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中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

世界文化遺産の毛越寺(もうつうじ)と観自在王院跡(芭蕉の道を歩く 67)

2019年10月19日 07時38分20秒 | 芭蕉の道を歩く
(平泉7)
中尊寺の金色堂・旧覆堂・経蔵をみて、芭蕉像も見て、
月見坂を下り、中尊寺の信号をわたり、
金鶏山の麓を廻って、一関学院の生徒の案内で、
平泉文化遺産センターに到着する。
平泉の文化遺産にまつわる資料の展示がしてある。

女性は十二単衣を試着し、展示してある牛車に乗ることが出来る。
男性も往時の衣装を着用できるが、見学者で試着する人はいなかった。
ずいぶん重そうな衣装に見えた。

見学を終えて外に出ると雨がぱらついており、
文化センターに置いてある傘を生徒が借りてきて、
必要な人に配っていた。
ボクは、天気予報によると「平泉地方は、晴であるが午後3時ごろ、
弱い雨がある」とのことだったので、傘を用意していたが、
時間までぴったり合っている天気予報の正確さに驚いた。

傘を差してしばらく歩くと、アスファルトの道路に水たまりができ、
天気予報の弱い雨の程度を推し量ることが出来た。
そう思った頃に、雨は小降りになり、止んでしまった。

すると、「間もなく毛越寺です。元気を出してください。」
一関学院の生徒さんが勇気づける。
雨は降るし、通算8kmになることは解っていたが、
文化センターでの休憩が疲れを増幅したようだ。

重い足を引きづって松林が見えてきた。
目的地である。

毛越寺を(もうつうじ)とはなかなか読めない。
初めて毛越寺を知ったとき、ボクは(もうえつじ)と読んで居た。
ある時、カナをつけたガイドブックを見て初めて(もうつうじ)と読むのを知った。

中尊寺方面からくると「観自在王院跡」に先に到着する。
しかも入口はないから裏側から入って行く感じだ。
「観自在王院」は二代基衡の妻が建立したと伝えられる寺院でその跡地。
ほぼ完全に残っている浄土庭園の遺構は、
平安時代に書かれた日本最古の庭園書、
「作庭記」の作法どうりで、
極楽浄土を表現した庭園と考えられている。」(岩手県教育委員会)

(観自在王院史跡公園の案内)

(雨上がりで雲の厚い観自在王院庭園)

(観自在王院跡と毛越寺の間にある車宿であった所、牛車が並んだ)


「観自在王院」は、藤原二代基衡の妻が作ったものであるが、
「毛越寺」は、
「二代基衡が造営に着手、三代秀衡の代になって完成した。
往時には堂塔40、禅房500の規模を誇り、
金堂円隆寺は「吾朝無双」と評された。
池は大泉ヶ池と呼ばれ、平安時代の優美な作庭造園の形を
今にとどめています。」(岩手県教育委員会)

すべての建物は焼失したが、浄土庭園と南大門などの伽藍遺構はほぼ残されている。

(毛越寺入口)

(毛越寺の本堂)

(毛越寺の大泉ヶ池、奥に見える白い棒杭が塔堂のあった場所)

(毛越寺の大泉ヶ池2)

(南大門から見た池)

(塔堂の跡)

(塔堂の跡2)


大泉ヶ池に流れ込む「鑓水(やりみず)」の遺構は、往時のまま発掘された。
「鑓水」については説明板をご覧ください。

(鑓水の説明板)

(鑓水)


説明板によると、「鑓水」は「曲水の宴」(*)の舞台になるとあるが、
清らかな水の流れを利用し、流れてくる盃で酒を飲み、
流れてくるまでの間に一首歌を詠み、盃を流す遊びの場となった。

(「曲水の宴の図」ネットより)


(*)「曲水の宴」(きょくすいのうたげ(えん)、ごくすいのうたげ(えん))とは、
水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、
流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、
別堂でその詩歌を披講するという行事である。(Wikipediaより)

毛越寺を出る前に、毛越寺の紹介でよく見る写真「大泉ヶ池の立石」をご覧ください。



おわりに、熱心に観光して、沢山質問をしたせいか、岩手TVのインタービュー受けたが、
実際に放映されたかどうかは解らない。

最後に、
一関学院高校郷土史文化研究会の顧問の先生から挨拶があり、
修了式があった。
お礼代わりに、
「学生生活はこれだけじゃあないから、しっかり勉強もしなさいよ」
と言って別れてきました。


とても楽しい一日が終わった。


(挨拶をする、クラブ顧問)

(生徒達1)

(生徒達2)


・気高さに 心洗われ 百舌鳥が鳴き    hide-san


世界遺産:中尊寺と金色堂(芭蕉の道を歩く 66)

2019年10月16日 07時36分07秒 | 芭蕉の道を歩く
(杉木立の月見坂)


(平泉 6)
月見坂をさらに進むと右手の石段の上に中尊寺の山門がある。

平泉には二度目の訪問であるが、前回は観光バスでやってきて、
記憶に残るのは金色堂だけである。
平泉に来たのに中尊寺そのものが全く記憶にない。
まして本堂がどんな形であったのか、仏像はどんなだったかも覚えていない。

前回訪ねた時には、中尊寺そのものが無かったのではないだろうか、と思えるほどだ。

(中尊寺山門)

(中尊寺本堂)

