由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

自動人形はチェスマスターを夢見るか

2014年01月26日 | 倫理
メインテキスト:小林秀雄「考へるヒント」(『小林秀雄全集第十二巻 考へるヒント』新潮社昭和43年)

サブテキスト:保木邦仁・渡辺明『ボナンザVS勝負能――最強将棋ソフトは人間を超えるか』(角川oneテーマ21、平成19年)
トム・スタンデージ 服部桂訳『謎のチェス指し人形「ターク」』(NTT出版平成23年)

 エドガー・アラン・ポーのエッセイ「メルツェルの将棋差し」は小林秀雄訳によって、雑誌『新青年』昭和5年2月増刊号に発表された(訳者名の記載なし)。ボードレールによる仏訳からの重訳で、遺漏が多く、さらに小林が原文にはない文章まで付け加えている。これを後に大岡昇平が補綴した訳が、現在『ポオ小説全集Ⅰ』(創元推理文庫昭和49年初版、62年第30版)に収録されている。
 以上はたぶん大岡の手になる創元推理文庫版の註による。そんなことより新たに訳したほうがいいのではないかな、とも思えるが、何しろ「文学の神様」が初期に書き残した文章ではある。「読者は重要な部分において、小林の初期の論文と同じ調子を認める」のは貴重と考えられるので、このようにした、と(たぶん)大岡は註記している。ポーの原文はここで読める。


 話は通称「ターク」(The Turk、トルコ人の意味)と呼ばれる、18世紀後半から19世紀前半にかけて有名だったチェスを指すオートマトン(自動人形)に関するものである。1770年にハンガリーの発明家ヴォルフガング・フォン・ケンベレンによって当時のハンガリー女王マリア・テレジアに献呈されたもので、19世紀初頭のケンベレンの死後、メトロノームの発明者として知られている(実際は違うらしい)ヨハン・ネボムク・メルツェルが買い取った。ケンベレンもメルツェンもトルコ人を持ってヨーロッパやアメリカ各地を巡業し、大評判を得た。
 巡業の中身は、トルコ人の扮装をしたからくり人形(薄いチェス版が嵌め込まれたテーブルが取り付けられている)と、人間との対戦である。非常に強かったが、全勝ではなく、たまには負けることもあった。ナポレオン・ポナパルトやベンジャミン・フランクリンとも対戦し、多くの人がその秘密の解明に挑んだ。
 1827年、ボルチモアでの公開時、二人の少年が、テーブル下のキャビネット部から人間が出てくるのを目撃した。この出来事は『ボルチモア・ガゼット』紙の記事となり、真相の核心はこの時点で明らかになっていた。タークとは、チェスを指す機械ではなく、チェスを指す人間を、からくり機械(大部分が単なる見せかけ)の中に巧妙に隠すための仕掛けなのだった。しかしこの記事も、タークに関する真偽さまざまな憶測(文書だけでもかなりあった)の中に埋もれて、やがて忘れられた。
 1836年、当時27歳のポーは、何回かタークの興行に足を運び、その観察に基づいた推論を発表した。これが「メルツェルの将棋差し」である。さすがに推理小説の元祖になった人だけのことはある鮮やかな推理が展開されており、タークのからくりを見抜いている(人間の隠れ場所を人形の内部だとする、などの誤りはあるが)。もっとも、実地の観察以前に、ポウには確固とした信念があり、これを証明することが文章を書いた根本的な動機であることは、最初に明らかにされている。
 それは、原理的に、機械にはチェスは指せない、ということである。この時代既に初期型のコンピューターというべき計算機はあり、例えばチャールズ・バベッジが発明した階差式計算機は、天文や航海に関する複雑な計算に役立てられていた。それでも、機械には、ある一定の答えがでるような問題にしか対応できないはずである。チェスのように、対手がいて、その出方によって局面が千変万化し、最善手(チェスの勝負に勝つために一番いいという意味で)もその都度変わるようなゲームには、すべてを通した「一定の答え」がそもそもなくて、ならば計算そのものが成り立たず、ならば機械の出番はない、はずだ。
 ポーのこの見解が正しいとすれば、対手の駒を取ったら、それを自分の駒として使える分チェスより複雑な日本の将棋では、なおさらそうだろう。が、小林秀雄は、自分勝手な訳を発表してから約30年後に、あるところで将棋を指すコンピューターの話を聞き、なんとなく不快な気持になって、銀座でたまたま会った中谷宇吉郎に尋ねてみることにする。

