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子どもはどこにいるのか その2(学校と学問をめぐる明治の群像)

2013年05月05日 | 教育
メインテキスト:滝川一廣『学校へ行く意味・休む意味 不登校ってなんだろう?』(日本図書センター平成24年)

サブテキスト:竹内洋『[増補版]立身出世主義 近代日本のロマンと欲望』(世界思想社平成17年)


 
 日本で学校ができてから日も浅い、明治10年ぐらいまでの期間には、兵役といい学校といい、特にこの時期人口の八割近くを占めていた農民にとって、国家なるものが貴重な働き手を取り上げるために作った怪しい手段のように見えた(部分的には、事実そうであった)。そこで、各地で血税一揆(徴兵と就学双方への反発が、しばしばないまぜになっていた)も起きたが、やがてそれも収まると、学校は、軍隊よりは庶民に身近で、新時代に直接繋がる通路として、神聖な場所とさえ感じられることもあったようだ。
 それに、学制序文が高らかに歌い上げた「身を立て」るための手段としての学校も、まんざら嘘ではなかった。
 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、教育勅語が出た明治23年、松江の尋常中学校に英語教師として赴任した。ここで特に愛した生徒の一人に、横木徳三郎がいる。大工の倅で、旧制中学に進学するほどの経済的なゆとりはないのだが、小学校の時から成績抜群であったので、地元の素封家がその才を惜しみ、学費を援助してくれたのだった。中学でも学年トップ、だけでなく、自分が正しいと信じたことは一人でも貫き通す強い真っ直ぐな性格で、全校の誇りとさえ感じられていたという。
 しかし、彼は在学中病に倒れた。「勉強のし過ぎだ」と医者は言った。やがて長い昏睡状態に陥る。時折目が覚めたとき、家人や両親が何かしたいことがあるかと尋ねると、ある晩横木は「ああ、わしは学校(がっこ)へ行きたいがなあ。学校が見たての」と言った。外は寒いし、月もない暗い夜だから無理だと皆が言っても、「もいっぺん学校が見たての。いま見ての」ときかない。とうとう爺やの房市に背負われて、父親にも付き添われて、学校を見に行くことになった。

 大きな濃い灰青色の校舎は真夜中はほとんど真黒である。だが横木の目にはしかと見える。横木は自分の教室の窓をじっと見つめる。屋根のついた通用口を見る。仕合わせな過去四年間、あの通用口の下駄箱で下駄を上履きの草履にはきかえたものだ。小使いさんが寝ている部屋。そして星空を背景に立つ小さな塔にさがっている鐘。
 そうした校舎の黒いシルエットをゆっくり見まわした後、横木はつぶやいた。
「こげしちょうと、なんにもかにも思い出せーわ。わし忘れちょったわ。そーほど病気がひどかったんだわなあ。なんにもかんにも思いだせーわ。……房市、おまえは親切だなあ。わしは学校がもういっぺん見られて、ほんにうれしわ」
(平川祐弘訳「英語教師の日記から」『明治日本の面影』講談社学術文庫所収)。

 学校をナメてはいけない。夭折が惜しまれる島根の優秀な青年の心に、これほどの憧憬をかきたてる場合もあったのだから。まあ、そういう感情はこの後どんどん薄れていったのは事実で、残念なところであるが。
 ところで、この横木徳三郎が無事成人したら、何かの分野で日本という国家そのものを支える人材となったろうか。その可能性は高い。彼の同級生としてハーンが名を挙げている生徒のうちの何人かは、卒業後旧制高校から帝大へと進み、現にそうなっている。ただそれも、大部分は裕福な家の子であって、横木のように家柄や財産には関係なく、才能にパトロンがついて、ということは、ハーンはそういう例は日本には多いのだと注記しているが、全体の中ではやはりごく少数であったろう。
 それは当り前の話ではある。そして、これまた当り前だが、少数であればこそ、学校によって「身を立てる」糸口をつかんだ人間にとってこそ、学校のありがたさはいや増す。ロミオが言う生徒(schoolboy)とは真逆に、学校がまるで恋人のように慕わしくてたまらなくなるほどに。
 「近代という縊路 その7」で取り挙げた本郷源三郎も、横木より少し年長の、彼の同類である。軍人という今ではない職業であるために少しわかりづらくなっているが、貧農の家出身で、地元の人々の援助を得て、陸軍幼年学校から士官学校へと進み、若くして将校となることができた。士官学校と言えば、後出する二葉亭四迷が三度も受験したことでも知られる、旧制高校にも劣らぬエリート校である。彼は学校そのものではないにしても、このような出世をもたらした時代に心から感謝し、満足して、旅順の激闘で死んでいく。このような人物も確かにいた。
 
 さらにこの類の人物となると、日本人の多くが野口英世の名を思い浮かべるのではないだろうか。何しろ、千円札に肖像画が使われるほどの有名人だ。
 しかし、彼は苦学力行の士には違いないが、学校との関係は微妙である。なるほど、猪苗代高等小学校の小林榮釧導に才能を見いだされ、貧農なのに学問を続けるように勧められはしたものの、正規の学校教育は高等小学校止まりである。彼にもパトロン的な人々はいたが、中学校へ進む援助はしてくれなかったようだ。これはあるいは、横木徳三郎の松山や、本郷源三郎の熊本などとの、土地柄による学校への意識の違いもあったのかも知れない。高等小学校在学時に、小林を初め有志が集めた金で、幼い頃の火傷で不自由になっていた左手の手術を受けることはできたのだから。
 その後野口は、手の手術をしてくれた会津若松の渡邊鼎の医院に書生として住み込み、ほとんど独学で医学を修め、やはり資金面での援助を受けながら、たいへんな難関とされていた医師試験に合格する。しかし、不自由な左手を患者の目に曝すことを厭う気持ちから開業医は断念、北里柴三郎の伝染病研究所や横浜港検疫所に勤めながら研究者をめざす。それでも、帝大出でない以上日本で認められるのは至難であることはわかっていたので、単身渡米したのである。
 以上の経歴と人物像については、私は渡辺淳一「遠き落日」に書いてあることしか知らない。その限りの知識で言うと、彼には火傷の他に、貧困層出身の人にありがちな浪費癖もあって、自分自身も援助者も苦しんだ。それら、幼少期からの深いコンプレックスをバネにして、自分の道を切り開いた、と簡単に言うのが憚られるほど、並外れた人物だと言う他はない。コンプレックスをもたらしたものの一つに、学歴もある。普通の意味で彼が身体障害や生家の貧窮に感謝するいわれはないように、学校に感謝しなくてはならない筋合いはない。

 
 野口英世については、もう一つ気になることがある。幼い頃の彼が、家計を助けるために、田んぼで泥鰌を取ったという伝説は有名で、私が読んだ子ども向けの伝記にも確かそう書いてあった。それは野口の生前からあった話で、後年彼自身によって否定されていると、渡辺の前掲書にあった。野口の母シカは、自分の不注意で英世(幼い頃の名は清作)に一生治らない怪我をさせたとの思いもあって、彼には一切野良仕事はさせず、勉学だけをさせたようだ。「おめえは百姓は無理だから、頭でなんとかしろ」と。当時の農家では珍しいことだったろう。英世には姉と弟がいるが、彼らはごく幼いころから田畑の仕事の手伝いをさせられている。
 こういう話になると、日本人にはあまりウケないようだ。ガリ勉というのは、今も昔も軽蔑の意味で使われる。親の目から見ると、「よい子」の理想像というと、言うことをよく聞いて、特に、農家でなくても家事労働がたいへんだった昔なら、家の手伝いもすすんでやるような者だろう。
 野口と並んで戦前に子どもの理想像とされたもう一人で、本書にも取り上げられている二宮金次郎(本当は金治郎が正しいらしい)の像を見れば、そのことはよく納得される。
 彼もまた、学校のおかげで成り上がった人物ではない。そもそも明治以前の人ではあるし、その当時でも寺子屋にも行っていない独学者、ということになっている。あの像の金次郎少年が薪だか柴だかを背負いながら読んでいる本は儒学の四書の一つ「大学」なのだそうで、論語の素読も習ったことのない子どもに本当に読めたのかなあ、と思うのだが、ともかくイメージではそうだ。
 この人についても、富田高慶「報徳記」に基づいて書かれた内村鑑三「代表的日本人」に入っている二宮尊徳伝しか知らない。それによると、幼くして両親を亡くした金次郎は、伯父に引き取られ、家事や野良仕事に使われながら、夜遅くまで勉強した。伯父は、灯りのために余分な油を使われるのを厭って、それを禁じた。金次郎はもっともなことに思い、わずかな自由時間に自分でアブラナを栽培し、菜種油を採って、それで勉強した。それをも伯父は、自分の養っている者が家計の役にも立たぬ余計なことをするのは不都合であるとして、禁じた。金次郎はこれももっともだと思って、山へ薪取りや柴刈りへ行き来する道すがら、本を読むことにした。それがあの像の由来であるそうだ。
 これが全国に広まった事情については、滝川の本にも記されている。大正12(1924)年、現在の愛知県豊橋市内のある小学校に、地元出身の名士が寄贈したのが始まり。それから自分たちの学校にも二宮金次郎像を建立しようというブームが広がり、各地で保護者や卒業生や地元の有志が金を出し合って作ったものだと言う。
 教育勅語が上から下しおかれた学校の聖性のシンボルだとすれば、二宮金次郎像は下から押し上げられたそれだ、と滝川が言うのは正しい。しかし、「そこ(金次郎像)には学校というもの、勉学というものへ、ひとびとがたくした強い夢と願いがあったにちがいありません」(P.102)というのはどうだろうか。
 細かいことにこだわるようだが、二宮金次郎が理想化されたのは、ただ本を読んだからではなく、苦しい生活の中で、家族を助けることを第一として、その上でしかし勉学怠らなかった点にあるのだろう。勉学やるのはよいが、もっと大事なことがある、と多くの日本人は自然に感じている。少なくとも、感じたがっている。戦前世界的な有名人となった野口英世の伝記に、家計を助けるエピソードを創造する必要が感じられるほどに。

 ところで、これまで「勉強」という言葉を意識的に避けてきたのはおわかりだろうか。竹内洋によると、この言葉が学問をすることの意味で使われるようになったのは、比較的近年のことであるらしい。字面からしても、「強いて勉める」ということだから、江戸時代には刻苦精励の意味だった。そこから転じたものとしても、「勉強しまっせ」とTVで大阪商人に扮した芸人が言う、「できるだけ安売りする」の意味の方が用例は古いそうだ。これが学校の、生徒について言われるようになった転用には、ある国民心理が作用していると思う。
 一心に学問に打ち込むのもまた、刻苦精励の徳目に違うわけではない。しかし、ビジュアル的に、生活のための苦労を背負いながら、なんとか時間を見つけて勉強もする、というほうが絵になるし、勉学そのものの価値も高まるようにもなんとなく感じられる。そこで二宮金次郎像は、全国の小学校に抵抗なく受け入れられた。しかし、逆に、勉学そのものの、あるいは学校そのものの価値がすんなりと国民の間で受け入れられたかと言えば、少し違うだろう。
 むしろ一般国民が、学問知識を教えるだけでなく、家庭でもすぐに使える道徳を子どもに植え付けることを、当然のこととして学校に要求した、それが二宮金次郎像の意味なのである。この「当然」は、子どもは否応なく学校にやらねばならぬとされているのだから、多くの庶民にとってはわけのわからぬ学問なんてものの他に、多少は親の役に立つことを教えてくれてもいいはずだ、という思いから生じる。
 金次郎の伯父が言ったような、読書そのものは役に立たない、という感覚は、明治期になっても、現在でも、ちゃんと残っている。そんなことないだろう、それによって立身出世ができるなら、というわけだが、すると、立身出世できなければ学問に意味はないことになる。

