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立憲君主の座について その9(今上陛下の退位をめぐって)

2017年07月28日 | 近現代史
  おことばを述べられる天皇陛下

 本年6月9日、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が衆参両議院を通過し、成立した。これで来年末には1817年(文化十四年)の光格天皇以来、約二百年ぶりの譲位が実現する見通しとなった。
 それはそうと、この法律に関する議論の過程で、皇室の現在と将来に関する、大きな論点が浮上してきた。
 改めて言うのも迂闊なようだが、今上陛下は、「象徴天皇」として最初から即位なされた、日本史上初のお方である。現憲法下での皇室のあり方に深く思いをいたし、また実践してこられた。陛下のご退位希望も、この一環であったのだ。
 その思いと実践そのものから、日本独特の立憲君主制である天皇制(この言葉は元来共産党の発明であることは知っているが、「日本独特の立憲君主制」を示すものとして使わせてもらう)の矛盾の一つが、明瞭になったのである。
 本当は知らないほうが幸せであったのかも知れない。が、既に浮かんできて目に見えてしまった以上、やり過ごす、というわけにもいかないだろう。もちろん、すぐに結論を出せるほど簡単なことではない。それでも、つまらないレベルで各所に感情的な反発だけが募るのはまことにつまらない。今回は、昭和天皇を題材にして天皇制の問題を細々と考えている者として、論点整理だけでもしておこうと思う。
 多少とも同朋諸氏の参考になれば幸甚である。

 問題を端的に伝えたのは、『毎日新聞』本年5月17日の記事である。以下に全文を掲げる。

 天皇陛下の退位を巡る政府の有識者会議で、昨年11月のヒアリングの際に保守系の専門家から「天皇は祈っているだけでよい」などの意見が出たことに、陛下が「ヒアリングで批判をされたことがショックだった」との強い不満を漏らされていたことが明らかになった。陛下の考えは宮内庁側の関係者を通じて首相官邸に伝えられた。
 陛下は、有識者会議の議論が一代限りで退位を実現する方向で進んでいたことについて「一代限りでは自分のわがままと思われるのでよくない。制度化でなければならない」と語り、制度化を実現するよう求めた。「自分の意志が曲げられるとは思っていなかった」とも話していて、政府方針に不満を示したという。
 宮内庁関係者は「陛下はやるせない気持ちになっていた。陛下のやってこられた活動を知らないのか」と話す。
 ヒアリングでは、安倍晋三首相の意向を反映して対象に選ばれた平川祐弘東京大名誉教授や渡部昇一上智大名誉教授(故人)ら保守系の専門家が、「天皇家は続くことと祈ることに意味がある。それ以上を天皇の役割と考えるのはいかがなものか」などと発言。被災地訪問などの公務を縮小して負担を軽減し、宮中祭祀(さいし)だけを続ければ退位する必要はないとの主張を展開した。陛下と個人的にも親しい関係者は「陛下に対して失礼だ」と話す。
 陛下の公務は、象徴天皇制を続けていくために不可欠な国民の理解と共感を得るため、皇后さまとともに試行錯誤しながら「全身全霊」(昨年8月のおことば)で作り上げたものだ。保守系の主張は陛下の公務を不可欠ではないと位置づけた。陛下の生き方を「全否定する内容」(宮内庁幹部)だったため、陛下は強い不満を感じたとみられる。
 宮内庁幹部は陛下の不満を当然だとしたうえで、「陛下は抽象的に祈っているのではない。一人一人の国民と向き合っていることが、国民の安寧と平穏を祈ることの血肉となっている。この作業がなければ空虚な祈りでしかない」と説明する。
 陛下が、昨年8月に退位の意向がにじむおことばを表明したのは、憲法に規定された象徴天皇の意味を深く考え抜いた結果だ。被災地訪問など日々の公務と祈りによって、国民の理解と共感を新たにし続けなければ、天皇であり続けることはできないという強い思いがある。【遠山和宏】