「仕切りが縦に三つしかない小さな盤で、君と僕とで歩一枚づつ置いて勝負をしたらどういふ事になる」と先づ中谷先生が言ふ。/「先手必敗さ」/「仕切りをもう一つ殖やして四つにしたら……」/「先手必勝だ」/「それ、見ろ。将棋の世界は人間同士の約束に過ぎない。(中略)問題は約束の数になる。普通の将棋のやうに、約束の数を無暗に殖やせば、約束の筋が読み切れなくなるのは当り前だ」/「自業自得だな」/「自業自得だ。科学者は、さういふ世界は御免かうむる事にしてるんだ」/「御免かうむらない事にしてくれよ」/「どうしろと言ふのだ」/「将棋の神様同士で差してみたら、と言ふんだよ。(中略)神様なら読み切れる筈だ」/「そりや、駒のコンビネーションの数は一定だから、さういふ筈だが、いくら神様だつて、計算しようとなれば、何億年かゝるかわからない」/「何億年かゝらうが、一向構はぬ」/「そんなら、結果は出るさ。無意味な結果が出る筈だ」/「無意味な結果とは、勝負を無意味にする結果といふ意味だな」/「無論さうだ」/「ともかく、先手必勝であるのか、後手必勝であるのか、それとも千日手になるのか、どれかになる事は判明する筈だな」/「さういふ筈だ」

 中谷との対話はもう少し続き、それに基づき、「常識」に関する小林一流の、飛躍したご教説が展開される。ここでは、「無意味」の意味についてもう少しこだわりたい。
 機械がチェスや将棋を差す(指す)かと言えば、そんなことはない。機械自体がそんな「勝負」に「意味」を見出すわけはないのだ。この点でポウが唱え、小林も賛同した「常識」は、いかにも正しい。ただ、勝負事ではなく、一つのパズルとして捉えるなら、コンピューターも相当深くこの内部に入り込める。この観点がポーにはなかった。
 中谷の説明を言い換えると、こうなる。盤上でのチェスや将棋の駒の動かし方は、有限である。将棋だと、ゲーム開始の段階で30通り(30手)の動かし方がある。これはもちろん対手も同じ。ゲームが進むにつれて動かし方(及び相手の駒を取った場合にはどこへ張るかを含めて)も増えて、平均してだいたい一回に80通り、可能な手がある。二歩など、ルール上決められている禁じ手を除いて、すべての可能な駒の動かし方を尽くしていって、勝負がつくいわゆる「詰み」の状態か、千日手の引き分け状態まで進めたとしよう。それがゲームとしての最終形なわけだが、それだけでも何通りあるものか、見当もつかない。
【因みに、9手目に先手が後手を詰めるのが最少手順。将棋を多少でも知っている人は簡単に見つけられる。しかし、ルール上可能な手をランダムに指していってこの局面になる確率は、ちゃんと計算したわけではないが、だいたい2兆分の1以下である。人間が先手後手に分かれて指した場合には、二人で協力してやった場合以外にはあり得ない】

【相入玉となり、何手やっても勝負がつかない、これが将棋の「最終解答」だということもあり得る。これは今、考慮外とする】。
 コンピューターが上のすべての手順を記憶できるものならば、対手の手に応じた、自分が勝つための最善手を必ず見つけられる道理なので、最強となる。しかし記憶以前に、すべての可能な手はいくつあるのか。現在のプロの対局で終わるまでの平均指し手が120ぐらいとして80の120乗ほどの手数を検討すればいいんじゃないだろうか(実際はもっと多いだろうが)。と、軽く言ったが、これは宇宙に存在する原子の数より多いのだそうで、1秒に400万手以上読めるコンピューターを使っても、計算し終える頃には地球は無くなっているだろう。
 人間の身の丈で考えたら、そんなのは無限と同じで、計算不能と考えてよい。してみると、ポウは決してまちがっていたわけではない。また中谷のように、人間が遊びとして考え出したそんな煩雑なものは相手にしない、という態度も、充分に道理に適っている。私としては逆に、全部で9×9=81に区切った盤面と20×2=40の駒数で、宇宙全体を扱うに相応しい、いわゆる天文学的な数の変化のあるものを、大昔に発明した(もちろん、一度にできたのではなく、インドでできた原型に各地で長い年月の洗練が加えられ、チェスや将棋の形になった)人間という存在に、畏敬の念が持たれてしまう。
【因みに囲碁は、全可能手は361!前後だろうから、それよりさらにずっと多い。】