「フム学問々々とお言ひだけれども、立身出世すればこそ学問だ。居所(いど)立所(たちど)に迷惑(まごつ)くやうじやア、些(ちっ)とばかし書物(ほん)が読めたッてねつから難有味(ありがたみ)がない」

 これは明治20年に発表された、我が国近代文学の嚆矢「浮雲」(第一篇)中のセリフである。
 この作の主人公内海文三は、秀才ではあるが、旧制中学-旧制高校-帝国大学というエリートコースを歩んだ男ではない。旧幕臣の倅で、父母はたいへんな苦労をして幼い彼に学問をさせた。つまり、ちゃんと尋常小学校に行かせ、帰ってからは塾にも通わせた。父の死後は、叔父を頼って上京、あるとき、某学校で給費生を募集していることを知り、受験して見事に合格。当時の学生=書生と言えば、「放蕩と懶惰とを経緯(たてぬき)の糸にして織上たおぼッちやま方」であるのが普通なのに、その中にあって「寸陰を惜んでの刻苦勉強(二葉亭はもう「勉強」の文字を使っている)」して卒業した。さてしかし、勤め先は容易に見つからない。半年後にようやく知人の紹介で「某省の准判任御用係」となることができた。
 いざ出仕してみると、「アア曾て身の油に根気の心を浸し、眠い眼を睡(ね)づして得た学力(がくりき)を、こんなはかない馬鹿気た事に使ふのかと、思へば悲しく情なく、我になくホット太息(といき)を吐(つ)いて、暫らくは唯茫然(ぼうぜん)としてつまらぬ者でゐた」。それでも、給金が貰えれば、国に一人残してきた母に仕送りもできるし、叔父夫婦へも世話になった分の金を少しづつ返せるので、真面目に実直に勤め上げるつもりでいた。それが明治18年の官制改革で、人員整理のため、あっさり馘になってしまう。
 それというのも、文三が真面目なだけで、世間を渡る上での才覚がまるで欠けているからだ、と叔母のお政には責められる。たぶんそうなのだろうが、文三は学問はちゃんとやった自負心から、例えば課長の家へしばしば行ってご機嫌をうかがい、かしこまって御用足しにも励む、というようなことはみっともないし卑劣にも感じられてできない。こうなると、勉強は彼の立ち居どころを狭くする役にしかたたないことになる。
 お政は根っからの江戸の町人で、もともと「学問などといふ正坐(かしこま)ッた事は虫が好かぬ」たちである。しかし、新時代の流行にかぶれた娘が英語を勉強したがるのは、やむを得ずに許している。学問はこの頃から、お飾りの、「習い事」としての需要はあったということだ。それ以上には、どれくらい期待できたものだろう。帝大出のエリートであっても、明治二十年代にはもう数が増えすぎていて、いわば供給過剰状態になっており、役所勤めをすれば文三同様下級官吏からスタートするしかない状態になったことも竹内の本に書かれている。
 では、「身を立てる」手段としての学問と学校は、ウソと考えた方がいいのか? たぶんそうだ。いや、多くの人間が学校に期待を持って、来るようになったからこそ、それはウソになってしまったのだ。それでも、子どもができたら、学校につきあわねばならないのだろうか? それしかないようだ。子どもが居る場所として公式に認められているのは学校だけなのだから。やっかいな話だ。
 そこからくる不満が、「学校は勉強以外の、大切なことも教えるべきだ」という要求になって、明治時代から現在まで連綿として続いている。その「大切なこと」とはなんなのか? 現代では、「刻苦精励/勉励/勉強」は、少しダサく感じられる。他に何かないのか? 全国民を納得させられるほどのものは容易には見つからない。しかし、もう長い間の習慣になっているから、要求だけは続く。「教師は『大切なこと』を当然知っているはずだから、子どもにちゃんと教えて、我々にも納得させてくれ」という形の要求になって。
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子どもはどこにいるのか その1(学校事始)

2013年04月17日 | 教育
メインテキスト:滝川一廣『学校へ行く意味・休む意味 不登校ってなんだろう?』(日本図書センター平成24年)

 
 本書はまず、「そもそも学校とは何か」の話から始めている。拙文もそれに倣う。
 学校教育は、人類にとって、決して「あるのが当たり前」の事業ではない。いわゆる「子ども」のための、初等教育でもそうだ。原ひろ子(『ヘヤー・インディアンとその世界』)が伝えているアメリカ大陸北西部のヘヤー・インディアンの社会には、学校はない。それ以前に、「教える-教わる」という概念がないそうだ。
 いくつになっても根本的な不完全さを免れない人間が、他の人間に何かを「教える」なんてことができるはずはない。それができるのは神様か、自然そのものだけである。言葉にすれば例えばそんなふうになるであろう、まことにもっともな信念から、彼らは子どもに対して指示めいたことは一切言わないし、しない。子どもは、木の削りかた・火のつけかた・獲物の捕りかた、など生活に必要な一切を、大人のすることの見よう見まねで覚えていく。「まなぶ(学ぶ)」の語源は「まねぶ(真似ぶ)」なのだそうで、そこからするとこれこそ正当な学習方法なのかも知れない。
 でも、本当にそれですむのか、という疑問は当然湧いてくるだろう。例えば赤ん坊が火の方へ這っていったような場合はどうか、というと、鈴を鳴らして赤ん坊の注意をそちらに引きつけることによって守るのだそうだ。まことに徹底した「非教育」ぶりである。これでも赤ん坊が鈴の方へ来ないで、火に触れて火傷してしまったような場合には、「仕方がないこと」とあきらめるのだろう。その覚悟(かな?)がなくては上のもっともな信念を貫くことはできない。
 ただし、もっと厳しい見方もあって、そういうのも間接的な「教育」になるではないか、と言うこともできる。人間は「本能が壊れた動物」(岸田秀)なので、「教える」ことを本当に完全になくしたとしたら、たぶん種族を保存することはできないだろう。

 西洋における初等教育の歴史を詳しくたどる必要はない。古代ギリシャ時代から、あるにはあった。しかしそのころは、子どもが(主に体育や各種の技芸など、現代日本風に言えば習い事の)教師の下へ通うにしても、限られた階層のものであった。中世期を通じて、貴族は子弟にチューター(tutor家庭教師、女性教師はgoverness)をつけて教育するのが普通で、庶民の子を特定の場所に行かせて集団で教育する、いわゆる「学校」が一般的になるのは、15~6世紀をまたねばならなかった。
 本書にはシェークスピアの「ロミオとジュリエット」(1595年頃)中の台詞が引用されている。

Love goes toward love, as schoolboys from their books,
But love from love, toward school with heavy looks,
(逐語的な拙訳:恋人は恋人の元へ行く、教科書から離れる生徒のように
 しかし恋人が恋人から離れる時は、重苦しい様子で学校へ向かう生徒のよう)


 この作品の舞台は14世紀のヴェニス(ヴェローナ)だが、シェークスピア劇の場合、時代考証などはあまり重要ではない。イタリアもイギリスも、この劇の頃までに大航海時代を経て、商業が盛んになっていたということのほうを注目すべきだろう。港を中継した金と品物とが、国境の内でも外でも、広く行き来する。そうなれば、万を超える大きな数字も使わねばならないし、商売上の取り決めも必要になってくる。このような知識は、人間の都合によって生じたものだから、子どもが自然から/自然に学び取れるものだとは思えない。かくして学校が必要になった。
 シェークスピア劇の中でヴェニスを舞台にしたものというと、他に、題名にも示されている「ヴェニスの商人」(1596年頃)があり、この時代既に、何艘もの船を使って海外貿易を行っていた商人の他に、利子を取って金を貸す金融業者が存在していたことがわかる。聖書は利息・利子を禁じている、との考えが中世では強かった(ただしいろいろなケースあり)し、この戯曲でも利子の正当性は、ヴェニスの商人アントーニオーとユダヤ人の金貸しショイロックの間で議論されている。敬虔なキリスト教徒であるアントーニオーは利子には否定的なのだが、もちろん、利子がなければ業としての金貸しは存在せず、金貸しがいなければ資本主義の発達はない。金が金を生むなんて不自然だ、と言われるなら、そんな気もするが、その不自然を前提として私たちの社会は成立している。
 さて、「ヴェニスの商人」中にも学校(school)という言葉は一度だけ登場する。劇の冒頭、バサーニオーという遊び人がアントーニオーに金を借りに来るときに、二人の学校時代の思い出を語るのだ。弓矢遊びに興じていたらしい。なんの不思議もない。12世紀の日本の俗謡にも「遊びをせんとや生れけむ」(「梁塵秘抄」)と歌われている子どもが、ここにもいるというだけのことである。ただ恐らく、平安時代の日本の子どもは、学校というものは知らなかった。ヨーロッパの、都市部の子どもにはもう学校があって、そこへ行くと遊び友達に会える楽しみもあったが、教科書(textbooks)に象徴される勉強が、とてもいやなものとして既にあった。
 「神が田舎を作り、人間が町を作った」というのは、18世紀イギリスの詩人ウィリアム・クーパーの詩句だ。人工の度合いの強い環境である町には、学校という、神を畏れぬ不自然な試みである教育を、日常的に施す施設が必要だった。そして、そこに通うのが当たり前とみなされる「子ども」という存在も、これによって確立された。

 これから、日本のお話。
 一般の日本人が「学校」というものを知ったのは、明治5(1872)年の「学制」からである。その序文「学事奨励ニ関スル被仰出書(おおせいだされしょ)」はたいへん格調高く新生日本での学問の必要性を訴えている。滝川一廣による現代語訳(P.89~90)から抜粋しておく。

 「ひとびとがみずから身を立て、生活をまかない、産業をさかんにして、よき人生をまっとうするには知識や技能を身につけねばならない。それには学びが必要で、学校とはそのためにある」「貧窮や生活破綻は、けっきょく、学問がなかったがゆえの失敗にほかならない。たしかに学校は昔からあるにはあった。しかし方向がまちがっており、学問は武家以上の階層の占有物とされ、それ以外の身分職業の者、まして女性や子どもには無用とされてきた。武家以上でまれに学問を追究する者も、学問は天下国家のためと称して先述の目的意識(引用者註、学びこそが身を立てる根本、を指す)はもたず、枝葉末節や空理空論に走り、高尚にみえても実践性・実用性に欠くものがほとんどだった。積年のこの弊害のため、わが国では文明も普及せず、技術も発展せず、貧しく困窮するひとびとが多かったのである。というわけで、人は学ばねばならない。学ぶ方向をまちがえてもならない」

 実に明解である。人は学ばなくてはならない。学ぶべきなのは、いわゆる訓詁の学などではなく、実用に役立つものでなくてはならない。そうすれば人は必ず「よき人生」が送れる。そのために学校が必要になるのだ。本当にそうであって、それを誰もが納得しているなら、学校のすばらしさが疑われることなどあり得ないはずである。往々にしてそれがあり得てしまうのはなぜか。ここには書かれていない別の要素も、学校にはあるのだろう。
 まず、「お前たち(国民)のために学校はある」とのみ言われているのがなんだか欺瞞的なようである。国が、国にとって役に立たないものをわざわざ作るなんてことがあるわけはない。もっともそれは、「わが国では文明も普及せず、技術も発展せず」の部分に出ているとも見えるだろう。この時代の日本のスローガンの一つであった「殖産興業」を実現するために、学校が必要とされたのだ、と。そして、殊更に表だってそう言う必要はなかった。人が「身を立て、生活をまかない、産業をさかんに」すれば、自然に国は豊かになるはずだから、この二つには矛盾はない。このおおらかさこそ、学制序文の高い調子をもたらしたものであり、ひいてはこの時代の日本の明るさを象徴するものであろう。