 もちろん今上陛下の「ショック」がどのような性質の、どの程度のものであるか、正確にはわからない。そこには留保が必要だとしても、「やるせない思い」が事実あるとしたら、「おいたわしい」と感じないわけにはいかない。
 陛下が被災地の御訪問や大東亜戦争の犠牲者への慰問に精勤しておられたことは周知だが、そこにこれほど強い思いがあったとは。これと、「保守系の専門家」との間の懸隔は、越えようがないのかも知れない。しかし、それが現にある以上は、見えないところで燻っているより、明らかになったほうがよいとも考えられる。
 それにつけても、論点は正確にしておかなくてはならない。まず、陛下が公的におっしゃった昨年8月8日の御言葉から引用する。

 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。
 そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。


 次に、「陛下に対して失礼」と言われた有識者のうち、名前が出ている平川祐弘氏と故渡部昇一氏の意見を、前者は「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(以下、「有識者会議」と略記)(第3回)議事録」(平成28年11月7日)、後者は「有職者会議(第4回)議事録」(同年同月14日)から、順に引用する。

 代々続く天皇には、優れた方もそうでない方も出られましょう。健康に問題のある方も皇位につかれることもありましょう。今の陛下が一生懸命なさってこられたことはまことに有り難く、かたじけなく思います。しかし、一部の学者先生が説かれるような行動者としての天皇とか象徴天皇の能動性ということも大切かもしれませんが、私はその考え方にさかしらを感じます。その世俗、secularの面に偏った象徴天皇の役割の解釈にこだわれば、世襲制の天皇に能力主義的価値観を持ちこむことになりかねず、皇室制度の維持は将来困難になりましょう。

(前略)天皇のお仕事というのは、昔から第一のお仕事は国のため、国民のためにお祈りされることであります。これがもう天皇の第一の仕事で、これは歴代第一です。だから、外へ出ようが出まいがそれは一向構わないことであるということを、あまりにも熱心に国民の前で姿を見せようとなさってらっしゃる天皇陛下の有り難い御厚意を、そうまでなさらなくても天皇陛下としての任務を怠ることにはなりませんよと申し上げる方がいらっしゃるべきだったと思います。


 多言は不要かも知れないが、一応解説もどきに述べる。
 「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくか」について陛下が出された答えは、第一に、前述の、各種の行幸を指すのであろう。御言葉の後半にある、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」などからしても、それは明らかである。
 因みに、行幸とは天皇が宮廷や御用邸以外の場所へ行くことを言うから、もちろん今上陛下が創められたことではない。特に近代になってからは、明治天皇の六大巡幸(明治5~18年。巡幸とは、行幸のうち、外泊して複数の場所へ行くこと)や昭和天皇の戦後の巡幸(昭和21~29年)はよく知られている。被災地への慰問や、ほぼ必ず皇后を伴うこと、などは、先例がなくはないが、今上陛下が最も積極的に、精力的になさった。また、膝を折って被災者と同じ目線で親しくお言葉を交わされたのは、今上が最初であるらしい。こういうのが、お言葉にある「象徴の務め」「象徴的行為」の中身である。
 平川・渡部両氏も、ほぼ同じ考え方の人々(大原康夫、八木秀次、櫻井よしこ、などの各氏)も、その活動自体を批判しているのではない。それは尊い、有難いことであった。しかし、天皇なら当然やるべき「公務」(上の記事では明らかにそう言われている)とまでするなら、疑問がある。将来、健康上の理由その他で、そういうことがちゃんとできない人が天皇になった場合には、「あれは天皇に相応しくない」という批判が出ることに繋がるからだ。
 もっとも、批判なら現在までにも出ているし、それは「言論の自由」に含まれている、と言うこともできよう。問題は、これが皇位継承にまで影響を与える可能性が出るときだ。
 現皇室典範は、第一条で皇位は皇統に属する男系男子が継ぐべきこと、第二条で継承権の順番を「一皇長子、二皇長孫、……」と定めてあり、これが改変されない限り、次の天皇が誰になるかは紛れがない(皇統に属する男系男子が絶えた場合はどうするか、というようなことはここでは述べない)。
 しかし、退位はどうか。今後の天皇も、高齢によって、あるいは「健康上の理由その他」によって、「全身全霊」で「象徴的行為」ができなくなった場合には、やっぱり退位すべきなのだろうか。
 事は一見するより重大である。天皇は、元来、能力や実績などによって選ばれるべき存在ではない。もっとも、長子相続が厳密に定まっていなかった近代以前には、「兄弟や従弟の中で、誰が皇位に相応しいか」などと考慮されたこともあり、それに従って譲位も頻繁に行われた。
 しかしそもそも、個人の能力の判定など、見方により立場により、様々に変わり得る。必ず衆目が一致する、とは期待できない。現に日本史上にも様々な見方が出て、南北朝の大乱などを招いた。その故知から、伊藤博文を初めとする明治の先人が、現行の原則を定めたのである。
 この時から天皇は、明確に、「その地位に相応しい能力」によって選ばれる存在ではなくなった。そうであれば、「相応しい能力がなくなった」から辞める、というものでもない、と考えられるだろう。それが首尾一貫、というものである。
 そのような存在には意味はない、と考える人もいるが、私は大いに意味がある、と思う。それについては後述する。
 今はその手前で、現在、いったい誰が、AならAという人は、もはや天皇に相応しくない、などと決めるのか、を少し考えていただきたい。民主主義なのだから、主権者たる国民が、人物を見て、ということになりそうだ。それくらいなら、もう血統主義などは完全に捨てて、選挙に依る大統領制にするに如くはない。これは即ち天皇制の廃絶である。この点で平川氏らが言うことは、全く正しい。