(本堂入口の参拝客)

(本堂の金色の仏像)


本堂に上がって仏像を眺める。金ぴかの坐像である。
仏像がどんな印を結ぶのか、その印がどんな意味を持つかよく知らないが、
確かに見たことのない印の形をしている。
仏像の右手は手の平を前に向けて胸の高さに有り、
左手は甲を前に向けて、二本の指(親指と人差し指)を上に向けている。

中尊寺は、最澄を祖とする天台宗と言うから、密教で、
寺格は別格大寺、天台宗大本山である。

仏経なのになぜ密教と言うのか、以前 疑問を持ったことがある。
お釈迦様が涅槃に入り、真理の中で楽しんだ時の教えだから、
つまり死後の世界を漂うなかでの教えと言うから、
誰にも分らない秘密の教えー密教と言う仏教らしい。

物語で言えば「西遊記」であるが、玄奘三蔵法師がインドから中国に帰国後、
翻訳した聖典ーお経は極楽浄土へ行く方法を記したものーで、
実に八万五千通りあると言う。

韓国を旅行した時「海印寺」で、八万大蔵経の版木が八万枚残されていた。
しかもこの経典が戦火で無くなっても、つまり浄土への道のりの教えが無くても、
極楽往生できるのが禅宗で、努力に努力を重ね修行に修業を重ね、
自らその道を会得する教義を持つ教えをお釈迦様は残された。
それが禅宗で、これが武士の世界に共感を呼び広まったらしい。

話がそれてしまったから、戻そう。
平泉は、奥州藤原氏が密教の教えに従って想い画いた、
仏国土(極楽浄土)を現わす建造物と庭園群により、世界遺産に登録されることになった。

中尊寺の仏像は、その浄土を説き指し示しているのではないだろうか。
金色堂が示すように、
この世にない黄金の輝きの中に浄土を探し求めたように思える。

さらに進むと、金色堂、経蔵、旧覆堂に着く。

芭蕉は、
兼ねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、
光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、
珠の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、
すでに頽廃空虚の叢(くさむら)と成るべきを、四面新に囲みて、
甍を覆ひて風雨を凌ぐ。
暫時(しばらく)千載の記念(かたみ)とはなれり。

・五月雨の 降りのこしてや 光堂
」と述べている。

(金色堂の案内)

(金色堂への道)

(「七宝散りうせて」の七宝を散りばめた柱(東北歴史博物館のレプリカより)

芭蕉が尋ねた時は、すでに四面を囲み覆堂が出来ていた。
現在の覆堂はコンクリート製であるが、旧覆堂も残っている。
芭蕉が言う二堂開帳すの二堂は、覆堂内の金色堂と経蔵のことだ。
光堂には「三代の棺を納め」とあるのは、
初代清衡、二代基衡、三代秀衡の三人の遺体を指しているが、
義経を自害させ、頼朝に討たれた泰衡の首級が納められており、
今では、親子四代のご遺体が納められていることが判っている。

(撮影できない金色堂ネットから)

(撮影できない金色堂内陣ネットから)


芭蕉が言う「経堂は三将の像を残し」と言っているが、これは現在の経蔵のことではないようで、
金鶏山のことを言っているようだ。(奥の細道菅菰抄より)

*「奥の細道菅菰抄」は別名 高橋利一著の解説書で、
芭蕉の100年後に著わされた、第一級の解説書と言われている。

(経蔵)


(芭蕉が見た旧覆堂)

(芭蕉像と「奥の細道」文学碑)


・秋風の 祈りにほほ笑む 仏さま  hide-san

武蔵坊弁慶(芭蕉の道を歩く 65)

2019年10月14日 07時32分49秒 | 芭蕉の道を歩く
(関山中尊寺入口)


(平泉 5)
(中尊寺)信号を渡った右手は「関山中尊寺」の石柱がみえ、
月見坂が奥に続いている。

(中尊寺)の信号左手に、古い松の生えた一画があり、ここが弁慶の墓である。
弁慶の墓には立派な墓碑があり、墓は竹垣に囲まれ一段高くなっている。
そこに松が植えられ、五輪の塔と句碑が建っている。

義経の居城高館が焼打ちされるや、弁慶は寄せ来る敵の前に立ち、
(この先に進むことならず)と長刀を立てて立ちふさがった。
最後まで主君を守り、ついに衣川の古戦場で立往生したと言う。
遺骸をこの地に葬り五輪の塔を建て、
後世、中尊寺の僧 素鳥の詠んだ句碑が建てられた。

句碑に

・色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊

とある。

(弁慶の墓の案内)

(武蔵坊弁慶の墓の碑)

(松の木と五輪の塔と句碑)

(武蔵坊の「武」がかろうじて読める句碑)


ボクより若いハイキング参加者は、月見坂をどんどん先へ行く。
一番最後を遅れながら、喘ぎ喘ぎ月見坂を登って振り返って見ると、
月見坂は大杉に囲まれた美しい坂道であった。

(古杉に囲まれた美しい月見坂)


左手に弁慶堂がある。右手を「東物見台」と言い、
眼下に衣川があり北上川に合流している。
ここが衣川の古戦場であり、弁慶立往生の地とも言われる。
しかし伝説では義経とともに大陸に渡り、暴れまわっていたとも言う。
「東物見台」左手に西行法師の歌碑がある。