 が、話はこれでは終わらない。人間とコンピューターとの対戦は、チェスでも将棋でも、かなり前から始まっている。可能な限りのすべての手順を解明できなくても、人間が将棋を指すときの思考と似たものを、アルゴリズムとして組むことができればよい。
 具体的には、まず、10万以上の棋譜を覚え、いわゆる定石ができている場合には、それに従う。対局が始まってだいたい20数手目ぐらいに、定石から外れるので、それ以後は局面の有利不利を独自に判定していく。この場合も既存の棋譜の局面をモデル化して、その分析結果に基づいて点数化を行うのである。具体的には、自分の駒全部(盤上の駒+持ち駒)とその配置に点数をつけて(例えば、金が持ち駒なら5点、玉傍にあった場合は4点、相手陣地にあったら3点、という具合)、総合点を出し、対手側も同じように計算し、その差引計算をする。次に、以後により有利な局面を作るための最善手を見つける。先程のしらみつぶしの全検索をやったとして、(平均80手というのは、王手がかかった場合の可能手は平均10手前後になるからで、切迫した局面なら普通100手ぐらいであるとして)3手先なら100万手ほど、最近のコンピューターなら1秒以内に読める。5手先なら100億になるけれど、3手先の時点で、大多数の手はとうてい局面を有利にできないことはすぐに判定できるだろうから、それは捨てて、この点から見て可能性がある手順を、10分なら10分の制限時間でできるだけ先まで読み込み、最も見込みが高いと計算できた手を選ぶ。
 最大の問題は、すぐにわかるだろうが、有利不利の判定法である。私が例示したような単純なものではとうていないだろうが、それでも完璧にできているとは思えない。しかし、不完全な基準であっても定数があるなら、それを元に計算して、コンピューターは一定の答えを出す。実際の対局で手が進んで、選ばれた手が悪手であったとわかれば、コンピューターはそれを覚えるから、似たような局面で同じような手を選ぶ可能性は減る。また判定基準も修正される。こういうのは、人間の棋士の場合と同じだろう。ただ、すべての手順を試みたわけではない以上は、最強にはなり得ない。
 かくなるわけで、最強のコンピューターはまだできていない。人間と対局して、負ける場合もある。ただし、チェスの世界では人間はまずコンピューターに勝てなくなっているそうで、早晩将棋もそうなる可能性は高いようだ。

 この状況を踏まえると、ポーが唱え、小林秀雄が当然とした「常識」はどうなるだろうか。
 実は、何も変わらないのである。コンピューターは勝負をしているわけではなく、計算をしているのだから。

将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはゐない。熟慮断行といふ人間的な活動の純粋な型を現してゐる。

 なぜそう言えるのか。チェス/将棋には未だに完全な解(≒必勝手順)は見つかっていない。だからこそ、やってみる値打ちが、つまり意味が、ある。結局は不完全でしかない、とわかっている考慮を重ねて、その限りでの結末(勝敗)に達するために。この不合理さこそ、人間的なのである。
 もちろん人間は、「チェス/将棋を指さない」を選ぶこともできる。逆に言うと、チェス/将棋というゲームが成立するためには、一手づつ交互に指す、などのルールに従うことが二人の人間の間で合意されていなくてはならない。さらに言えば、遊戯だけではなく、活動の全般が、例えば「言語ゲーム」(ヴィトゲンシュタイン)と呼ばれ得るような、「人間同士の約束」の一種であるのが、人間という、過剰な「意識」を持つ生物の特質であろう。
 さて、そこで機械の話に自分なりの(不完全な)決着をつけておこう。
 まず、人間が何かをする上では、先読みの推論(こうすれば、ああなる)が必ず伴う。その部分だけなら、余計なことを考えないだけでも、コンピューターのほうがずっと速く、確実にやってのけるだろう。だから機械のほうが優れている、なんて話ではない。
 この場合の「意味」とはこうだ。完全な解答はわからないことを当然の前提としてやるので、将棋は、いつも新たに、それに取り組む人間の、個人的な創造的な行為になり得る。即ち、主体がそこにある。それこそ幻想だ、と言われてしまえば、そうではないと証明するのは難しいけれど。そして機械は、そんな曖昧な領域には最初から無縁なものとして作られた。
 第二に、人間同士の約束事であったはずのものが、人間以外にも拡張する、となると、我々は方向感覚がくるわされるような、不安と興味を覚える。計算をする犬と同様に、チェスを指す機械が、見世物として人気を集めたのは、そういうわけである。
 フィリップ・K・ディックらのSF作家が描いてきたように、異星人でもアンドロイドでも、人間とは微妙だが決定的に違う知性と文明を備えた存在が現れたら、最もスリリングな形で「人間とは何か」が問題になるだろうが、幸か不幸か、それはまだない。
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