 それでも、学校は国のために作られた。まず、作った方にも、通わされたほうにも、あまり意識されない、根源的な要素がある。学校が「子ども時代」を確定し、それを通じて「国民」を作るということ。
 我が国初の児童文学とされる「こがね丸」の作者巌谷小波には、「当世少年気質」(明治25年作)なる連作短編集もある。全部で八篇あるうちの最後「慈悲(なさけ)は他(ひと)の為ならず」は、次のような話だ。
 東京は愛宕下に住む建具屋の義助は、職人としての腕はあるが、文盲であることを苦にして、一人息子の芳松を小学校に通わせている。大人しい芳松はよく勉強して、教師のウケも、近所の評判もいい。あるとき名古屋で大震災があり、教師は被災者への義捐金を生徒に呼びかける。強制ではないが、芳松は、僅かな金でも是非出したいものだと願う。しかし、父母に言っても、「そんな事はもつとお金が澤山とある家でする事ツだ」と相手にされない。思いあまって、酒を買うお使いに出されたとき、五銭の酒代を、落としたことにして、くすねる。これがバレて、折檻されそうになると、騒ぎを聞きつけた長屋の大家がとりなしに入る。オモチャを買うというのではなし、「地震の為に難義をして居る人に遣り度いと云ふんだから、どうして褒めていゝ位のものだ」。うちの子どもなんぞは遊んでばかりなのに、「それから思へば芳ちやんなんぞは、学校へ上つて居るだけに、ゑらいものだ」と。それで義助は、照れくさそうに、「持つてきな」と改めて五銭、芳松に渡す(引用は『明治文學全集95 明治少年文學集』より)。
 これが近所の難儀だったらどうだろうか。義助も、江戸っ子のなんとやらで、できるだけのことをしてやろうとしたのではないだろうか。しかし、いくら「同じ日本人」でも、遠く離れた場所に住む見も知らぬ人を助けねばならぬなどとは思えない。そのような感情を形成し、「同じ日本人」の内実を作るものこそ、学校なのであった。
 明治25年と言えば、前々回に述べた教育勅語はもう出ていた。芳松も学校でそれを習ったろうが、これがもたらした精神面での、日本人への「教育的効果」は実際のところどういうものだったか、私にはまだよくわかっていない。後出するラフカディオ・ハーンの文中には、明治20年代の出雲の中学生はたいてい、「天皇陛下のために命を捧げるのは光栄だ」と言う、とあるが、それはどの程度の広がりと深さをもったものであったかは。今後「立憲君主の座について」シリーズでできるだけ考えていきたいと思っている。
 ただ、どんなものであれ、「国民道徳」がある前提として「国民」があらねならぬのは確かであろう。その際、言葉よりもっと強力に作用したものがある。子どもがみんな学校に通い(もっとも、巌谷小波の大家の言葉から察すると、この時代実際には学校へ行っていない子どもも多かったようだが、タテマエとしてはそうだった)、好きでも嫌いでも、同じ教科書で(即ち同じ言語で)、同じ教科を学ぶという共通の経験をする、この事実そのものが。
 ところで、国が国民を直接、具体的に必要とする場面は、なんと言っても戦争であろう。その意味で、上述学制序文と同年に「徴兵告諭」が出たのは、近代国家の始まりに必然な道筋を示すものである。徴兵についての最初のありさまは以前「近代という隘路 その3」で書いた。明治27年の日清戦争時にはもう一丁前の軍隊は出来上がっていたわけだが、そのためのバックボーンを作ったのは学校である。そう断定してよいと思う。

【自分でも忘れておりましたが、以前当ブログの「正しい道はあるのか? その5」で、今回とほぼ同じ主旨のことを、別の材料から述べておりました。よかったら合わせてお読みください。】
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そろそろいじめへの本格的な対策を その2(その1の補足)

2012年08月12日 | 教育
 前回の記事は、あのままでは少しわかりづらいと知り合いに言われましたので、ちょっと補足します。
 まず、教育委員会をどう改革すればいいのかということ。
 実態はあまり知られていないようだ。保護者が、「教育委員会に言うぞ」という場合の「教育委員会」というのは、たいてい「教育委員会事務局」を指している。実際に、電話番号を調べて、かけると、出るのは事務局の人間である。これは行政府の一部で、都道府県では普通「教育庁」と呼ばれている。ここのトップが「教育長」。我々教員を実質的に統括しているのはこちらである。
 いや、名目上は、それとは別に首長によって選ばれる三~五人の「教育委員」に決定権があり、「教育庁」あるいは「教育委員会事務局」はその決定を実行に移すのが役割だ、ということになっている。しかし、前回述べたように、教員の人事配置の仕事で忙しい2、3月を除けば、せいぜい月に一度ぐらい集まるだけの者たちに、教育行政をコントロールするなんて、できない話である。勢い、委員たちは、事務局からあがってきた案件にお墨付きを与えることが主な仕事になる。例外はあるが、全国的に、だいたいがそういう有様であると考えてよい。

 この不思議な組織については、もう少し細かく説明しておいたほうがいいかも知れない。
 昭和二十三年、日本の各分野の民主化を要求したアメリカ占領軍の意向に沿って、「教育委員会法」が成立する。当然ながら、あちらのschool boardの制度をそっくり真似したものだ。そこでできた組織の特徴は、①市町村の行政単位ごとに設置されること②しかし行政の首長からは相対的に独立した機関であること③決定は合議制によること④命令ではなく指導助言を主に行うべきであること、などがあり、今も原則は変っていない。
 しかし、議会が推薦する一名を除いた委員は公選によって選ばれていたものが、昭和三十一年の地方教育行政法の改正と教育委員会法の廃止によって、現行の首長による任命制に変わった。何が問題だったのかというと、右のうち②だ。具体的には、教育関係予算案の作成権と、教員・校長の他に教育長の任命権があった(現行と同じく、議会の承認は必要)。
 前者の場合、教育委員会が作成したものが無条件に予算案として議会に提出されるというわけではなく、首長が変えてもいいのだが、その場合にはその理由を添えて、教育委員会案といっしょに議会に提出しなければならない。
 これもけっこうやっかいだが、一番の問題はやはり後者の、人事だったろう。首長に政治的に反対の立場の人が多く教育委員になったら、教育長・校長から一般教員まで、すべて反首長派で固めることもできる。現職教員から委員になった場合も多かったようで、すると、教育委員会は教職員組合の活動の拠点になる。首長からみたら、目の上のたんこぶだったわけだ。それで三十一年の改正時、予算案の作成権も教育長の任命権も取り上げられた。
 これだけなら、権力の一本化の一例と見られる。また、そうに違いない。しかし、保守合同によって発足したばかりの自由民主党が改正の理由の一つとしたものに、教育委員選挙の投票率の低さがある。
 この選挙は全国一斉に三回行われている。第一回目が昭和二十三年で、その後は二十五年と二十七年。投票率は最初が全国平均で五六・五%、次からはなぜか都道府県平均しか示されていないのだが、順に五二・八%、五九・八%(安田隆子「教育委員会 その沿革と今後の課題に向けて」『調査と情報』第五六六号)。
 いや、案外高かったじゃないか、というのがこの数値を見たときの私の第一印象だった。例えば二十二年の都道府県議会選挙時の八一・六%に比べれば低いが、五〇%台なら十分なんじゃないかなあ。
 その後、例外として有名なものに、中野区の準公選制がある。最初の区民投票があった昭和五十六年には四三・〇%だったが、その後昭和六十年、平成元年、平成五年の投票率はすべて二〇%台で、しかも後になるほど低下している(文部省主催平成六年度公立小・中学校事務職員研修会受講記録中の、中澤貴生のレジュメ)。これは本家であるアメリカでも似たようなもので、教育委員選挙の投票率はだいたい二五%から五%の間だそうだ(中教審教育制度分科会地方行政部会での小川正夫の説明資料)。
 結局、一般の人が学校にどれくらい興味を持っているのかが問題である。自分の子どもが学校に通ってなければ、いや、通っていたって、特に問題がなければ、あんまり興味はない、というのが実態ではないか? ここが民主主義の最大の泣き所で、住民が全体としてそんなに興味がないことなら、わざわざ選挙なんてすることもないんじゃないかと、自然に思えてくる。
 私としては、たとえ五%であったとしても、政争のために使おうというんじゃなくて、学校教育に興味がある人の意思が汲み取れるなら、それでいいじゃないかとも思う。しかし、投票率の低い選挙ほど、特定団体の組織票をあてにできる候補者が有利だという事実も歴然としてあるから、それでいいとも言いきれない。
 結局一番手っとり早い改革案としては、多くの人の思い込み通りに、また現状通りに、「教育庁」を学校に関する最高決定機関にする。「教育委員会」は、「国家公安委員会」のような、そのお目付け役に徹する、というのがいいようである。わざわざ一般人から選ばなくても、「予算委員会」のように、議会の中に作ってもよいと思う。住民からの苦情もちゃんと受け付けて、きちんと監視さえしてくれたなら、なんでもよい。それこそ、最大の問題であるわけだが…。

 「教育庁」が統括する、学校とは別組織の、「学校問題解決支援グループ」とか、名称はなんでもよいが、いじめ問題などに取り組む組織ができたとして、最大の困難と考えられることを書いておこう。それは、本格的な調査が本当に必要かどうか、見極めるのが難しいことだ。
 現代でも、教育庁には、多い時には日に十件を超える苦情の電話があるそうだ。もちろん、教師へのクレームである。そのうち九割は、ただ聞き流すしかないような案件だ、とある人から聞いたのも、全くその通りだろうと、教師として納得できる。そのために、なんらかの対応が必要な一割まで聞き流されがちになるのこそ大問題だが、たとえ言うだけにしても何か言いたい、という人間の気持ちがある以上、どうしようもない。
 いじめもそうである。「いじめられた」との通報で、この組織が出向いたら、実際はちょっとしたいざこざであって、もう収まっていた、なんてことも多いかな、と思える。それでは人員がいくらいても足りないことも考えられるので、まず。学校に調査させ、なんらかの強制手段でやめさせるしかないことが起こっているようだ、と報告されたら、動く、というような手順にならざるを得ないであろう。そうすると、学校の調査能力不足や、隠蔽しがちになる、などの問題が再び起こってくるわけだが…。
 もっとも、対応が追いつかないほど多くの訴えがあればむしろいいほうかも知れない。近所のトラブルでも、警察に訴える、などはためらうのが一般の日本人である。裁判はたいへんだ、ということ以外に、ことを大きく、「公」にしたのでは、それだけで近所にいづらくなる、という感覚が働く。
 学校も同じこと。そんなことはなんとも思わない、という人も最近では増えたが、それは多くの場合モンスター・ペアレンツと呼ばれような人で、この現状だと、学校に好んで文句をつける親がちょっとしたことでいじめ被害を訴え、おとなしい親とその子どもは何もせずにじっと耐えている、ということになるかも知れない。
 などなど、いろいろと難しいことは予測できるが、それでも私は、大人が本当に、いじめを代表とする学校問題に取り組む気があるなら、この方面に考えをすすめるしかない、と確信している。とりあえず、大人の側の「本気」を子どもに見せるのだ。本気でもないのに、深刻に考えているような顔だけしたって、ナメられるだけなんだから、もうやめていただきたいのである。