・ききもせず 束稲やまのさくら花
         よし野のほかの かかるべしとは

とあるようだ。(読めなかったので)

(衣川の古戦場。右手に見える橋の下を流れる衣川、手前の陸橋は東北新幹線)

(右手に束稲山が見える古戦場)

(西行法師の歌碑)

(弁慶堂)

(立ち往生した弁慶を演じる一関学院の高校生)


その弁慶堂の先の右手に地蔵堂が見える。
地蔵堂に入る手前の右手に、臼田亜浪の句碑、

・夢の世の 春は寒かり 啼け閑古  亜浪

とあり、その先に、もう一つの西行法師の歌碑がある。
始めに説明文があり、続いて和歌がある。

「みちのくにに 平泉にむかひて 束稲と申す山の
はべるに はなの咲きたるを 見てよめる。

・ききもせず 束稲やまの さくら花
   よし野のほかに かかるべしとは」


とある。

奥州藤原氏が栄えた時代には、この束稲山には一万本の桜が植えられていたという。
平安時代の歌人西行法師が平泉を訪れた際にその桜を見て、
詠んだ歌碑が建てられている。

奥州藤原氏がよし野を偲んで桜を植えたものと思われる。

(地蔵堂)

(地蔵堂へ入るまでの右手に臼田亜浪の句碑)

(「夢の世の・・」の句)

(説明文と並んである西行の歌碑)


・秋空の ガイドに聞き入る 弁慶堂   hide-san

高館義経堂(芭蕉の道を歩く 64)

2019年10月12日 07時00分46秒 | 芭蕉の道を歩く
(平泉4)
芭蕉は、各地を歌を詠みながら歩いた西行法師を慕い、
和歌に詠まれた歌枕(名所旧跡)を訪ね、
悲劇の武将 義経を慕って歩いている。
ここ平泉は、壇ノ浦やヒヨドリ越えの戦で名を馳せた義経の最期の場所である。

奥州の藤原秀衡が造った無量光院跡を見学して北上し、
義経終焉の地「高館義経堂」を訪ねている。

芭蕉は「奥の細道」で次のように記している。

「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。
秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。
先ず高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。
衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。
(中略)
さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、
笠打ち敷きて、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。

・夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

・卯の花に 兼房みゆる 白毛(しらが)かな  曽良」


(芭蕉句碑:上部に俳句、下部に「奥の細道」の一節が載る)

(「夏草や・・」の芭蕉句碑)


高舘義経堂横に義経主従の供養塔がある。
兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた義経は、
藤原氏三代 秀衡に庇護されていましたが、
文治五年四月三十日、頼朝の圧力に耐えかねた秀衡の子・泰衡の急襲に遭い、
この地で妻子とともに自害したと伝えられている。
天和三年(1683)仙台藩主 伊達綱村が義経を偲んで建てたのが義経堂です。

(高館義経堂入口の階段、この上にもう一つ階段がある)

(義経堂までのもう一つの階段)

(義経堂)


運命に翻弄され、この地で31歳の短い人生を終えた義経と、
その義経を信じて戦い抜いた弁慶、それぞれの生涯に思いを馳せ、
昭和61年建立された義経主従供養塔が義経堂の横にある。

(横にある義経主従供養塔)


(高舘展望の図)

(高舘から見る開けた景色:奥に束稲山が見える)

(高舘から見える北上川)


「吾妻鑑」によれば、
(義経は「衣河舘(ころもがわのたち)」に滞在しているところを襲われたとあるが、
今は「判官の館」と呼ばれるこの地が「衣河舘」であったろうか。)とある。

自害の後、義経の首は塩詰めにして鎌倉に送られたと言われているが、
時は夏、平泉から鎌倉に着くまでに、
顔は崩れて義経かどうか判別出来たかどうか解らない。

そのためか、次のような伝説が残るという。
「義経北行き伝説」
(悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、
文治五年(1189)四月、
平泉の高舘において31歳を一期として自刃したが、
短くも華麗だったその生涯を想い
”義経はその一年前にひそかに平泉を脱出し北を目指して旅に出た”
と言う伝説を作り上げた。
世に言う「判官びいき」であろう。

その伝説では
”文治五年、この館で自刃したのは、
義経の影武者【杉目太郎行信】であって、
義経はその一年前に弁慶等を伴い館を出て、
束稲山を越え長い北への旅に出たのであろう”
と伝えられている。(佐々木勝三著「義経は生きていた」)
(岩手県観光協会)
そしてモンゴルに渡り「ジンギスカン」として名を馳せた、
と一関学院の生徒さんの解説であった。

(伝説の看板)


この伝説はただの伝説ではない。
「奥の細道」の第一級の解説書と言われる「おくのほそ道菅菰抄」は、
次のように注釈(筆者の要約)をつけている。少し長いが紹介しておきたい。

「義経追討の事、ある説に言う。

秀衡 病にて将に死なんとするとき、三人の子供に遺言して言うには、

(鎌倉将軍 頼朝の人となりは信用に足りない。
義経を滅ぼし、その上わが所領をも奪おうとする計画を持っているように思う。
けれども、私が存命であるが故に、未だ手を出すことができないでいる。
私が死んだら、必ず義経を討つだろう。
そうなるとお前たちの身にも危険が迫るだろう。
私の死後には、国衡(錦戸太郎)泰衡(伊達次郎)は、
偽って義経の討手となるよう願い出なさい。
忠衡(和泉三郎)は、義経に従って、仮にも討手を防ぎ、
義経、および義経の近臣を皆蝦夷(エゾ)に逃がすように)