 ひるがえって、御言葉に表現されている今上のお気持ちを、できるだけ深く推察する。
 いくら「有り難く、かたじけなく」云々と言われようとも、その後で「そうまでなさらなくても天皇陛下としての任務を怠ることにはなりません」などと言われたのでは、よい気持ちがしないことは当然である。自己の行為を「全否定」されたと感じることもあるかも知れない。しかしそれだけなら、「売り言葉に買い言葉」レベルの、感情の問題である。今度少し長く考えて、たぶんここには、感情は感情でも、もっと深い淵源を持つものがあるように思えてきた。
 何度も話には出てきたことだが、この際なぜ公務を代行する摂政を置かないのか。それなら、現制度下で可能なのである。即ち、皇室典範の第十三条第二項「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」。高齢で、と言うことが「身体の重患又は重大な事故」に当たるかどうかは議論の余地はあるかも知れないが、前例として、父君である昭和帝が、大正10年から摂政を務められていたことは、もちろんご存知だろう。因みに、この時適応された旧皇室典範では「天皇久キニ亙ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハサルトキハ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ摂政ヲ置ク」。
 字句からして、戦後の皇室典範は、なるべく摂政を置きたくないのだな、とはなんとなくわかるが、それより問題なのは、「(前略)この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」との御言葉にあるように、天皇としてやるべきことをやらないまま、名前だけそうであるような存在は無意味だ、と今上陛下はお考えであることだろう。大日本國憲法の時代の帝王ならならともかく、象徴としては。
 では、天皇のやるべきことのうち、中心はなんだろうか。現憲法第五~七条の「国事行為」ではない、とお考えなのだろう。それなら代理が務めても、さしたる大事ではない。前述の、「象徴的行為」が、明らかにより重大なのだ。単純に言って、被災地で慰問されるにしても、天皇自身とその代理とでは、有難味がまるで違うだろうから。
 さらに、御言葉には、次のようにもある。これは「象徴的行為」のある文の、前の部分である・