 それから、現代のいじめの実態につきましては、美津島明さんがのってくださいましたので、彼との議論の形ですすめようと思っています。
 とりあえず、こちらをどうぞ。

 次に「民主主義・正義・教育教」という記事を掲載してもらいましたので、よければどうぞ。
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そろそろいじめへの本格的な対策を その1

2012年07月27日 | 教育
メインテキスト:小寺やす子文・野口よしみ絵『いじめ撃退マニュアル だれも書かなかった(学校交渉法)』(情報センター出版局平成6年)

 報道によると、文科省がいじめ対策のための新組織を設置することに決めたそうだ。これまで文科省は、いじめ事件が大きく報道されると、「通達」という紙切れを学校に配布して終わりだったのだから、この点で一歩前進としてよいだろうか。平野文科大臣は、「報告を受け、『後は現場でやってください』という受け身ではなく、実働部隊、支援チームを文科省の中に作る」(『讀賣新聞』7月23日)と言っているそうだから、思わず期待しそうになるが、果たしてどうか。
 記事には、この新組織は、「いじめに関する専門的な指導・助言を行う」ものだともある。文科省としては、これがせいぜいだろうと思えてしまう。だとすると、余計なものになる可能性が高い。
 指導・助言もけっこうだが、「命の大切さ」だの「心のケア」なんて一般論をいくら言われたってしょうがない。今必要なのは、個々のいじめ事案に対して具体的に取り組むための人員なのだ。さらに言えば、彼らは、学校や各教育委員会の、この場合の問題解決能力なんてたかが知れていることはもうはっきりしたのだから、必要があるなら、いじめ当事者(加害者と被害者双方)と直接接触して、解決を図ることができたほうがよい。それを一省中の一部署にすべて集めるなんて、できない話だろう。最低限でも、都道府県毎に「新組織」が置かれねばならない、とまず思う。
 それから、いじめの専門家、というものがこの世にいるのだろうか? いわゆる教育学の範囲では、この言葉さえ登場しない。発達心理学も同様。そんな「学」の範囲内にあることではないのである。ここを思い違いしてもらっては困る。
 我々が今緊急に取り組まねばならないいじめ問題とは、加害者と被害者がいるれっきとした刑事事件なのだ。それに関して、学校一般の解決能力が乏しいのは、実は、単純に当たり前の話でしかない。「学校のリアルに応じて その4」で書いたように、日本で支配的な教育学では、子どもは「善なるもの」とみなされている。刑事事件の被疑者のように扱うことは、表向き許されていない、どころか、そういう事態は想定されてもない。だから、教師は、その手段を与えられてもいないし、そういう場合に必要な訓練を受けてもいない。
 これまでよく出あった反論に答えよう。「でも、いじめを解決できる先生だっているんですよ」。はい、いるんでしょう。でも、百万人からいる教師の全員に出来るわけはないですよね? もしそうなら、今のような問題は起きていないんですから。
 それは教師が手抜きをしているからだ、というのが一般の見方のようである。そういう場合もあるだろう。今後の話をすすめるためにも特筆大書きしておかねばならないのだが、教師は教室内の秩序を維持する第一の責任者なのであり、どういう場合でも責任を逃れられるはずはない。それは認めたうえで、しかし教師がどんなにがんばっても、限界はもう見えている、と言っているのだ。今なお、教師を非難して溜飲を下げるだけで能事足れり、とするのは、結局いじめには直接関係ない人であって、いじめの被害者にとっては、事態が少しもよくならないとしたら、なんにもならないのだから、他の手段が考えられるべきなのである。
 「そんなことはないだろう」とおっしゃるなら、こちらからたずねよう。あなたの知人間で争いが生じたとする。あなたが仲介に入って、どんな時でも必ず解決できると言い切れますか? 言い切れる、という人でも、それができる人はそんなに多くはないことには同意していただけるんじゃないですか?
 さらに、大人同士の争いなら仕方ないが、子ども同士ならなんとかやれるだろう、とおっしゃる方。あなたは結局子どもをナメてるんです。これ以上私から申し上げられる言葉はありません。
 いや、もう一つあった。「教育」の範囲で、いじめをやめさせることが絶対不可能だとまでは申しません。でも、まさか、いじめている子を指導して、必ず、明日から、やめさせられるとまでは思わないでしょうね? ねばり強い説得が必要だ。それはどれくらいかかりますか? 1ヶ月? 半年? いくらかかろうと、やれ、それが教師の務めだろう、ということは甘受しましょう。でも、教師はいいとして、その1ヶ月だか半年の間、いじめられている子は我慢しなくちゃいけないんですか? そんな義理がどこにあります?
 要するに、不当にいじめられている子は、一刻も早く救済しなくてはならない。それがすべてに優先する。そのためには、「教育」では、少なくとも「教育」だけでは、ダメなのだ。そろそろこれぐらいは、この国に住むすべての人の共通認識にならなくちゃいけないんじゃないかなあ。

 上のことを念頭に置いた場合、いじめについて本当に役に立つ本は、管見の限りでは小寺やす子のものしかない。とうに絶版だが、アマゾンなどで古本を注文すれば手に入る。我が子がいじめにあって苦しんでいる父母の方に勧めるものとしては、これ以上はない。
 いじめにどう対処するか。これはもう戦いになる。どう戦うか? 日本は法治国家なのだから、法(的なものを含む)を使うに如くはない。そのためには、
(1)いじめの証拠になるものは、保存しておく。破られた衣服やノートなどの現物、怪我をさせられた場合には診断書、机や黒板に悪口を書かれたような場合には写真を撮っておく。言葉によるいじめの場合には、ICレコーダーに録音するのもよい。
(2)いじめに関する詳細な記録をつける。何月何日、何時頃に、どういういじめがあったか。日時は重要なポイントになるので、忘れずに。
 記録について、もっと重要な注意もある。いじめられてどんなに悔しかったか、などのウラミツラミは書かないこと。そういうのは他人にとってはただの愚痴。うるさいだけ。必要なのはただ「事実」のみ。
 要するに、裁判になっても十分に使えるものを用意しておけ、ということである。しかし小寺は、裁判にせよ、と言っているわけではない。よく知られているように、それには金も手間も膨大にかかる。これだけのものを用意して、まず交渉すべき相手は、学校の担任教師。それで埒が開かなければ学年主任。さらには教頭・校長などの管理職。さらには教育委員会、までは小寺の視野に入っている。それで、「学校交渉術」なのだ。もちろん、そこまでいってもまだダメなら、いよいよ出るところへ出るぞ、というカードを用意した上での交渉であり、そのためにも上記の二つが使える。ただ、出るところへ出ないですむなら、それにこしたことはない、とは明らかに考えられている。

 やや私事に渉るが、私はほんの少し小寺さんと議論したことがある。『いじめ撃退マニュアル』が出た年だから、もう十八年前になる。小寺さんはその二年前に出た拙著『学校はいかに語られたか』を読んでくださっていて、また私が御著に好意を持っていることを聞き及んで、夜中に電話をくれたのだ。「あなた(由紀)はもうちょっと読みやすさと、読者サービスを考えたほうがいいわね。そうすればもっと本が売れるわよ」などのアドバイスをいただき、ありがたかったのだが、一時間近く話をしているうちに、「いじめに関して、教師に何ができるか」のポイントにさしかかったところで、対立が生じた。
 私の意見は、その当時も上に述べたようなものだった。小寺さんは、「私の夫は博士です。教師にもプロの技(わざ)を見せてもらえなくちゃ困りますよ」。
 う~ん、小寺さんのご夫君が何博士なのかは存じ上げないが、ある種のいじめを解決するってのは、ある種の博士になるよりずっと難しいんですが…。
 ただ、小寺さんがこうおっしゃる気持ちもわからないではない。証拠がそろっていれば、侮辱罪、傷害罪、などで警察に訴えることはできる。しかし、相手が子どもなのでは、なまなかなことでは警察もはかばかしく動かないだろうと予想されるし、前に言ったように、裁判にするのはたいへんだ。現在大津市の事件で現にそうなっているように、加害者側の親と直接争うのも好ましくない。親ならば、子どものためにかなりのムチャクチャなことをやっても言っても、しかたないと同情される、あるいは、されるはずだという思い込みが、日本社会にあるから、泥沼のような争いが延々と続くことになりがちである。
 この点、学校を相手にしたほうがずっとすっきりしている。何しろ、教師は、いかなる反論も許されない、あるいは、許されないはずだという思い込みもある。まず、いじめが生じたということ自体が教師の手落ちだ。そのいじめに気がつかなかったとすればするで、気がついていても解決できなかったとすればするで、やっぱり重大な手落ちとして非難される。そして、どういう非難でも、正当だと見なされがちなのだ。
 敢えて言う。こんなことなら、いじめはできるだけないことにしたい、隠したい、という気持ちになるのは、平凡な人間としては無理からぬところではないだろうか。そういう同情もいっさいしてもらえない立場の者は、ひたすらいじけるしかないのではないか。そう、いじめられっ子がそうなりがちなように。このへんまで想像力を働かせてください、というのは、学校外の人には無理な注文だろうか?
 まあ、いい。小寺さんは御自身の体験から本を書いたので、学校と交渉するだけで、なんとかいじめを解消できた、そういう実績はある。校長以下の教師集団が本気になって取り組めば、かなりのことができる。再び言うが、それは否定しない。しかし、百パーセントと思ってはならない、と申し上げている。

