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中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

円照寺の「止鑾松(しらんのまつ)」「(旧中山道を歩く 302)

2012年02月11日 11時04分39秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(芭蕉の紙子塚の碑)

(高宮宿2)
多賀大社の一の鳥居を過ぎて、
右手に「俳聖芭蕉翁旧跡 紙小塚」の碑が柵の中に建っている。

高宮町の説明では、

・たのむぞよ
      寝酒なき夜の 古紙子

貞享元年(1684)の冬、
縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、
自分が横になっている姿の絵を書いて、
この句を読んだ。
紙子とは、紙で作った衣服のことで、
小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に送り、
その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて
「紙子塚」と名づけた。)とある。


(紙子塚のある小林家)


(紙子塚)

(*)筆者注:せっかく塚まで造ったのに、
                         実も蓋もない話しで申し訳ありませんが、

・たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子 )の句は、

芭蕉の作かどうか疑わしいとされる。(芭蕉俳句集 岩波書店)

その先右手に脇本陣跡がある。
高宮町の説明では、
(江戸時代高宮宿には、二軒の脇本陣があり、
その一つがこの地におかれた。
門構え、玄関付き、間口約十四m、建坪244㎡であったという。
門前には領主の禁令などを掲示する高札場になっていた。
ここの脇本陣役は道中奉行の支配下にあり、
慶長十三年(1608)からは、人馬の継ぎ立て、休泊、飛脚、
街道の維持管理を行う問屋を兼ねており、
問屋場とも言った。)
つまり問屋場と脇本陣を兼ねていたということである。
また、高札場は通常宿場の入り口に置かれ、
宿場にはいてくる旅人や、
宿内の人々に読まれやすい場所にあった。
従って、高宮の場合は、高宮神社脇にあるべきであった。
あるいは在ったかもしれない。
その脇本陣跡の斜め向かいに、本陣跡がある。
昔の本陣の表門のみが残っている。


(脇本陣跡)


(残った本陣の門)

この手前を左に入ると高宮寺(こうぐうじ)があり、
高宮町の説明によると、
(縁起によると、もとは天平四年(732)に,
行基が開いた十一面観音を本尊とする称讃院という天台宗の寺であった。
その後、高宮城主宗忠が時宗道場に改め、
称讃院高宮寺としたとある。
ところが、織田・浅井の戦いで殆んど大伽藍が焼失してしまった。
その百余年後、住民の願いが村々を勧化し、
元禄五年(1692)現在の本堂が完成した。)とある。
門を入ると本堂があり、左手に「千命堂」がある。
「千命堂」について、次のように説明があり、要約すると、
(堂内の本尊は石造延命地蔵菩薩は井伊家四代藩主
尚興公の仏教信仰の思いが、民衆の幸福と平和を祈る心となって、
地蔵尊を作らせたものと思われます。
ご先祖の供養と人々の過去・現在・未来にわたって、
かけがえのない安らぎの場となる「千命堂」となるでしょう。)とある。


(高宮寺)


(遊行派高宮寺とある石柱)


(千命堂)


(千命堂の地蔵尊)


(高宮寺の本堂)

高宮寺を過ぎると左に高宮小学校がある。
案内書によると、この学校が高宮城址で校舎の横に、
空掘り跡が見られるとあるが、
ボクの目にはそれらしきものは見当たらなかった。
広い校庭で子供たちが元気に遊んでいた。


(高宮小学校ー高宮城跡)

中山道へ戻って、本陣跡を京都に向って進むと、
その先右手に円照寺がある。
山門前に「明治天皇行在所聖蹟」の石碑が建つ。
境内には、明治天皇ゆかりの「止鑾松(しらんのまつ)」と呼ばれる松ノ木、
大阪夏の陣の帰り家康が休憩した折に腰掛けた家康腰掛石があるという。

腰掛石は石垣に囲まれて案内もあり場所が分かったが、
この脇に樹齢350年の腐りかかった老紅梅らしい木株が残っている。
老紅梅があるというので、この老紅梅を懸命になって探したが、
花が咲く2月頃なら花開いていてわかるだろうが、
枯れた木株だけではわからず、
門前の梅ノ木と間違えたほどである。


(円照寺の山門と明治天皇行在所聖蹟の碑)


(円照寺の石柱と本堂)


(止鑾松、後ろに止鑾松の石碑がある)


(家康腰懸石と老紅梅がある石垣)


(家康腰懸石)


(老紅梅)


(間違えた門前の梅ノ木)

さて、ここで問題は明治天皇ゆかりの「止鑾松(しらんのまつ)」。
何のことか意味がわからない。
調べると「鑾(らん)」とは、
天皇の乗り物の事を指すことが分かった。。
(明治天皇の乗り物をお寺につけるのに、
境内の松の大木が邪魔になり、切ることになった。
しかし、住職は松の木の命を惜しみ、天皇に伺いをたてたところ、
天皇は「歩くことなどいとわない」と、
松の木の前に乗り物を止め、御座所まで歩かれた。
その後、住職はこの松が天皇の乗り物の「鑾」(らん)を止めたと言って、
「止鑾松(しらんのまつ)」と名付けた。
今は2代目が育っている。)(高宮町)

高宮町つくり委員会もずいぶん難しい言葉を使う。
こうした言葉を使う時は、注をつけることを心がけたいものである。
文章はわかり易ければ分かり易いほど良いと思う。

高宮の街並みは、この先の高宮橋で終わるが、
愛知川宿までは、およそ8km先である。


(円照寺の本堂)


(高宮橋)