 私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。

 「人々の傍らに立ち」「思いに寄り添う」ことができないままに、宮中の深いところで国民の安寧や幸せを祈っても、それは「空虚な祈り」でしかない、とまで思われているかどうかは定かではない。ただ、そうなれば、本当に祈っているかどうか、一般人には知りようがなく、それでは国民の支持は得られないから、「象徴天皇」は存続し難くなるのではないか、とお考えのようである。
 それを「さかしら」と言われたのでは、怒るのも無理はない。そこは理解した上で、私はなお、この点では平川・渡部氏らに賛同する者である。天皇主義者からは、不敬だ、と言われるかも知れないが。

 つまり、私は天皇主義者ではない。私が天皇制を支持するのは、これまで『軟弱者の戦争論』や本シリーズ「その1」で書いてきたように、第一に、権力の中心と権威の中心を分けるのは、独裁制・全体主義国家を遠ざけるためによい方策だと考えるからだ。これは平川氏も言っているが、最も恐ろしい独裁者は、ヒトラーや毛沢東がそうであったような、権威(社会一般で尊重されるべきとされる価値)と権力(実際に人々を動かせる力)とを一身に備えた者であろう。
 だから、時々リベラル派が、「天皇を尊重すると言う人が、天皇の考えや気持ちを軽んじるのはおかしい」などと言うのは、理解が足りないと思う。ここは他人の代弁をするわけにもいかないので、自分一個の考えとして述べると、私は、神話時代を含めると二千年以上、血統が明確な継体天皇からでも千五百年存続してきたという意味で、日本という国の歴史的連続性を象徴する天皇家を尊重するのであって、昭和帝や今上天皇などの個々人を崇拝するのではない。むしろ、個人崇拝には陥りたくないから、立憲君主制を支持するのである
 つまり、実際の政治は国会で成立したり改廃される法律に基づき、行政府が行う。後者のトップが内閣総理大臣で、それなりの権力があるのは当然である。しかし、しょせんは公務員のトップなのだから、ヘマをしたら替えればいい。国民全体の代表でもある大統領より、それはやり易いのではないか。「国民統合の象徴」は別にあるのだから。
 ただ、象徴を、国旗のような物質的なものではなく、生きた人間にやらせるのは、親しみやすいという長所もあるが、その反面の弱点もある。人間なら、どうしても何か言ったりやったりはするので、それを無視するわけにはいかない、という。
 今回のことは、もはや決まった通りにやるしかないだろう。しかし、ここで一度退位が行われた以上、将来先例とならないわけにはいかないのだから、皇室典範を改正して、退位できる場合の条件を恒久的に定めておくべきだと思う。それが今上陛下のご希望でもあったのだから。
 これについては民進党が、法案提出にまではいたらなかったが、昨年12月「皇位継承等に関する論点整理」を出して、皇室典範の第四条に、「天皇は、皇嗣が成年に達しているときは、その意思に基づき、皇室会議の議により退位することができる」との規定を新設すべきである、としている。①次代の皇位継承者に不安がないこと(皇嗣が成年に達しているとき)と、②時の政権の都合で天皇が替えられたりしないこと(その意志に基づき、以下)を、恒久的な条件としようとするところは、賛成できる。ただ、特に②に関しては、これで本当に権力者の恣意による天皇交代が行われ、皇室の権威が損なわれることがないか、不安が残る。
 いずれにしろ、急ぐことはない。現状で、現制度で、三代先までの皇位継承者は決まっているのだから、ゆっくり時間をかけて、できるだけ妥当な法案を作っていただきたい。一国民として、切に希望する。

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興味深い論考でした。 (天道公平)
2017-08-29 22:01:15
 気鋭の若者岡部凛太郎さんのブログに、無考えに投稿して以来、私の、「平成天皇論」について、何かが足りない、というのが、率直な気持ちで、それ以降ずっと気になっていました。
 やはり、私には、「天皇制」または「皇室」という制度に対する問題意識と危機意識が足りないのではないか、と他の方々の「真摯な」意見を見るたびに思っていました。