と言いつけて、秀衡は死んでしまった。

父親が言った通り、いくらも経たない内に、
鎌倉より義経追討のニュースが聞こえてきた。

秀衡の子供たちは、父の遺命をよく守り、国衡・泰衡は高館を攻め、
忠衡は義経に代わり自殺して焼死し、誰であるか分からなくしてしまった。
また近臣の亀井、片岡、弁慶をも、各人に変えて別人を戦死させ、
義経をこれら近臣者とともに蝦夷へ送ってしまった。
その後、國衡・泰衡も最後には頼朝のためにほろばされた。

義経は中華にわたり列候となり、義行王といった。
(中略)
当時の中華は韃靼人(モンゴル人)の世で、これを清という。
これは義経を祖とする清和源氏の「清」を採り「清(しん)」としている。
今、清朝王の城下の家々には、義経の画像を門柱に貼るという。」とある。

義経の中国大陸への脱出伝説は、この解説書によるところが大きい。
江戸時代の解説書ですから、現代文にするには少々手間取りました。

*「奥の細道菅菰抄(すがこもしょう)」は「奥の細道」の100年後に、
簑笠庵梨一(さりゅうあんりいち)によって書かれたもの。
すぐれた芭蕉研究家で、芭蕉の足跡をほぼ実地に歩き、
奥の細道の解説書を十年かけて完成させた。
和・漢・仏に渡る123部の引用書目を駆使して、
精細で正確な注釈をした。(岩波文庫「おくのほそ道」より)


高館義経堂の階段を下りて、すぐ右折し線路わきを進むと、
「卯の花清水」の石柱と平泉観光協会の説明碑がある。
曽良の読んだ俳句「卯の花・・」の説明碑は見事で紹介しておきたい。

(文治五年うるう四月、高舘落城のとき、主君義経とその妻子の、
悲しい最後を見届け、死力を尽くして奮闘し、
敵将もろとも燃え盛る火炎の中に飛び込んで消え去った
白髪の老臣、兼房、齢六十六。
元禄二年五月、芭蕉が、門人曽良とこの地を訪れ、
「夏草」と「卯の花」の二句を残した。

白く白く卯の花が咲いている、
ああ、老臣兼房奮戦の面影が、ほうふつと目に浮かぶ。
古来、ここに霊水がこんこんと湧き、里人、
いつしか、「卯の花清水」と名付けて愛用してきた。

行きかう旅人よ、この、妙水をくんで、心身を清め、
渇きをいやし、そこ、「卯の花」の句碑の前にたたずんで、
花に涙をそそぎ、しばし興亡夢の跡をしのぼう。
昭和五十年卯月三十日 平泉町観光協会建之)とある。

(卯の花清水)

(卯の花清水の説明碑)


義経堂を出て、東北本線のレールに沿って進み踏切を渡ると、
(中尊寺)の信号に出る。
その信号脇に「弁慶の墓」がある。

(中尊寺の信号)

無量光院跡(世界文化遺産)(芭蕉の道を歩く 63)

2019年10月09日 07時22分10秒 | 芭蕉の道を歩く
(平泉3:世界遺産、無量光院跡)
世界文化遺産の無量光院跡は柳之御所史跡公園の西、
田んぼの中を抜けて出た所にある。

そもそも世界文化遺産に登録されたのは、
平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群で、
無量光院跡、金鶏山、金色堂・覆堂・経蔵を含む中尊寺、
毛越寺、観自在王院跡、である。

「藤原秀衡が、宇治の平等院の鳳凰堂ににならい建立した寺院跡で、
遺跡のほとんどが水田化し、池跡、中島、礎石のみが残っている。
南北に長い伽藍の中心線には東門・中島・本堂を貫いて、
その先の金鶏山と直線で結ばれます。
春秋の年二回、その稜線上本堂の後ろの金鶏山の頂上に朝日が昇り、
逆に、本堂前面には、夕刻となると日輪が下がり、
一日で一番荘厳な落日の一瞬が観られます。
平等院とは違った、極楽浄土を体感できるよう計算された空間である。」
(岩手県教育委員会)

現在も発掘調査が進められており、
将来は池を中心に修復整備される予定だそうです。

(想像される無量光院)


池の向こうに、今も発掘調査中の人が見え、
美しい松林の背景に、
これまた世界遺産に登録された金鶏山が美しさを引き立てています。

「金鶏山は奥州藤原氏によって山頂に大規模な経塚が営まれた信仰の山で、
中尊寺と毛越寺のほぼ中間地点にあり、
平泉を守るため雌雄一対の黄金の鶏を埋めたと言われて、金鶏山と呼ばれる。」
(岩手県教育委員会)

松尾芭蕉も「金鶏山のみ形を残す」と、
平泉には金鶏山だけが形を残していると、
その印象を「奥の細道」に記しています。

(無量光院の池)

(無量光院の池2)

(松の間に見える小山が世界遺産の金鶏山)


松尾芭蕉は、悲劇の武将 源義経を慕っており、次に「高館義経堂」を訪ねています。


藤原氏三代の居館址:伽羅之御所跡と柳之御所史跡公園(芭蕉の道を歩く 62)

