(国道21号線下っている)
(今須の一里塚)
(復元された一里塚、その石碑)
(今須宿 2)
国道21号線は自動車がスピードを出して走るので、
道路を横断するのは、はなはだ危険であるが見晴らしが良いので、
左右を良く見届けて注意して道路を横断しよう。
横断して少し坂を下ると一里塚跡が見事に復元されている。
江戸から114番目の今須の一里塚である。
一里塚の前から、21号線に沿って進むと、
左手に「中山道 今須宿」の標柱がたっており、
その後ろに「今須宿 本陣跡・脇本陣跡」と題して説明版がある。
(今須宿は美濃の国と近江の宿の境の宿として栄えました。
215坪の本陣が一軒で、現在の小学校一帯に位置していました。
脇本陣は美濃十六宿の中でも今須宿のみ二軒あり、
これも小学校付近にあったようです。
脇本陣河内家の建物は現米原市伊吹町の玉泉寺に移築され、
当時の面影を残しています。――後略)とある。
この標柱の後ろの方に小学校はある。
(今須の一里塚前)
(「中山道 今須宿」の標柱)
道路をはさんで反対側を見ると、
国道21号線の手前が広場になっており。
「曹洞宗 青阪山 妙應寺」の石柱がある。
そして左折する道路は、
国道21号線と東海道本線をトンネルでくぐり、
その向こうに妙応寺の山門が見える。
道路は門前で左右に曲がるのであろう。
(「曹洞宗 青阪山 妙應寺」の石柱)
山門に向って進む。
関が原町の説明によれば、
(妙應寺は正平十五年(1360)に、
今須領主長江重景(ながえしげかげ)が創建した、
県下で最も古い曹洞宗寺院で、
曹洞宗の大徳峨山禅師(道元の弟子)を開山として、
母妙應尼菩提のため妙應寺を建てたものです。
寺領も沢山寄進したので、久しくこの寺は栄えた。――後略)
(妙応寺の山門)
山門を入ると本堂が正面に見え、左右に常夜灯が並んでいる。
右手の松の根元には、老夫婦が抱き合い微笑ましい道祖神があり、
高さ二メートル余の大鬼瓦が見られる。
さらに進むと、狸の夫婦が肩抱き寄せた愛らしい道祖神も。
本堂左手の門をくぐると、
「長江地蔵大菩薩」の石碑がある地蔵堂がある。
奥には長江氏代々の墓が並んでいる。
(本堂)
(ほほえましい老夫婦の道祖神)
(狸の夫婦?)
(「長江地蔵大菩薩」の石碑)
(長江氏代々の墓)
妙応寺を出て、中山道を行くと左手に
「垂井警察署 今須警察官駐在所」がある。
垂井宿、関が原宿、今須宿併せて垂井警察署が管理していることになる。
膨大な土地に垂井警察署だけで事足りると言うことは、
この地域の治安のよさを物語っている。
この垂井警察署 今須警察官駐在所の向かいに、
今須の問屋場跡の建物がある。
(問屋場は物流の拠点として、人や馬の継ぎたてなどを行った。
ここ今須宿では、美濃十六宿のうち、当時のまま現存し、
その威容を今に伝えるのは、ここ山崎家のみです。)と関が原町は述べている。
(垂井警察署今須駐在所)
(問屋場)
その先左側塀の中に常夜灯がある。
(街道が賑わっていた文化五年(1808)のこと、
京都の問屋河内屋が大名の荷物を運ぶ途中、
ここ今須宿付近で紛失し途方にくれて、
金毘羅さんに願をかけ、一心にお祈りをしたら、
幸い荷物は今須宿から出てきて、
そのお礼に建てた常夜灯である。)(関が原町)という。
何が入っていたか判らないが、
当時、荷物を紛失すると問屋業は廃絶、命はなかったに違いない。
常夜灯の一個や二個では済まされない問題であった。
その後中山道は穏やかな日を浴びて、
のどかな道を進んでいく。
(寄進した常夜灯)