 私も国民の一人として、このたび扱われた、今上天皇のおことばに応えた、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」制定は当然なこととして、共感します。
 当該法律は、その目的や理念を考え抜かれた成果でしょうから、立法の検討過程、当該立法の諮問機関としての政府の有識者会議で、選任された、バランスの取れた「叡智ある」知識人、平川祐弘東京大学名誉教授、亡渡部昇一上智大栄誉教授などの、熟慮された検討・議論内容が重要なものであることは当然のことです。著者の指摘によれば、当該コメントについて、今上天皇が「実質「象徴」天皇」とすれば、平成天皇が初代であり、まさしく過渡期の方です。
 前例のないことであり、率直な国民の考えと、今上陛下の考えが齟齬するのはもっともなことでしょう。私なりに当該論点をなぞっていくと、①天皇という地位(?) は能力でなく血統で承継される、②したがってその職務に耐え切れぬ方が将来出ればどうなるのか、③そうなれば、能力主義ではないが、血統主義でなくなり、当該承継につき国民間で要らざる混乱を招く、④血統主義の天皇であるなら、ご加齢や、体調不調時に、困難を極める現場に巡幸されるより、皇居において、国民の安寧と弥栄を祈念していただければよい、とも思考される、⑤今上陛下は、このたび、特別法や臨時特例法の手段によって、退位を望まれたわけでなく、将来に向けての継続的な改正(典範の一部改正)を望まれていたらしい、⑥「日本国民統合の象徴」とは、憲法に定める国事行為より、災害時のお見舞いなど、全国を歩き直に国民に接し、寄り添い、お見舞いや、慰撫されることを「象徴天皇制」の中で、自己の重要な業務と考えられておられる、などと、そのそれぞれの論拠の検討と、陛下の見解を含め大変興味深いものでした。と、それについて、後で、④、⑤及び⑥に関して、温厚な平成天皇が、珍しく不快の気持ちを表明されたという、話も気になりました。
 「陛下は日本国の祭祀の遂行者であり、皇居に存するだけでその役目が果たされる」などの発言をめぐってのやりとりなどの話であり、バランスの取れた知識人であるはずの、両先生のことばですが、著者の引かれた議事録を見れば、後記の渡部昇一先生の言説は、それはその場の状況的発言であり、後智恵にもなりますが、仮想敵を過剰に意識し、私にも、少し言葉が足りなかったのではないか、と思われたところです。
 実際のところ、その後も、陛下は法律の制定以降も、国事行為や、群発する災害や、戦没者慰霊式典に至るまで、引き続き、まったく手を抜かれていない、と見届けられるところです。
 陛下の「感情」の問題とすれば、国事行為のみならず、被災地に体調や疲労をおして赴かれる陛下の労苦に対しても、渡部氏の言説への反応は理解できますが、当事者としてそのことに対する感情的な不快よりは、本来はいくいくの次代の陛下の職務に対する危惧と危機感であるかもしれないと思えるところです。
 実は、気になったので、先に、うちの「歴哲研」で、若い衆と一緒に、この問題を検討した際に、率直に「「天皇制」は必要なのか、どう思う」、と聞いてみた際に、彼は、「なくてもいいんじゃないですかね」という回答になり、「じゃあ、われわれも「自由、平等、同胞愛」でやっていけるのか」、といえば、「そこまで真剣な問題とも思えない」、との回答です。
 どうも欧米諸国の至上理念らしい、「自由、平等、博愛(実は同胞愛)」という、カッコつきの、どうもわれわれには疑わしい理念であり、敗戦国あるいは被収奪の国の国民としては、勝ち組、欧米国のその歴史の中で、近世以降でも、それは同時に、自国の「自由」の確保のために、理不尽にも、アジア・アフリカなどの諸国を侵略・略奪した、不平等な、不道徳な、相手方から見れば理不尽な、歴史の旗印でもあったわけでしょうから、またそれを支えていた彼らの一神教も、更に眉唾なわけです。