2019年10月07日 11時21分18秒 | 芭蕉の道を歩く
(平泉2)(伽羅之御所跡と柳之御所史跡公園)

自虐的に題名をつけたに違いない(奥の細道)ならぬ(芭蕉がたどる義経の道、奥の舗装道)は、
JRの「駅からハイキング」の題名である。

平泉駅に着くと、列車で遅れた人が十数人いて、
駅前には、のぼり旗と一関学院高校のガイド数人が待っていた。

参加手続きを終えて見渡すと、
「弁」の字の白旗を持った「弁慶」に扮した生徒と、
「秀」ののぼり旗を持った「秀衡(ひでひら)」に扮装した生徒がいるではないか。
聞く所によれば、遅れたボク達にはこの「弁慶」と「秀衡」が待っており、
9:15分に集まった人たちには、「義経」と「芭蕉」が同行したという。

(弁慶と)

(秀衡と)


駅を背に最初の路地を右に曲がり、しばらくすると踏切に出る。
踏切を渡ってすぐの場所が「伽羅之御所跡(きゃらのごしょあと)」である。

「奥の細道」で芭蕉は、

「秀衡が跡は田野(でんや)に成りて、金鶏山のみ形を残す」

と記しています。

ここには歴史的建物は残っておらず、
今では民家の生け垣と案内説明板が建っているだけである。

(案内説明板)


一関学院の女子生徒が、緊張のあまりか、たどたどしく説明をする姿が可愛い。

「伽羅の御所は「無量光院」の東門にあたり、秀衡が常の居場所でした。
みなさんは香木の伽羅をご存知でしょうか?
良い香りがする木でこの屋敷は造られていたそうです。
火事にあって今は跡かたもありませんが、
燃えた時は、あたり一面に良い香りがしたということです。」と解説の女子生徒。

藤原氏、「三代の栄耀一睡のうちにして・・・」と芭蕉が書いたように、
ここから北東にかけて、その「三代の栄耀」である藤原氏一門の屋敷があった。
今では「柳之御所史跡公園」として広大な屋敷跡があり、
その屋敷跡には、「吾妻鏡」に記された往時の政庁(平泉館)があった場所と思われている。
当時を思わせる泉水があり、礎石が点々と残され背景には、
京都五山の大文字山よろしく、「大」の字が見える東北の大文字山ー束稲山(たばしねやま)が緑深く黒々とそびえている。

(柳之御所史跡公園)

(柳之御所史跡公園2)

(柳之御所史跡公園3)

(柳之御所史跡公園の礎石が見える)

(柳之御所史跡公園の泉水)

(柳之御所史跡公園背景の束稲山)

(左手に大の字が見える大文字山の束稲山)


見学を終えて、一関学院の生徒が雑談で、
「史跡あとばかりで、建物が無くてピンと来ないでしょう。
説明のし甲斐がありません」と嘆く。

そこでボクは
「皆さんの案内説明があって、聞く観光客は往時に思いをめぐらせ、
頭の中に想像の世界を広げているのです。
気にすることはありません。」と応えた。
「この公園は広いですね。五千坪くらいあるのかしら」と尋ねると、
「五千坪と言うことはないでしょう、もっとありますよ」と返事。

建物はなくとも気にすることはない、広大な敷地があるのだから。

「次は世界遺産の(無量光院跡)へ参ります。」と言う。



平泉(芭蕉の道を歩く 61)

2019年10月05日 17時15分21秒 | 芭蕉の道を歩く
(一関学院高等学校 郷土史文化研究会の案内で歩く)

(平泉 1)
平泉へ行ってきました。
芭蕉が歩いた奥の細道は、東京深川―埼玉ー栃木ー福島ー宮城ー岩手と続きます。
福島まで進んで、その後、夏の暑さにかまけていました。
やっと涼しくなり、
宮城岩手方面に手ごろなツアーがないかと、探していたところ、
ありました。JR東日本の「駅からハイキング」に、

(一関学院高等学校 郷土史文化研究会企画)の芭蕉がたどる奥の舗装道)
奥の細道ならぬ奥の(ほそうみち)を高校生の案内で歩く企画。

ボクには打ってつけの企画だ。
くずるカミさんを連れて行くことにした。

そそっかしいボクのこと、何も見ずに申し込んでしまった。
申し込んでから気が付いたが、集合時間は平泉駅 朝8:45~9:15分。
東京の板橋から乗り物はどうする?

早速、時刻表を調べたら東北新幹線は、平泉駅には行かないことが分かった。
一ノ関駅で乗り換え、平泉に到着する。

(平泉駅)


午前9:15分までに平泉駅集合となると、

(東京駅発6:04発やまびこ号→一ノ関駅8:36着、
一ノ関駅発9:00→平泉駅9:09着)

集合時間に間に合うギリギリセーフの時間だ。
東京駅に六時前に到着するには、地下鉄の一番電車5:08発しかない。
そのように計画した。

考えると西村京太郎の推理小説のような計画であった。

所が当日、朝4時起きのはずが、30分遅れてしまい東京駅には間に合わず、
急きょ大宮駅で計画と同じやまびこに乗るよう変更した。
東京から大宮に列車は6:30分に到着するからだ。