 いじめをやめさせるために、学校はいったいどれくらいのことができるのか。教師には懲戒権はある。具体的な内容はどんなものか、文科省が出したガイドライン中最新のものとしては平成十九年の「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」があるので、ご覧いただきたい。
 体罰に関しては、従来よりはやや緩やかになり、有形力(暴力及びそれに近い行為を指す法律用語)はどんなものでも許されない、とはされないが、殴るなど、生徒に明白な肉体的な苦痛を与えるものはダメ、というのは変わらない。それ以外だと、別紙の(5)に書いてあるもの。これを見て、どう思いますか? 
 例えば、「放課後等に教室に残留させる」。いわゆる居残りですな。学生時分、これをくらった、という人は多いだろう。それで、尋ねたいのですが、先生から、「今日の放課後、教室へ残りなさい」と言われても、「塾がありますから」とかなんとか言って、あるいは、何も言わないで、帰ってしまった場合、どうなると思いますか?
 どうにもなりはしない。本当ですよ。教師にできることは、せいぜい、親に電話して、「こういうことでは困りますから、ちゃんと言われたとおりにするように、~君に言っていただけませんか」などと告げるぐらい。その時、親から、「居残りなんて、なんでさせるんですか。必要ないじゃないですか」とか、「すみません、私が言ってもあの子はききませんから」とか言われたら、もう手段はない。これは、話のうえのことではない。今の学校で実際に起こっていることなのです。これが最前から申し上げている、「学校の限界」なんです。
 関連して申し上げておく。以前にも言及した「少年犯罪データベース」などを見れば明らかなように、昔に比べて今のほうが、いじめの件数が増えたとか、手口が陰湿化している、というようなことは特にない。時代による変化は、「いじめをちゃんと解決しろ」と公然と要求する人が増えたことと、しかし特に義務教育段階の学校は、児童に対する権力はほとんどない、その認識が、直接的間接的に世間に広まり、やがて児童にも広まったところこそ、最も大きいのである。
 こんなていたらくで、いじめを必ず解決できる、なんてわけないでしょう? さればとて、実際的な権力、例えば、こんな生徒にはすぐに出席停止を命じることができるまでの権限を、教師に持たせてもいいでしょうか? 私の感じでは、それに賛成する人はそんなに多くはないようだ。それなら、残る手段は、いじめなどについては専一に取り扱うための機関を、学校外に設けることしかない。
 それについて、ヒントは夏木智からもらったのだが、その後私が考えてきた具体案を略述しよう。この機関は、捜査の権限は持たなければならない。が、もちろん警察とは違う。いじめに限定して言えば、学校だけで解決できるのと、司法に訴えるのと、その中間の役割を果たす。被害者から訴えがあり、学校だけではどうにもならないと判断されたときには、事実関係をできるだけ詳細に調べて、教育委員会へ報告する。報告を見て、必要なら、実際に処分をくだすのは、現行では教育委員会しかない。早い話が、義務教育年限中の児童生徒への処分として最高のものは、上に述べた出席停止がある(高等学校の謹慎処分だと考えてよい)が、これを申し渡せるのは、学校長ではなく(高校の謹慎処分は学校長が決定できる)教育委員会である。これについては「学校のリアルに応じて その5」で詳述した。
 つけ加えると、これも最近のニュースで、大阪府教育委員会が「いじめを繰り返す児童・生徒に対し、出席停止制度の積極適用を検討していることが19日、分かった」(『MSN産経ニュース』7月20日)というのがあった。わざわざ検討しなければならないぐらい、この適応例は、少なくとも公にされているものは、全国的に少ない。「文部科学省によると、平成22年度は、小学校での適用例はなく、中学校は51件。教師への暴力や授業妨害への適用が大半で、いじめが理由だったのは6件」。因みに、大阪府では近年一例もない。
 前述の「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」には、「いじめや暴力行為など問題行動を繰り返す児童生徒に対し、正常な教育環境を回復するため必要と認める場合には、市町村教育委員会は、出席停止制度の措置を採ることをためらわずに検討する」とあるのだが、しかし、実際に検討して、実行して、それが問題にされたら、文科省が味方してくれるかどうか、極めて怪しい。だから、ためらう教育委員会が多いとしても、文科省にはこの点では責める資格はない。
 思い切ってこれをやれば、いじめが根絶できるとまでは言わない。しかし、「いじめではなく、ただのふざけっこ」と加害者側の親が言うのが珍しくない事態では、ものものしく調べるだけでも、いかに重大な問題であるか、内外に知らせる効果はある。また、加害者側にとっても、裁判になって、マスコミに騒がれ、家族ぐるみ実名・住所・写真までネット上に公開されるような最近の「制裁」を受けるよりはまだマシだろうと考えられる。
 今まで教育委員会がなかなか出席停止処分にまで踏み切れなかったもう一つの理由は、事実関係の調査が、学校だけでは難しかったこともある。だからこそ、調査のための専門機関が必要なのである。調査対象は生徒だけではなく、問題のある教師も入る(その処分もまた、教育委員会の管轄)としたら、より広い支持を得られるのではないだろうか。
 ただし、そもそもの大前提として、こういうことがうまく運ぶためには、現行の教育委員会ではとうていダメじゃないか、何しろ、通常は月に二、三度集まるぐらいの、教育行政のお飾りである場合が大半なのだから、と、事情に通じている人ならすぐに思いつくだろう。さよう、まず、教育委員会の改革から始めなければならないので、実現までにかなりの手間だが、考えるべき値打ちはある。

 いじめがマスコミで話題になっているときに限ってもの申すのは、教師としてはむしろ謹むべきかとも思ったが、言論を出すタイミングは確かにある。微力はもとより承知の上で、一人でも多くの人に読んでもらい、考えてもらうほうがいいに決まっているのだから。
 今後は、文科省内の「新組織」の具体案が八月には出る予定らしいので、それを見て、言うべきことがあったら、申します。
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学校のリアルに応じて その5(最終回)

2011年01月29日 | 教育
メインテキスト: 菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書 平成22年)

 本書第六章「「友だち先生」の実態」(P.122以下)に挙げられている各種の実例のうち、著者が一番怒っていて、たぶん読んだ人も同感するのは、「葬式ごっこ」以上に、最初の、わいせつ被害を受けた女子中学生の件だろう。元が新聞記事(『讀賣新聞』平成20年3月31日)で、詳しいことがわからず、どうにも腑に落ちないところもあるのだが、今は当面の論述に必要なところだけを引用しておく。

 調布市の市立中学で男子生徒らから強制わいせつの被害を受けた3年生の女子生徒が 3か月間、別の部屋で1人学習を余儀なくされ、通知表で一部教科が最低の1に落ちていたことがわかった。男子生徒らは家裁送致されるまで、普通に授業を受けていた。女子生徒の父親は「志望校を変えることになった。被害者の不利益が 大きすぎる」と訴えている。
(中略)
 学校側は父親から相談を受けた際、「まず警察で調べるので、学校としては男子生徒を 処分できない」として、女子生徒に別室に移って勉強するよう勧めた。その後、男子生徒が 家裁送致されるまで、女子生徒が普通の授業を受けられない状態が続いていた。
(中略)
 男子生徒らは保護処分の措置を受けるなどした後、学校に戻り、卒業したという。
(中略)
 学校教育法によると、出席停止措置は、教室で騒ぐなど多数の生徒が正常に学習できない状態にとられる。市教委は「1人が迷惑を受けている状態では、なかなか男子生徒の出席停止には踏み切れなかった」と話している。
 教育評論家の尾木直樹・法政大教授は「司法的な責任と教育の責任は全くの別物。 被害者を守るために、すぐにでも加害生徒を別室に移すなど毅然(きぜん)とした対応が必要だった」と指摘している。


 腑に落ちないのは、こういう事情なのに、学校がこの女子生徒に1をつけたことだ(それも、その教科は音楽)。これはこの学校の体制によるものらしい。で、それは置くとして。
 誰もが訝しく思い、憤激にもかられるのは次の点だろう。女子生徒としては、自分に猥褻なことをした男子生徒と同じ教室にいるなんて耐えられない。そこで、学校は彼女に、別室で勉強するように勧めた。結果として、被害者が教室から追われた形になる。
 そんな馬鹿な。追われるべきなのは、加害者の男子生徒たちではないのか。こんな当たり前の常識が通用しない学校なら、生徒たちに社会のルールを身につけさせるなんて不可能ではないか。と、私も思う。しかし、本当の改善のためには、こういうことになった学校のほうの事情も、もう少し詳しく考えておく必要がある。「毅然とした対応」なんて一言ですむ話ではないのだから。
 義務教育で、生徒を教室に出さないのは、出席停止措置と呼ばれる。記事でコメントしている主語が市教委であることからわかるように、それを決めるのは学校長ではなく、教育委員会。そのことを含めて、もちろん、法に明記されている措置である。
 尾木直樹のコメントを、私は、馬鹿げている、と考える。理由は、こういう場合でも、司法と教育とは截然と分けられる、分けなくてはいけない、としているからだ。これに対して菅野は、学校を、ルール(そのうち明文化されたものが法)の支配する一般社会に近づけるべき、と主張している。
 どちらが妥当な意見か、最終的な判断は個々人にしてもらうしかないが、当面の問題はこうである。七歳~十五歳の子どもは、教育を受ける権利があると日本国憲法にある。それは即ち、特別の場合を除いて、学校へ通って授業を受ける権利だと考えてよい。出席停止とは、この権利を一時停止する措置だ。法の裏付けもなく、教師だけの判断で、「毅然として」やればいいことだなんて、本当に思えるのか?

 それで、法律はある。学校教育法第三十五条。以下にその第一項の全文を示す(これは小学校についての既定だが、中学校についてはこれを「準用する」と同法第四十九条にある)。

 市町村の教育委員会は、次に掲げる行為の一又は二以上を繰り返し行う等性行不良であつて他の児童の教育に妨げがあると認める児童があるときは、その保護者に対して、児童の出席停止を命ずることができる。
1 他の児童に傷害、心身の苦痛又は財産上の損失を与える行為
2 職員に傷害又は心身の苦痛を与える行為
3 施設又は設備を損壊する行為
4 授業その他の教育活動の実施を妨げる行為


 件の男子生徒たちがやったことは、明らかに1に触れる。「他の児童」が一人か複数かなんて、問題にされていない。それでも出席停止にはできないのか?
 調布市教委は、この条文を知らなかったのだろうか。そうかも知れない。この条項の存在は、一般にはほとんど知られていないのだから。現に記事を書いた新聞記者も、「学校教育法によると、出席停止措置は、教室で騒ぐなど多数の生徒が正常に学習できない状態にとられる」なんて思っているくらいだ。
 そうではないとすれば、理由は、この法律の実際の運用面にあると思われる。昭和五十八年十二月五日、校内暴力が頻発する事態に鑑み、文部省は「公立の小学校及び中学校における出席停止等の措置について」という通知を各都道府県教育長宛に出している。
 ここで文部省が、「出席停止の制度の適切な運用を図るため、特に、次のような点が重要であると考えます」として挙げている第一点は以下。
「出席停止の制度は、本人に対する懲戒という観点からではなく、学校の秩序を維持し、他の児童生徒の義務教育を受ける権利を保障するという観点から設けられていること」
 改めて読むと、少々難しいが、それでも、出席停止というのは、授業中騒いで先生の注意を全然聞かなかったり、それどころか先生を殴ってしまったり、といった、授業妨害に対応するためのもの、と読み取っても不思議はない、とは思えるものではないだろうか。実際にこの通知は、まさにそのような状況に対応するものとして出されたのだし。
 「他の児童生徒の義務教育を受ける権利を保障する」ために、授業妨害をしたわけでもない生徒をこの処分にした実例があるかどうかはわからない。何しろ、法文の存在自体がそんなに知られていないぐらいだから、実際にどのように行われているかについては、ますますわからない。
 私も、中学校教師から聞いた例をいくつか知っているぐらいだが、この措置は例外なく、あまり目立たないように、こっそりと行われている。場合によっては、教育委員会には知らせず、学校だけの判断で、どうにも手がつけられない生徒を、教室には入れず、別室に行かせる例もある。とは言え、もともと、部屋で大人しくしている連中ではないのだから、実際は放置に近いのだろう。
 理由は、教師にはすぐにわかる。こんなことをしていると知れ渡ったら、その学校の教師は、指導力のない、ダメな連中だという烙印を押されかねない、と恐れるからだ。教育委員会だって喜ばない。これをやると公式に認めたら、「子どもの学ぶ権利を軽々しく奪っていいのか」とかなんとか、マスコミに叩かれるかも知れない。ある教師や生徒が困っていても、学校の中だけのことなら、黙って見過ごしているほうが、つまり無難なのだ。

 また、別の問題もある。調布市の事件は、九月に発覚し、加害者たちに処分が下ったのは十二月である。強制猥褻のケースで、この期間は、長いか短いかは知らないが、非常にデリケートな性質のものだけに、調査にはそれ相当の時間がかかるのは事実であろう。それで、十二月までは、何がどう起きたか、全容は明らかにならなかった、ということだ。
 それまでに、学校が加害者たちを処分するというのは、非常に難しい。「まず警察で調べるので、学校としては男子生徒を 処分できない」というのも、単なる逃げ口上ではない。もしも、やったことが曖昧なまま処分に踏み切ったりしたら、加害者の親からどう突っ込まれるかわからない。万が一冤罪だった場合には、どのように責任を取るのか?
 要するに教師の保身だ、と言われるなら、半分はその通りだと認めるけれど、一方、生徒を正しく指導するためにも、やったことはできるだけ正確に知っておく必要があることも本当だろう。そして、学校に、警察や家裁並の捜査能力があるはずはないし、権限の問題から言っても、警察が入った以上、学校はその捜査結果を待つしかない。結果として、それ以前は、加害者の男子生徒たちは、何もなかったかのように授業に出続け、彼らと顔を合わせたくない被害者のほうが、教室へ行けなくなってしまったのである。

