、それまでビジタリアン達を論難していた者たちが皆改心して、ビジタリアンになる。そこで驚いていると、さらにまたどんでん返しがあって、すべてが、最初から仕組まれた余興の芝居であったことがわかる。つまり、作中の反対派は実際はビジタリアンなのであって、デイベートよろしく、本当は信じていない批判を述べて、論破されてみせた、というのが真相なのだ。
 事前にそれを知らされておらず、すっかりだまされた「私」はあっけにとられて、「あんまりぼんやりしましたので愉快なビジテリアン大祭の幻想はもうこわれました」と最後に述べる。
 どんな信仰も思想も、個人の内にある限り、純粋なものであり得る。社会運動になって、多くの人を巻き込もうとするなら、どこかに欺瞞を含むようにならざるを得ず、また運動が大きくなればその部分も大きくなってしまう。ほぼすべての革命運動が、成功してみれば革命以前より多くの犠牲を出してしまうのは、この理由からだ。
 熱心な仏教徒であった宮澤賢治は、この矛盾も人間の悲しむべきところの一部として、感得していたのではないだろうか。
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