埼京線下り5:24分発の電車で大宮に到着、
余裕でやまびこを待った。

所がなんと、列車は、工事車両の故障で30分遅れになるという。
当然、一ノ関駅に30分遅れで到着するし、
一時間に一本しかない一ノ関駅から平泉駅に行く電車に乗り換えることが出来ない。
(一ノ関駅)

(平泉駅方面行の臨時電車)


仕方がない、高校生のガイドはなくても、地図さえあれば一人で歩くことはできる。
一ノ関駅に到着したら、改札口の駅員さんが、
「平泉方面行きの臨時列車を9:42分に出すことにしていますから、
その便をご利用ください。」という。

平泉駅には行くことが出来るが、
JRの「駅からハイキング」には予約がしてあるから、
事情を話して「時間に間に合わない」連絡をしようと、
駅員さんに平泉駅の電話番号を聞いて電話すると、

平泉では、

「新幹線の遅れは承知していますので、
係りの人を待たせておきます」との返事。

思わぬハプニングに一関学院高校郷土史文化研究会の面々に迷惑をかけることになったが、
ありがたい対応であった。

(駅からハイキングの面々)


はらはらどきどきの平泉観光のスタートです。



石巻(いしのまき)(芭蕉の道を歩く 60)

2017年06月29日 16時35分36秒 | 芭蕉の道を歩く
(仙石線 石巻駅行きホーム)


おくのほそ道【24】石巻の項で、芭蕉は

(十二日、平和泉(ひらいずみ)と心ざし、
あねはの松・緒だえの橋など聞き伝えて、
人跡稀に雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の往(ゆ)きかふ道そこともわかず、
終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出(いづ)。
――中略――
海上を見わたし、数百の廻船入り江につどい、
人家地をあらそひて、竈の烟立ちつづけたり。)

と綴っている。

次は、ボクの勝手な現代語訳です。
(平泉を目指して、姉歯の松・おだえの橋(共に地名で歌枕)など伝え聞いて、
人跡まれな木こりや猟人しか通らないような道かも知れず、
とうとう道を間違えたらしく、石巻と言う港に出た。
――中略――
海上を見渡すと、数百の廻船が入り江に集まり、
人家は密集して、竈の煙が立ち込めて、活気のある所だ。)


朝早く東京から「はやぶさ3号」に乗って、仙台で仙石線に乗り換え、
石巻駅に着いたのが午前10時半ごろ。
石巻は、漫画家 石ノ森章太郎の出身地で駅にアニメのキャラクターが待ち受ける。

(石巻駅のキャラクター)


石巻で芭蕉は町の様子を一望にしているが、
その場所が日和山だと言うことが解っている。
しかし、日和山まで、駅からどれほどの距離があって、
歩いて行けそうかどうか解らない。
そこで駅前の交番に寄って聞くことにした。

お巡りさん「およそ2km位ですから、歩いて行けなくもないですが・・・・。」
とボクを見ながら口ごもる。
「何か、不都合でも?」と聞くと、かなりな登り道らしい。
お礼を言って、駅前の客待ちのタクシーに乗ることにした。

タクシーの運転手さんの話では、
日和山近くに石巻高等学校があって、
毎日住吉公園までランニングさせられた。
そのコースはかなりな坂道を走るので、
どうやってサボるか考えて実行したらしい。
タクシーは登りのその坂道を走って高校の前を通ったが、
校舎の前に、「東京大学現役合格」の垂れ幕が下がっていた。
優秀な進学校で運転手さんは卒業生だと言う。

下り坂になると確かにジェットコースター並みの坂であった。
日和山公園で待ってもらって、ボクは降りる。
正面に鳥居があって、その先は海で、なるほど芭蕉が見たら、
商売の船が何艘も係留できそうである。

(鳥居と背後の河口と空き地)

(北上川河口と津波で家が無くなった空き地)


神社左横、やや下った所に、芭蕉と曽良の像が置かれている。

(芭蕉と曽良の像1)

(芭蕉と曽良の像2)

(芭蕉と曽良の像3)


3・11の東北大地震の大津波で、海辺の町はまだほとんど更地の状態であった。
もう6年も経つのに、まだまだ復興にはほど遠い。

鳥居の後ろには当然神社がある。
鹿島御児神社と言うが、社殿との間の老樹の下に句碑がある。

(芭蕉句碑)

句碑には、
      雲折々 
芭蕉翁   人を休める
         月見かな


とあるようだが古くてか、潮風で風化してか読み取れない。
石巻教育委員会の説明によれば、
(月見をしていると、見とれてしまい、我を忘れるが、
 時々月が雲に隠れたときに一息つくことが出来る。)と言う意らしい。

(二の鳥居と鹿島御児神社)

(本殿)


神社右横に行くと、神社裏側の景色が一望できる。
石ノ森章太郎の漫画館が川の中州に白いドーム状の建物で目立つ。
その他の建物はほとんどが津波で流されて更地になっている。
ここ日和山は海抜17メートルあるが、押し寄せた津波は7メートル、
漫画館のある橋を優に超えて、船が道路に浮かんでいる状態であった、
とはタクシーの運転手さんの話である。

芭蕉は、「おくのほそ道」の石巻の項で、
冒頭の文章の続きを、次のように表現している。
「思ひかけず斯かる所に来れるかなと、
宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(ようよう)まどしき小家に
一夜をあかして、明(あく)れば又しらぬ道まよい行(ゆく)。
袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて、
遥かなる堤を行く。――以下省略」