 やっぱり教師がだらしないんだ、ですまされる人は、結局呑気な人なのだと思う。上の事件は、いじめの一種だ。世の中には自分一個の力量だけでいじめを解決できる教師もいるのだろうが、できない教師もいる。そうでなければ、こんなに蔓延するはずはない。で、どうだろう。あなたの子どもが学校でいじめられたが、そこの教師たちにはやめさせるだけの力はなかった。お気の毒です…であきらめられるものだろうか。「そんな馬鹿な」と言うのが正常だ。ならば、こういう場合には、万人に適用できるような救済措置を、制度として用意しておくべきなのである。
 安部内閣が作った教育再生会議が出した提言の一つに、「学校問題解決支援グループ」の創設というものがある。「学校において、様々な課題を抱える子供への対処や保護者との意思疎通の問題等が生じている場合、関係機関の連携の下に問題解決に当たる。チームには、指導主事、法務教官、大学教員、弁護士、臨床心理士・精神科医、福祉司、警察官(OB)など専門家の参加を求める」(第二次報告)とされている。
 地域によって実際に作られたチームは、モンスターペアレンツの対応が、仕事の大部分になったらしい。私はまだ実際にその恩恵に浴したことはないが、学校と保護者の間にこういう人々が立ってくれるのは本当にありがたいだろうなあ、と感じている。再生会議の提言など、ほとんど唾棄すべきものだと思っているが、これだけはいいアイディアだったと認める。
 それで、このチームをもっと拡充して、いじめなどの問題にもかかわり、それから、M教師(問題のある教師を意味する学校の隠語)などについても、対応するようにしたらいいのではないか、というのが私の考えである。いや、対応というよりは、生徒や保護者や教師から訴えられた各種の問題をきちんと調べ、教育委員会に報告し、それに基づいて教育委員会がしかるべく対処する、でかまわない(そのための大前提として、教育委員会がしっかりしている必要がある)。学校と警察・家裁との中間の組織だと思ってもらってもいいかも知れない。
 なぜそういう組織が必要と考えるのか、それを今まで縷々述べてきたつもりだが、改めて最短でまとめる。学校を一定のルールに従って運営される集団としてきちんと成り立たせるためには、教師だけでは明らかな限界がある。彼らは生徒とあまりに身近な所にいるし、いるべきだとも言われているし、その結果として、生徒集団を管理するための権能は不必要とみなされて、きちんと与えられていない。その機能を果たすためには、学校とは相対的に独立した、外の機関があったほうがいい。
 外部評価、というのも再生会議で提言されたことの一つだが、教師のやったことを後から評価する外部の目なんて、それ自体はどれくらい正当で、どれくらい機能しているか、評価する機会も集団もないような代物でしかない。まずたいていは余計なお飾りで終わると思っていい。そんなのではなく、実際に学校の一部を動かすために外部の力を使うのが、学校改革のポイントなのである。
 そのためには、再生会議が考えたものよりもっと本格的な、常勤の職員から成る「支援チーム」がたぶん必要である。また、こういう組織ができたらできたで、また別の問題が生じる恐れもある。しかし、私はみんさんに呼びかけたい。学校のことをまじめに、冷静に考えたら、細かいところはともかく、こういう方向にも頭を働かせるべき時期にきているのは明らかではないでしょうか?

(ちょっと宣伝になりますが、この問題は夏木智と私で詳しく討議して、私たちの同人誌『ひつじ通信』に載せました。読んでみたい方は、左のブックマークから「onlineひつじ通信」のHPに行き、申し込んでください)
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学校のリアルに応じて その4

2011年01月25日 | 教育
メインテキスト: 菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書 平成22年)

 副題にある「クールティーチャー」とは、「人柄指向」だけではなく、「事柄指向」もできる教員のことだとされている。耳慣れない言葉だが、例えば、生徒が何か問題を引き起こしたとき、ただ罰を与えるのではなく、その子はなぜそういうことをしたのか、背景を含めて、「心」の部分を掴み、そこに対応していくべきだ、というようなのが「人柄指向」。
 長い時間顔を合わせる他人の性格や「人間性」を考えてしまうのは、誰にしても自然なことでしかないが、「教師はそうすべき」などと言われるのは、インチキだ、と私は考えている。菅野はそこまでは言っていないが。
 次のように考えたことはないだろうか。子どもが何か悪いことをしたとき、「こんなことをするのは、おまえが悪い人間だからだ」などと言われたりしたら? これも「人柄指向」なのである。それがひどい決めつけだとすれば、「おまえは本当はいい人間だ。しかし、これこれの環境やしかじかの事情で、やってしまったのだ」というのもまた、ひどくはないかも知れないが、決めつけなのだ。
 もちろん、ルソーあたりを鼻祖とする近代の教育観は、性善説を大前提とする。生まれつきの悪人なんていない。そこからすれば、「おまえは悪い人間」は、必ずまちがった決めつけになる。それを疑うことは許されない。こちらの決めつけがあるために、安心して、「人柄」を見ろ、などと要求できるわけだ。
 もっとも、いまどき、「子どもは善」などと、本当はどれくらい信じられているのかは非常に疑問だ。けれでも、少なくとも教育言論の世界では、疑いをあからさまに口に出すことは許されない、と感じられている。

 私は、性善説と性悪説の、どちらが正しいか、なんぞという議論をしたいわけではない。それは畢竟信念だけの、宗教的な問題でしかない。しかし、次のことは確かな事実だろう。「本来」はなんであれ、ヒトは必ず一定の社会環境の中で、「人間」となる。それは即ち、最広義の教育を受けなければ、ヒトという動物が人間になることはない、ということだ。
 そして、人間の様々な側面に応じて、教育も様々にある。学校教育はその中で、いわゆる一般社会で生きていくための、訓練の部分を受け持つ。放っておいて、すべての人間が、近代の勤労者にたるだけの、精神性や身体性を持ち得るわけではないだろう。人間性の本質がどうかなんぞという話はわからないが、それはいわば経験的な事実なのである。そこで近代社会では、学校が必要とされた。
 何も大げさな話ではない。勤め人のエートス(一定の社会・集団で共有される行動規範)とは、まず、毎日決まった時間に一定の場所へ行き、一定時間決まったことをやることだ。朝起きてから日が暮れるまで、自然のリズムと自分の都合に合わせて仕事をする農民の意識とは明確に違う生き方が、そこでは要求される。学校とはまず何よりも、時計が普及した後の、人工的な時間感覚を身体に刻みつけるための場所なのである。
 それともちろん、国民、及び市民として必要とされるマナー(行動様式)と知識を身につけるための。このうち、特にマナーについては、時代によって明らかに変わっていくので、生徒に強制していいものかどうか、時々議論の種になるものの、「身につけなければならない」ところは変わらない。

 以上は、ミシェル・フーコーやピエール・ブルデューなどの構造主義者が説いて以来、菅野のような社会学者や、教育学者の中でも教育社会学者にとっては、常識に属することのようだ。ただし、概ね否定的に語られる。「訓練」とか「規律」とかいうのは、第二次世界大戦後の知識界を覆う左翼的な雰囲気の中では、悪なるものと捉えられがちなのだから、当然であろう。しかし、菅野も言うように(P.43以下)、だからと言って学校を否定してもなんにもならない。社会は今でも、大部分勤め人で構成され、その最低限のエートスは社会常識となっていて、何人もそれを無視しては生きられないのだから。
 また、次のような事情も考慮されなくてはならない。国家や地方共同体や学校やらの、公的な集団とは別に、社会的な動物である人間は、自主的にグループを作りがちであり、その小グループが、外部に対する対抗意識から閉じられたものになると、往々にしてやたらに厳しいルール(ルールとは、エートスより明確なものであり、破られた場合にはこれまた明確な罰則が加えられるもの、と考えてよい)が構成員に課される。それは、「学校のリアルに応じて その1・その2」で縷々述べた。
 学校だけの問題ではない。古くは連合赤軍、近くはオウム真理教の内部で起こった凄惨なリンチはこれが基だ。先頃茨城県の龍ヶ崎市で起きた、出会い系サイトで知り合って共同生活をしていた四人の男女のうちの一人が、「態度が悪い」「言うことを聞かない」といった理由で、他のメンバーから虐待され、死亡した事件もまたそうだ。
 このような事態を避けるためには、グループを、外界との交流もある、開かれたものにしておかなくてはならない。ところが、それがきちんとなされるためには、より大きな集団内でのルールが共有されている必要がある。実のところ、国家を最大のものとする公的な集団の存在意義は、第一にはここにあると考えられる。
 学校という公的機関の意義も、知識の伝授を別とすれば、それであろう。さらに、ここではルールの必要性は二重になっている。学校が何かをするための集団性を保持するためにも、子どもたちが将来生きていくために必要な最低限のエートスを身につけるためにも、それは必要なのだ。

 しかし、教育社会学者以外の教育学者からは、こういう言葉を聞くことは稀である。特に、訓練とか規範という言葉は嫌われる。どうやら、教育学とは、「理想の子ども像」―「本来」は必ずよき者であるはずの子ども、いや、子どもそのものというよりは、そうあってほしいという大人の願望―を守り、ひいては「教育の理想」を守るためことを第一の任務としているらしい。いわば、神学である。俗界の人間たちの、いじましい現実に応じるようなものでは、もともとない。
 例えば、「子どもは本来必ず学ぶ意欲を持つ」などと言われる。大学でそう教わってきた新人教師が教壇に立って見渡すと、どうも子どもたちからはそのような意欲は感じられない、ときもある。その場合は絶対に、教師である彼/彼女が悪いのだ。反省し、努力して、子どもたちから意欲を「引き出す」か、彼ら自身が「再発見」しなければならない。それを指向しないなら、彼/彼女は教師として明らかに怠慢なのである。
 菅野にしても、それから私にしても、こういう指向自体が無駄である、と言っているわけではない。そうではなく、「学ぶ意欲」を持った子どもが、ちゃんと学ぶことができるためにも、生徒の「本来」を求める前に、もっと大事なことがある、と言っているのだ。

 ある子どもが、ルールに「従えない」ときには、その子固有の問題があるかも知れない。それが無視されていいわけではない。しかし一方、どういう事情からであれ、一定のルール破り(「従わない」とき)には一定のペナルティが課される、そうでなければ、ペナルティーの正当性が疑われるから、ひいてはルールの正当性も疑われてしまう。ここをそんなに曖昧にしておくわけにはいかないのだ。ざっとこういうのが即ち「事柄指向」である。
 そんなのは、特定の問題行動(例えば、他の生徒への暴行)に特定の罰(例えば、謹慎)を与えればいいのだから、簡単じゃないか、と思われるかも知れない。しかし、大人の世界の、裁判の有様をちょっと思い浮かべてもらえればいいと思うが、これはこれでけっこう難しいのである。
 そのうえに、学校には学校固有の難しさがある。その大きな部分は、前述した教育学的(神学的)な言説から来ている。本来善なるはずの子どもに、どうしてペナルティーが必要なはずがあろうか。だから公的には、学校には「罰」はない。生徒を謹慎させるのも、罰としてそうするのではなく、生徒に反省の機会を与えるための指導措置として、そうすることになっている。
 教師と生徒双方の実感に全くそぐわないこのようなタテマエが、本当に必要なのかどうか、私にはわからない。しかし学校は、当分この看板を下ろす気配はない。

