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中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

下諏訪宿本陣・岩波家(旧中山道を歩く146)

2008年08月18日 08時10分13秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(下諏訪宿本陣・岩波家の門構えと、左に見える明治天皇の石碑)

(下諏訪宿2)
スタートとなる本陣家を訪ねる。
道路にはみ出た下諏訪宿本陣の看板が目に付く。
その看板の下に立つと、古い門構えと「明治天皇御小休所」の石碑が、
そして門内のよく手入れされた庭がまぶしく光って見えた。
門をくぐり飛び石伝いに中に入ると玄関があり、奥の壁に
その昔宿泊された大名の名が書かれた看板が並んでいるのが目に付く。
入館料金四百円也の見せ場といおうか。

(母屋に続く飛び石、庭が綺麗に手入れされている)

本陣に宿泊されると必ず大名や公家様の名を書きだしたとは、
島崎藤村の「夜明け前」で読んだが、その実物を見るのは初めての体験である。
墨こん鮮やかとはこのことだ。


(玄関に置かれた宿泊者の名札?)

看板には右から、
米沢中将泊
加賀宰相旅宿
彦根少将宿
仙台中将寓
越前前中将室休(越前前藩主:松平春獄の奥様のことか?)
尾張大納言殿宿
松平加賀守旅宿 
××××××
ボクのつたない知識では、最後の一枚は読むことができない。
現代でも旅館の前に黒地で白く大きく書いた
「○○様ご一行」と本人が見ると恥ずかしくなる看板の元祖なのであろう。
ひょっとすると旅館側では、お迎えするお客様を大名か公家として扱い、
お客様に優越感を味わわせる積りなのかもしれない。
この玄関の左手に古ぼけた小机が置いてあり、
ここで入館料を徴収するのであろうが、誰も居ない。
開館9時とあったので問題は無いはずである。

時代劇の見過ぎで、
「たのもう」と大声を出したら、消え入りそうな声で
「少しお待ちください」と聞こえる。
お手洗いにでも入っていたのだろうか、
しばらくして、頼り無さそうな白髪のばあちゃんが出てきて、
「いらっしゃいませ」という。
「四百円ですね!上がってよろしいのですか?」とボク。
「どうぞ」というが、なんか頼りない返事で、
少し躊躇したが、靴を脱いで、
いつもはしないのに靴脱ぎのうえに脱いだ靴を
帰りに履きやすいように向きを変えて揃えたら、
数人のお客さんが来た。

「こちらです。入場料は」とボクが案内すると、ばあちゃんが
「座敷に進んでください。後で説明しますから」という。
このばあちゃんが説明を?するのかとやや頼りなく思ったが、
いざ説明に取り掛かると、立て板に水を流したごとくに話し出す。
この本陣の庭は「中山道随一の名園と言われるので、立ち寄って見よう」と案内書にある。


(通された座敷:茶室)

玄関から奥に通ると、縁側の角の柱を取り払った座敷があり、
これが茶室で、その前には滝から流れる池があり、
滝の奥には社があって池の手前には平らな石があり、
そこに座してお祈りをすると言う。


(美しい庭園、左の柱は庇で支えているので座敷には角の柱が無い)

ばあちゃんの説明によれば、
「この庭は、日本各地の名石を集め自然の地形の利用して
作庭された本格的築庭式石庭園で、東西の山や諏訪大社秋宮の森を借景にして、
間に何も見せないよう、深山幽谷の趣に作庭されていますが、
今は向こう側に家が建ちその借景も見えません。
滝の水は諏訪神社秋宮の南方を流れる承知川上流より取り入れ、
本陣用水として石垣で囲まれた屋敷の周囲を流れていたが、
その水の一部を屋敷中央に通し池の水に用いている。
春のつつじ、新緑、初夏のアヤメ、さつき、秋の紅葉、
雪景色と四季折々に見所を変えます。
池は心字池をかたどっており、滝の隣にある低潅木のサツキは2m余あり、
成長の年月の長さを物語るとともに庭の歴史の長さを物語っている。」
この茶室で皇女和宮様や明治天皇がお茶を召し上がり、
ご休息になった場所であるという。部屋は11畳と奇数の畳部屋が二部屋続き、
一方の部屋の隅には和宮様がお使いになった茶道具が陳列されている。