(神社裏手の石巻の景色)

(石ノ森漫画館後ろの橋を右に渡った緑深い山)


白いドーム状の漫画館の裏手の橋を右に眼を移す、
つまり橋の東側に緑豊かな山が連なっているのが見えるが、
ここは「牧山市民の森」で、
芭蕉が「おぶちの牧」と述べている所である。
さらに右奥に(石巻市の東北に)写真では見えないが、
「まのの萱(かや)はら」がある。

また、ここにある「袖のわたり」は北上川の石ノ森漫画館の北側にあり、
そこには大嶋神社(住吉社)があり、現在は住吉公園となって居る。

(大嶋神社)

(大嶋神社の鐘楼)


神社なのに鐘楼があるのは何故(?)と誰も思うが、
江戸時代 この神社の境内に、寿福寺というお寺があり,
鐘はその寿福寺のものであった。
鐘の重みでか、どうか解りませんが、鐘楼は津波で流されることなく、
そのまま残ったようです。

鐘楼の前、川の中に「袖の渡し」があります。
以前は、常緑の松に囲まれ東屋があった渡し場が、
津波で松も東屋も流され、枯れた松が残るばかりです。

北上川を渡るには、昔は渡し舟に頼らざるを得ず、
源頼朝に追われた義経主従が、藤原氏を訪ねて平泉へ向かう途中、
ここの渡しを利用した。
船賃が払えず、やむなく袖をちぎって船代とした話が、
伝説として残って居り、
それで「袖の渡し」と名付けられたようだ。
それが碑になって残されている。

(袖の渡しへの橋)

(名跡 「袖の渡」の碑)

(碑のいわれ)

(道標)


道標には、石巻街道、金花山道、一関街道となっている。
説明板によれば、
(石巻街道は、仙台城下と石巻を結ぶ道で、
この街道から北部への道として、
涌谷・登米道、気仙道が別れていました。
金花山道は、石巻から山鳥に至る道で、
金華山への参詣の道として利用されました。
一関道は、石巻から登米を経て一関(岩手県)に至り、
奥州街道と接続する道でした。)とある。

さて、「袖の渡し」の先端の松の木の下、
川の中に「石の巻き石」が見えます。
石巻市の説明に詳しく記されています。

仙台藩が編纂した封内風土記(ほうないふどき)の内容を要約しますと、

「古来伝えられた説によれば、地元の人が(石巻石)と呼ぶ巨石が、
住吉社の前にあり、形が烏帽子に見える。
その石の周りに水の渦が回って自然の紋ができ、
物を巻いたように見えるところから
「石旋/イシノマキ」と呼ばれるようになり、
そこから地名が生まれた――。」と言う。

(地名の由来となった巻き石)


津波で枯れた松の横、川の中に見える石が、地名の由来となった巻き石です。

みさぶらひみかさ(芭蕉の道を歩く 59)

2017年06月28日 20時35分02秒 | 芭蕉の道を歩く
芭蕉は、仙台に入って榴岡天満宮をお詣りした後、

おくのほそ道で、
「名取川を渡て、仙台に入る。あやめふく日也。
――中略――
日影ももらぬ松の林に入て、茲(ここ)を木の下と云うとぞ。
昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。
薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝みて、その日は暮れぬ。」
とある。

これを例によってボクの勝手な現代語訳では、
(陸奥国分寺跡は、仙台市若葉区木の下と言う所にあって、
陽の光も通らぬほど松の木が茂って、
露が多く垂れて、雨のように濡れるから、
これを昔の人は「みさぶらひみかさ」と詠んだのだ。
薬師堂・天神の社殿などを拝んで、その日は終わった。)となる。

「みさぶらひみかさ」の出典は、古今和歌集の和歌にある、

・みさぶらひ 御笠(みかさ)と申せ 宮城野の
              木の下露は 雨にまされり

から採ったものだ。

「みさぶらひみかさ」とは何だろうと疑問を持った。
解説を見ると、漢字で書くと理解しやすい、
つまり「御侍(みさぶらひ) 御笠(みかさ)」と書く、
「お侍、笠を」と言うことなのだ。

この当時の貴人のお供はお侍であったようで、
ボクの勝手な現代語訳では、
(宮城野の木の下の露は雨よりも多いから、
お供のお侍さんよ、主人にお笠をお召くださいと言ってください。)となる。

さて木の下であるが、仙台市の地名であると同時に、
深い松林であったようで、現在も松林ではないものの、
ケヤキなどの鬱蒼とした木の下を歩いて行くと言う意味にもとれる。

その林の入り口に「史跡 陸奥国分寺跡」の石碑が見えた。

(陸奥国分寺跡の碑)

(木が重なり合って深い林)

(深い林の向こうに見える薬師堂)

(木の下に咲くあやめも)


陸奥国分寺は、
(正式には金光明四天王護国寺といい、天平13年(741)、
聖武天皇の発願により全国に建立された国分寺の一つで、
最北に位置しています。
その後、藤原秀衡によって堂宇僧坊の修復が行われましたが、
文治5年(1189)源頼朝の奥州侵攻の際に兵火で焼失しました。
これを伊達家が薬師堂などを建てて再興しました。
国分寺跡は、発掘調査で礎石のありさまから金堂を中心に福廊式回廊が巡らされ、
中門・南大門・講堂・鐘楼・経蔵・食堂などがあったと判っており、
その規模は奈良の東大寺と同規模であったと推定されています。)とある。