 私は、明快に、「天皇」とは、「日本国民統合の象徴」としかいえないものと考えています。それがないと何も始まらない、多神教で、神仏習合で、また「自然」も尊ぶ、矛盾に満ちた国民国家において、祭司として国民の代表であり、陛下がおられるのは、父祖に連なる私個人にとっても、望ましいことであり、一部の方の異見は別にして、その意見は尊重するせよ、日本独自の理念、少なくとも大多数の日本人が納得し希求する至上の存在、右であろうと左であろうと、それは天皇制度しかない、皆が「尊敬できる方」が必要であると待望するものです。
 先日、「皇居の宝物 盆栽物語」をNHKBS放送で放映していましたが、檜や真柏などそれらは樹齢が長いものでは、600年の樹齢があり、それらは極めて人工的な自然(人間化された自然)で、まさしく人間が自然に働きかけた大きな成果でもあるのですが、誠に美しいわけです。
 それ以上に、日本国の天皇制の歴史は、ずっと長いわけです。天皇家(皇室)として、「高々二千年にしか過ぎない」(と、吉本隆明が言ってましたが)といいつつも、私の時間の射程からも二千年は随分永いことであり、それは純粋に自然存在でもなく、あるいは人的な集まりの老舗でもないですが、一貫して崇敬される天皇家としてあり続けたことは、日本国民として、決して軽視していいこととは思えないところです。
 冷静に考えて、日本国天皇制が、「立憲君主制」であるかどうかは別にして、私も、「権威の対象」や、「崇敬存在」などの「共同幻想」が、現実的な権力と結びつくことは望みません。先の、お盆期間中でのNHKの特別番組で、ヒットラーのドイツ議会での演説とその議会との趨勢を記録映像で放映していましたが、もし、日本国でH・Tのようなファシスト(大衆煽動家)がのし上がり、合法的に、議会の権限停止や、権限の全権移譲求めた場合、それが、「不可侵とされる」権威をも掌握することはきわめて危険で、それを防ぐすべも準備もないことでは、歴史に何も学ばない愚かなことであろうと思われます。 
 いずれにせよ、「象徴天皇制」の位置づけと継承は、日本国民がかつて経験したことでないことであり、われわれの世代の宿題でもあるので、憲法改正と同様に、皇室典範について、皆がきちんと考え、場合によっては反動勢力(?) と戦い、後顧の憂いがないように、著者の指摘のように、一部改正なり、作り上げていく必要があるのは、われわれの責務と思われます。このたびも、論点が整理されたような興味深い考察でありました。
 いつもながら、時宜に合わず遅ればせの、稚拙な論考で申し訳ありません。
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天道様へ (由紀草一)
2017-08-30 23:43:45
 コメント、ありがとうございます。
 天皇問題は、北朝鮮問題に比べれば焦眉の急というわけではありませんが、日本国家の根本に関わることであり、揺るがせにはできませんね。
 それなのに、「歴哲研」(歴史哲学研究会、ですよね?)の若い衆まで、あまりまともに考えていないと。まあ戦後の教育では仕方ないか、とも思いますが、仮にも歴史の哲学なんでしょう? こういうことに関する感度がまるでなくて、何が哲学なのでしょうか?
 この状況では、今上陛下が天皇家の将来を心配なさり、「国民を労い慈しむ皇室」を、文字通り誰にでもわかる形で(新聞やTVを通じて)お示しになったのも、無理からぬかとだと思わないわけにはいきません。
 かくいう私も、皇室の「ありがたさ」への感度は、天道さんよりずっと劣っております。その点では戦後教育の申し子であることは免れないでしょう。私はただ、非常に機能主義的(天皇機関説です)な、その分傲慢な言い方にも聞こえるでしょうが、我々が「歴史」に連なる「国民」であるという、この二重のフィクションの中心核として、天皇家は貴重であり、今後とも存続していただきたい、と願う者です。
天皇は存在自体が貴重なのである。この定理(だと私は思っています)を、皇室自体を含む日本国民は、いつまで、どれだけ保持していけるでしょうか。私にとっての天皇問題の根幹は、これに尽きます。

 今後ともどうぞ宜しく。折々ご意見をください。
 
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