 それでも、というか、それだから教師は、もっとクールになる必要がある。人柄指向より、事柄指向を優先させねばならない場合も、必ずあるのだから。それは菅野の言う通りだ。
 教師の側でこういうことに気づいた人間がいないのかというと、そうでもない。『ザ・中学教師』(別冊宝島70 昭和62年)でメジャーデビューした埼玉教育塾、後のプロ教師の会も、ほぼ同じことを説いていた。ただし彼らは、自分たちが非常に指導力のある教師であることを誇り、それを担保として、しかしそういう自分たちから見ても、従来の「理想主義的」な、人柄指向のみの教育観では、学校は立ちゆかなくなる、と訴えたのだった。
 『教育幻想』もまた、教師によきコーディネーターであることを求め、菅野が見た優れた教師の例を挙げることで、なんだかんだ言っても教師がもっとしっかりすればなんとかなんるのだ、という印象を与えている。そうではない、などと教師が言えば、結局は自分の怠慢をごまかすための逃げ口上だ、ととられるのが今の世の中だ。
 たぶん現在の学校は、そんなことではすまなくなっている。逃げ口上だと思われてもかまわない、特に優れた教師でも何でもない私が、なぜそう思うのか、次回に述べよう。
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学校のリアルに応じて その3

2011年01月20日 | 教育
メインテキスト : 菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書 平成22年)

サブテキスト : 綿矢りさ『蹴りたい背中』(河出文庫 平成19年 平成22年26刷)
 もう一つ、この小説を題材にして述べたいことがある。教師に関することだ。
 主人公は陸上部に入っている。夏休み前のある日(この小説は高校最初の夏休みに入る直前までの時期を描いている)、練習をがんばりすぎた彼女は、転んで、軽い怪我をしてしまう。他の女子部員たちが「大丈夫?」と寄ってくる。主人公は部活でも浮いているから、本当に心配しているわけではない。ただ、練習をサボりたいだけ。
 ところへ顧問の先生が登場。「先生、長谷川さん(主人公の名)が転んだのにびっくりして、みんな何周走ったか忘れちゃいました」と、とぼける部員たち。「しょうがない奴らだ。じゃあ今からミーティングだ」と、わざとらしく眉間に皺を寄せて応じる先生。「それは基礎練は終わりってことですか?」と念を押す生徒たち。「お前らは、どう思うんだ?」先生の目は“いたずらっぽい目”になっている。主人公はこの目にはぞっとさせられている。
 で、練習は終わりになるが、すぐ後で主人公は事実を知る。光化学スモッグ注意報が発令されたという校内放送があった。誰かが怪我をしてもしなくても、練習をどれほどやっていてもやらなくても、屋外での運動は中止になったのだ。それを隠して、部員たちの希望を聞いてやる「優しい、話のわかる先生」を演じた顧問。その「みみっちい計算」を思うと、主人公は泣きたくなる(以上P.51~58)。

 ここに描かれていることの前提に疑念を持つ人がいるかもしれないので、註記しておこう。なんで部活動がこんな状態になるのか? 出席が義務づけられている授業と違って、部活は原則自由参加だ(部活動全員強制加入の学校もあるが、それはここでは除く)。練習をさぼりたいくらいなら、入らなければいいだけの話ではないか? また、自分が中学高校時代に部活に打ち込んできた経験のある人の中には、厳しくしごいてくれる顧問に感謝している、それこそ「よい先生」ではないか、と自然に思っている場合も多いだろう。
 そのような部活動は今でもあるが、そうでないのもある、ということである。最近の統計的な資料など、あるのかどうかさえよく知らないので、全体としてどちらが多いのか、確かなことは言えないが、次のような感覚が広がっているのは、教師として肌身に感じている。
 授業でやる勉強よりは、部活でやる運動のほうが好きな子はもちろん多い。陸上競技が好きだから陸上部へ入るのであって、嫌いな子が来るわけはない。しかしその全員が、非常に苦しい練習を乗り越えてまで、実力をつけたいと念願しているかどうかは、また別の話になる。いくら好きでも、全国大会に出場できるほどの者はもとより少数であり、その他いろいろ考えても、運動をやったことによって報いられる見込みは、勉強よりもっと少ない。今の子どもにはその事実は知れ渡っている。と、すれば、好きなことは、好きなようにやりたくなる。
 とはいえ、運動をやる以上、体力や技術が向上すればやっぱりうれしい。その喜びがないとしたら、部活はやらない。このへんの機微は非常に微妙であって、あまり強くない部の顧問になった教師は、それを視野に入れて、やっていくしかないのである。生徒の感情を無視して、むやみにスパルタでやっても、まるっきり放っておいても、その部活は早晩崩壊する公算が高い。 
 
 『蹴りたい背中』中の部活は、明らかに、スパルタ式訓練が通用する種類のものではない。生徒たちは、あまりきつい練習はしたくないので、甘えるふりをして、顧問教師を丸めこもうとする。教師は、丸めこまれたふりをして、なんとか体面を保ちつつ、部活を存続させようとする。
 そんなに悪いことだろうか? とりあえず、教師と生徒の関係は良好なのだ。みみっちい計算が双方に働いていることは確かだが、見方を変えれば可愛いものだとも言えるだろう。主人公にしても、全国大会を目指すほど陸上に入れあげているわけではない。ここでも問題になるのは、彼女の潔癖さである。人間関係で働くインチキは、それが卑小なものであればあるほど、許せなくなるという、やっかいなリゴリズム。
 私は、かつての文学少年として、彼女に多大な共感を覚えるが、残念ながら、馬齢を重ねるうちに、こういう感覚のままに生きていくのは非常に難しいことも学んでしまった。いかにも、本当の信頼関係は馴れ合いとは違うだろう。しかし、実際の生活の場で、この二つを区別することは口で言うほど簡単ではないし、区別する必要性が感じられることは、学校でもよそでも、めったにないのである。

 教師だって「もてたい」のだ、ということは率直に認めておいたほうがいいだろう。こういうところでは、教師はまったくもって「ただの人」に過ぎない。当たり前の話だけれど。
 誰だって、他人に嫌われるよりは、好かれたほうがいいに決まっている。『蹴りたい背中』の主人公のような、潔癖な性向のままに、厳しい生き方を選択した者でさえ。「人間(生徒たち)に囲まれて先生が舞い上がる度に、生き生きする度に、私は自分の生き方に対して自信を失くしていく」
 別の箇所では、「長谷川は練習を頑張るから、これからは伸びるはずだ」と、嫌いなはずの顧問教師から言われ、不覚にも涙ぐみそうになる(P.109)。人に認めてもらいたい欲求は、人間として最も根源的なものの一つだろう。そのために多少不純な手練手管が働いたとしても、そんなに咎めるべきことではない。

 問題はこの先にある。それでもやっぱり教師は、生徒と馴れ合ってばかりではいけない。
 馴れ合い、とは、教師もまた、部活なら部活、クラスならクラスの空気にある程度合わせるということだ。『蹴りたい背中』の、陸上部の顧問教師も、そうだ。それは、教師もまた生徒とともに学校で生活する者である以上、ある程度は必然であり、必要なことでもある。ただ、度をこしてしまうと、まずいことになる。

 『教育幻想』には、「教室の空気にあわせ過ぎてしまう」例として、昭和61年当時、かなり話題になった「葬式ごっこ」が出てくる(P.126~129)。ある生徒が病気でしばらく休んだとき、この子が死んだことにする遊びが始まった。追悼のための色紙がクラス内をめぐり、かなりの人数が書き込む。「安らかに眠ってくれ」とか、なんとか。そこに、担任教師も書き込みをしていた、というあの事件である。
 この子どもは他でもいじめられており、「このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ」という悲痛な遺書を残して自死した。そうでなければ、「葬式ごっこ」が世間に知れ渡ることはなかったろう。ひとたび知れ渡ったら、教師がなんという非常識な、いや、非道なことをするのだ、という憤激が、全国的に湧き上がり、以後、「いじめ」は、最も重要な教育問題であると認知された。
 冷静に考えると、この教師の行動はどこから出てきたのか。菅野の指摘を待つまでもなく、葬式ごっこは、「軽いノリ」・「ほんの冗談」の調子で行われたのに違いない。色紙に書き込んだ生徒の大部分はもとより、ひょっとしたら首謀者(この「遊び」を始めた生徒)もそうだったかも知れない。そこに、教師も巻き込まれていった。つまり、おふざけ気分を共有して、生徒との「連帯」を得るために、書き込んでしまった。それがおそらく真相に近い。

 こういう事態を招く原因の一つには、明らかに、従来からの教育観もある。教師は、生徒との信頼関係こそ大切であり、常に生徒の事情や気持ちを思いやることが求められる、とする、今でもおなじみのアレだ。まちがいだと言うつもりはない。しかし、お互いに対立することも珍しくないクラス内の個々人の「気持ち」を掴み、いちいち的確に対応していくなんて、並の人間には至難だ。勢い、クラスの多数派に同調しがちになる。そこに危険がある。
 どうすればいいのか。「友だち教師」がダメなら、教師は、昔はあったとされている「威厳」を取り戻せばいいのか。これまた、非常に難しい。特にそれを、教師個人の力だけでやれ、ということになったら、はっきりと不可能だ、と申し上げたほうがよい。
 昔の教師がエラかったとすれば、それは、世間に「教師はエラいってことにしとこう」という暗黙の了解があったことを意味する。この点で菅野の言うことは全く正確である。「(教師が)ときには「上からものを言う」ことも大切なのです。でもそれは周りの支えがない状態で、一人の先生の力で行うことは不可能です」(P.132)
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学校のリアルに応じて その2

2011年01月18日 | 教育
メインテキスト : 菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書 平成2)

サブテキスト : 綿矢りさ『蹴りたい背中』(河出文庫 平成19年 平成22年26刷)
 この小説の主人公は高一女子で、クラス内での「余り者」だと自分で言う。すすんでそうなったのだ。
「私は、余り者も嫌だけど、グループはもっと嫌だ。できた瞬間から繕わなければいけない。不毛なものだから。中学生の頃、話に詰まって目を泳がせて、つまらない話題にしがみついて、そしてなんとか盛り上げようと、けたたましく笑い声をあげている時なんかは、授業の中休みの十分間が永遠にも思えた」
 明らかに、すべてのグループがこうではない、というか、すべての子どもがグループをこう感じているわけではない。不毛さはあっても、なんとかやり過ごす。それを過剰に気にして、嫌悪感にさえ襲われるのは、太宰治のファンで、自分でも小説を書こうとするような(主人公がそうだとされているわけではないが、作者はたぶんそうだろう)、自意識が強くて感受性が鋭く、人間関係に関して非常に潔癖な者だけだろう。
 中学時代の友人で、今度もたまたま同じクラスになった娘は、憧れだったという男女混成のグループに入り、主人公を誘う。グループに入れてくれるように、他のメンバーに頼んであげよう、と。そんなのにはとうてい耐えられない主人公は、逆に、「二人でやっていこう」と申し出るのだが、相手からは「遠慮しとく」とすげなく断られる(以上はP.22~23)。
 この友人にとって、グループに入るかどうかなんて、選択の余地はない。入らなければ、「想像するだけできつそう」な事態を招くのはわかりきっているのだから。