(和宮ご使用の道具)

東京大学の建築史教授によれば、
「本陣岩波家の客室と庭ほど洗練された京風数寄屋造りは、
京都の大工によるもので、他に類を見ない大胆な構成美の創造は、
並みの工匠の成すところではない。
細部の洗練さは桂離宮を思わせる」
と絶賛している。


(古い土蔵)

座敷の奥の間に入ると納戸のように感じるが、
窓ガラス越しに見える土蔵は江戸時代から続くものだそうで、
古風な年月を忍ばせる扉が二箇所、口を開けていた。

敷地面積千八百坪、主屋建坪二百八十坪あったといわれる。
その大きさは通常の宿場町の本陣の二倍に近い。






下諏訪宿(旧中山道を歩く 145)

2008年08月18日 08時07分34秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1



(下諏訪宿本陣の門から見た庭の飛び石)


(下諏訪宿)

下諏訪宿をスタートするに当たっては、最初に下諏訪宿本陣を訪れることにした。
それは4年前の夏、諏訪大社の下社(秋宮)に立ち寄ったとき、
目の前に下諏訪町歴史民族資料館があったので、そこに顔を出し、
「いつか分からないが、ひとりで旧中山道を日本橋から歩いてきます。
そのときは必ずもう一度お目にかかりましょう。」と約束をした。
その折、この資料館の前の道が旧中山道で、北に突き当たったところが、
甲州街道との合流点であること、その突き当たりにあるのが、
下諏訪宿本陣の岩波家であることを教わったからだ。


(下諏訪駅前の広場、左側に見えるのが「おんばしら」)

2008年5月26日(月)快晴。気温27度の予想。
朝9:13分、下諏訪駅に降り立つと、駅前広場からまっすぐ道が伸びている。
その道に入る駅前広場の出口には、左右に有名な「御柱」が立っており、
一方の柱の横に置かれた立派な「綱」が見る者を圧倒している。

説明書きによれば、
「下諏訪町は、江戸時代中山道と甲州道中が交わるところ、
豊富な湯量を誇る宿場町として栄え、
その名を馳せた歴史と文化の面影を今に残している。
諏訪神社総本社の門前町としても賑わい、「おんばしら祭り」が寅、申の年に行われ、
その勇壮、豪快な祭りは天下の大祭として全国に知れ渡っている。
また毎年行われる「お舟祭り」も有名である。
このモニュメントの「綱」はおんばしら、お舟の引き綱を表している。
一本の綱に力が込められ、太く力強い「綱」が出来上がる。
人々の団結、協力、絆を意味する。」とある。

御柱祭りのために、切り出した大木を急坂に落とす、「木落し」の行事は、
テレビニュースで死者が出ると伝えるほどの荒っぽいお祭りでよく全国に知れ渡っているが、
「お舟祭り」はあまり聞かない。
そこで土地の方に聞いた話を要約すると、
「お舟祭(おふねまつり)というのは、祭神の春宮から秋宮への夏の遷座祭のことを言う。
なお、冬の遷座祭は遷座の儀式と神主だけで
静かに裏街道を通って執り行われる行列のみが行われる。」のだそうです。


(おんばしらグランドパークのオブジェ)

さっそく駅前にまっすぐ伸びる道に沿って下社(秋宮)の方向に歩く。
突き当りを右折し信号を渡り少し歩くと左側に、
「甲州街道中山道合流地点こちら」の案内看板が目に付く。
その看板のある一角に
「おんばしらグランドパーク」さっき駅前で見たのと同じような、柱と綱のオブジェが置いてある小公園がある。
その小公園を左折するとそれこそ旧中山道で、直進する突き当たりに、

下諏訪宿本陣・岩波家がある。


(本陣・岩波家の看板)