 クラスの中で居場所のない者は、自然に皆から軽んじられる。存在がきちんと認められないから。それだけならまだしも、自分で自分の存在が軽いものに感じられてしまう。いや、そうではない。軽くて、どうでもいいのは、自分以外の外界だ。しかしそれは結局同じところへ人を導く。
 例えば、夏休み前に体育館で、スライドを見るための全校集会がある。一人で入った主人公は、ガムテープ貼りで床に巡らされたケーブルを足にひっかけてしまう。グループに属している子は、こういうときでも、にぎやかにおしゃべりしながら移動するから、床なんてろくに見ていないのに、ケーブルにひっかかるようなことはなく、一人ぼっちで、しかもうつむき加減に歩いている彼女が、下にあるものに気づかない。
「私は、見ているようで見ていないのだ。周りのことがテレビのように、ただ流れていくだけの映像として見えている。(中略)学校にいる間は、頭の中でずっと一人でしゃべっているから、外の世界が遠いんだ」(P.89)
 こういう人は、外の世界の側から見ても、やっぱり遠く感じられるしかない。しかし、「目立たない子」というわけではない。そういう子は、グループに入って、大人しく微笑んでいる。『蹴りたい背中』の主人公は、微笑みを向ける相手もいないから、こわばった顔つきで、目つきも鋭くなり、外からは微弱な敵意を発しているように見えてしまう。そこで、外部からも、軽い敵意が返される。
 どうにも悲劇的なことに、遠いところにあるはずのこういう感情を、主人公はとてもよく察知する。もともとそういうことに過度に敏感だったからというだけではなく、一人で自分の内面だけを見つめていると、他者のまなざしを受け流してやり過ごす場所がない。それでその視線の意味は、ストレートに、重くのしかかってくるのである。
 やり過ごす場所を与えるのはグループだ。ただそれだけ、の不毛さのほうをやり過ごすことができれば、という条件つきでだが。それでも、人間関係が織りなす感情上の煩わしさから逃れるには、まだしもこちらのほうがいい。
 別の道はないのだろうか? 主人公のクラスメートで、同じく「余り者」である男子生徒は、いっこうにそれを苦にする様子はない。彼はいわゆるオタクであって、あるアイドルに夢中で、他のことは本当に、心からどうでもいいのである。主人公は、彼が持つ「強さ」に惹かれるが、それはどうも恋愛とは決定的に違う何かだ。これを描くのが、この小説の主眼である。

 菅野仁は、ここまで自意識の強い子のことを考えているわけではないし、オタクをどうにかしようというのでもない。『蹴りたい背中』の世界は、まだいじめにまでは至っていないが、グループ内で「仲良し」を繕うことに飽き果てて、緊張感が高まったとき、悪意の標的になるのは、まちがいなくこの主人公のような子ではあるのだが。率直に言って、それ自体は、「教育」の範囲でどうこうできる問題ではない。
 最悪の事態を避けるために菅野が出した処方箋は次のようなものである。「みんな仲良く」なんて単なる幻想だ。グループを解消しようなんていうのも実現不可能。気を遣うべきなのはそんなことより、「小集団を認めつつ、ネットワークをどのように作れるかということです。あるいは、孤立する子どもを無くしたり、あまりにも対立が激化しないようにするにはどうしたらいいか考えていくことです」
 こういう場合の教員の力量とは、グループとは別のネットワークをクラス内に作り上げていくコーディネーターとしてのものだ、と彼は言っている。具体的には、「まめに席替えをしたり、掃除当番のメンバーを変えたり、いろいろな仕掛けをして」いくことだ(以上P.62~64)。
 それだけ? と学校外の人からは反問されるかも知れない。実際は、それだけでもそんなに容易ではない。今の子どもにとって、環境が変わるのは一大事なのだから。席替えの結果、周りに溶け込めないと感じて、登校拒否になった事例も、少数ながら存在する。どんなやり方でもそうだが、ただむやみにやればいいというもではないのだ。
 もっと簡単なものだと、ある教師から次のようなやり方を聞いたことがある(一部ではかなりポピュラーな方法らしい)。プリントを配布するとき、班ごとや列ごとに渡して配らせるのだが、このとき、数をきちんと数えないで、いい加減に渡す。当然、余るところも足りないところも出てくる。それは放っておく。すると足りない斑や列は、余っているところへ行ってもらって来なければならない。それだけでも、最小限の人間関係ができる、と言って言い過ぎなら、そのきっかけはできる。
 またしても、「それだけ?」であろう。そう、いわゆる力量のある教師は一応別にして、一般的な教師にできることは「それだけ」である。でも、やらないよりはましだ。そうであるならば、学校に、一般的に期待してよいのは、「それだけ」である。「それだけ」を、したかしなかったかにかかわらず、最悪の事態になってしまった場合の対応策は、別に考えられなければならない。
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学校のリアルに応じて その1

2011年01月16日 | 教育
メインテキスト : 菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書 平成22年)

 良書である。教員としてとっくに知っていたはずのことに、改めて気づかされた。

 最近(といっても私が教員になってからもう顕著であったから、軽く四半世紀は経っている)の学校では、生徒たちは、クラス内で、2人~6人から成る、小グループで過ごすことが多くなった。以前から、基本的に同性同士による、「仲良しグループ」はあったに違いないが、その存在感が非常に大きくなった、と言ってよいだろうか。逆に言うと、30人~40人の、クラス全体で何かをしよう/しなければならない/したほうがよい、とする意識は、非常に薄くなっている。
 その理由は、というより同じことを別の角度から言うだけかも知れないが、大きな集団を率いるリーダーが非常にできにくくなっている。文化祭などのイベントのとき、クラスで何かをしようとして、クラス委員などが一定の方向で皆をまとめようとしても、そのこと自体がウザがられてしまう(実は、教員が同じことをしようとしても、往々にしてそうなる)。

 以下具体例。
「じゃあ、おでん屋をやろうな。みんな、買い出しと、調理と、販売と、宣伝と、会場作りの係のどこかへは入って」
などと呼びかけても、クラスの半数以上に知らん顔をされたりする。「オレ、おでん屋なんてやりたくねえもん」「かったりい。やりたい人がやれば」等々と、口に出すか、より多くの場合、態度で示す。「放課後に仕事をするから、残って」と言っても、帰ってしまう。
 
 やや脱線。それでも文化祭はできる。半数以下の人間が仕事をするからだ。それも各分野毎に、少人数で、横の連絡もほとんどなしに、勝手にやる。調理がやりたければ、その人間が自分たちの裁量で食材を買って来て、やる。飾り付けが好きな者は、手にはいる限りの材料で、好きなように会場を整える。一人の人間が複数の分野にまたがって活躍することはあるが、一人ではやらない。最低二人でやる。ただし、協力者は多くても四、五人は越えない。これが即ち「仲良しグループ」の規模である。文化祭のときの作業に限って言うと、最初は係でなかった者が、「なんだか面白そうだな」と途中から加わることもあるし、係だった者が「面白くないから」と帰ってしまうこともある。
 それでもできる。それでできるようなことしかやらないし、やらなくてもいいのが文化祭だから。今の文化祭の、クラスの催し物は、たいていそんなふうにしてできあがっている。

 元にもどって。
 大集団の中で、一定の役割を、責任をもって果たす、ということは、敬遠される。そんなこと、つまらないし、意味も感じられない。授業と、他にはホームルームと掃除ぐらいしかやることが定められていないふだんの学校生活では、自然にそうなる。勉強は、結局は一人でやるものだ。仲間なんて必要ない。それなら、一人で過ごしてもいいようなものだが、そうはいかない。休み時間、特に昼休みを楽しく過ごすための居場所を確保する必要はあって、そのためにグループが形成される。

 これだけなら、こんなグループなんて大したことはないじゃないか、と思われるかも知れない。前に言ったことの反対が、これの特質になるはずだから。
 まあ、その通り。集団として追及すべき目的などない。お互いに関する責任など、特に感じられない。このグループはまず第一に、いっしょに昼ご飯を食べるためのものだ。それから、休み時間に適当にダベったりふざけ合ったりして、まったり過ごすための。特に女子の場合、いっしょにトイレへも行ったりする。放課後や休日にいっしょに遊ぶことはあるが、そうでないグループもある。
 いずれにしろ、「責任」なんぞという大仰なものを背負わなければならないとしたら、グループの本来の主旨に反する。笑いのタネにできるような愚痴ならいいが、場の雰囲気が重くなるような深刻な悩みを、ストレートに口にするのはタブーである。そんなことをするために集まっているわけではないからだ。
 そう、こういう仲良しグループにもルールはある。結局のところ、ホンネは言えない。だから、グループのメンバーではあっても、自分のことを本当はどう思っているかはわからない。どういう意味でも、相手を本当に必要にしているわけではないから、いつ解消されても不思議はない。実際、ちょっとしたことがきっかけで、グループが崩れることもあり、そうなるとそこで、取り返しがつかない人間関係上のしこりが残ったりもする。
 
 というようなわけで、「目的もなく、責任もない」からお気楽なはずのグループもまた、独特の緊張をはらんでいるのである。4月の、新クラスが始まってまもなく、グループが形成され、5月から7月、さらに夏やみ明けと、時が経つに従って、緊張も高まる。
 メールを受け取ったら、1時間以内にレスを出さなくてはならない、そうしないのは友だちではない、などというルールが作られたりする。グループへの忠誠を示す儀式であり、冗談半分を装いながらこんなことをすることで、逆にグループの意味が生まれるようにも感じられる。いや、それもまた冗談半分だが。
 それから、みんなが知っている特定の誰か、クラスの他の生徒や先生への、悪意を共有することで、グループの意味を後づけるやり方も、非常にポピュラーだ。人間とはこれほどまでに「意味」を求める、求めないではいられない存在であることに、あらためて驚かされる。

 菅野は前著『友だち幻想 人と人の“つながり”を考える』 (ちくまプリマー新書 平成20年)からひきつづいて、このような現象を「同調圧力」「スケープゴート理論」という用語で説明しようとする(『教育幻想』P.60以下)。以下、彼が問題点として挙げていることをまとめると、
(1)このような小グループは、グループ外の者に対しては「特別に何かもめ事があるわけでもないのに、潜在的な対立・敵意から生じる緊張感を醸し出している場合が多い」
(2)「こういう小グループは、非常に親密で過度に相互に依存した形で閉じた集団になる場合が多い」
(3)「こうした小グループは、ほかの集団に対する「排他性」というものがとても強くなる」
 (1)と(3)が「スケープゴート理論」、(2)が「同調圧力」に関するものだろう。ほぼ、首肯できる。この二つは、互いに表裏の関係で結びついている事情も、察せられるだろう。
 ただ、(2)の部分の「親密さ」に関しては、普通にイメージされるのとはやや違った、現代独特の様相もあると思われ、今回やや詳しく述べた。
 わざわざ言わなくても、特に高校時代がまだ近い過去である若者は、こんなことは先刻、身に沁みてわかっているかも知れない。それでも、私が菅野の本を読んで改めて気づいたように、文章でまとめられると、「ああ、あれはこういうことだったんだ」と気づくこともあるだろうし、高校時代など遠い昔の話で、ノスタルジイで美化された思い出しかない大人たちには、伝えておいたほうがきっといいだろう。
 さて、学校内のこういった微妙な人間関係は容易に病理的なものに転じる。それの処方箋も菅野は提出している。その検討は後でしよう。
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