薬師堂は、国分寺金堂跡に慶長11年(1606)、
伊達政宗によって再建された。
厨子内には薬師如来像が安置されているようだ。

また薬師堂鐘楼の周りには、礎石が数多く観られ、
国分寺が大伽藍であったことが窺がえます。

その礎石を辿って行くと、薬師堂仁王門があり、
茅葺で江戸時代の建築様式が見られ、中の仁王様がにらみを利かせていた。

(薬師堂1)

(薬師堂2)

(薬師堂鐘楼)

(礎石が沢山観られる1)

(礎石が沢山観られる2)

(礎石が沢山観られる3)

(仁王門)

(仁王門の扁額)

(仁王門の阿形の仁王様)

(吽形の仁王様)

(仁王門前の国分薬師如来の石柱)

(仁王門から見た薬師堂)


さて、芭蕉の足跡は、この薬師堂の西側にある準胝観音堂の参道にある。
仁王門から左へ目をやると、準胝観音堂は林の中に朱塗りの姿を見せている。


(準胝観音堂は林の中に朱塗りの姿)

(準胝観音堂)

(準胝観音堂の参道脇に見える芭蕉句碑)

(芭蕉句碑)


参道にある芭蕉句碑には、

・あやめ草足に   芭蕉翁
    結ばん艸 鞋の緒


(・あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒 芭蕉翁)

と刻まれている。
おくのほそ道に、「あやめふく日也」と書きこんでいるが、
この俳句のの伏線であったと考えるのは考えすぎであろうか・・・・。

碑陰には句碑建立の由来が書かれているらしいが、
ボクには読むことが出来なかった。

ただ、最後の一行に

・暮れかねて 鴉啼くなり 冬木立

とかろうじて読める程度であった。

(芭蕉句碑の裏面)


準胝観音堂の裏側に回ると、各種石造が立って居り、
中に延命地蔵さんがあった。

(延命地蔵尊など石造物1)

(延命地蔵尊など石造物2)


これら石造物も芭蕉が訪ねた頃より、何百年と風雨の中にある。



榴ヶ岡天満宮(芭蕉の道を歩く 58)

2017年06月17日 21時02分52秒 | 芭蕉の道を歩く
宮城野の項で「おくのほそ道」には、

「名取川を渡って仙台に入る。あやめふく日也。
(中略)
宮城野の萩茂りあひて、秋の気色(けしき)思ひやらるる。
玉田・よこ野、つつじが岡はあせび咲くころ也。」
とある。

稚拙なボクの現代訳では、
(芭蕉は、名取川を越えて仙台に入る。季節は菖蒲(あやめ)咲くころである。
(中略)
 宮城野(仙台)の秋は重なりあって茂る萩が花を付ける。
 その様子が目に浮かぶ。
 玉田・よこ野、つつじが岡はあせびが咲く時期である)
このようになる。間違っていたらご勘弁を。
 

JR仙台駅から仙石線に乗り一(ひと)駅 榴岡(つつじがおか)駅で降りる。
地上出口から右を見ると、「榴岡天満宮」へ左矢印の大きな看板がある。
道路反対側のマンション入り口には黄色のワンちゃんのオブジェがある。

矢印通り左へイチョウ並木を少し進むと右手に「榴岡天満宮」の階段がある。
階段両脇に阿吽の獅子があるからすぐ分かる。

(「榴岡天満宮」の矢印の看板)

(マンションのワンちゃんのオブジェ)

(イチョウ並木)

(「榴岡天満宮」の階段と獅子)


案内によれば、
(榴岡天満宮は、平安時代山城の国(現:京都)に創建、
平将春により陸奥の国宇田郡(現在の福島県)に勧請された。
その後小田原(現:仙台市青葉区)への御遷座を経て、
寛文7年(1667)7月三代藩主伊達綱宗公の意思により、
四代藩主綱村港によりここ榴ヶ岡に遷され、朱塗りの社殿唐門を新たに造営、
菅原道真公の直筆の所が奉納された。――中略――
境内には市指定文化財の芭蕉句碑があり、唐門は市登録文化財になっている。)

(階段上の鳥居)

(天満宮全貌)

(文化財の唐門)


天神様に御参りをして、境内を眺める。
境内の周りに、沢山の句碑や歌碑が並んでいる。
拝殿を背にして、左の方に木の葉に隠れるように芭蕉句碑がある。
句碑には芭蕉翁と蓮二翁の二人の句が並んでいる。

(神社の周りにある句碑など)

(文化財の芭蕉句碑)

(句碑の説明板)


芭蕉の句碑の上部には、
芭蕉翁と蓮二翁と並んで、名前が大きな字で刻んであり、
それぞれの名前の下に、
小さな文字でそれぞれの句が刻まれている。

芭蕉翁:あかあかと
     日はつれなくも
          秋の風 (*)      
蓮二翁:十三夜の
     月見やそらに
         かへり花
と刻まれていた。

(*)この句はおくのほそ道の金沢で詠まれたもので、
  初秋の夕陽は、秋になったのも知らぬように照りつけ、
  残暑は一向に衰えを見せないが
  さすがに秋風には涼しさが感じられる。
  (萩原恭男校注:岩波文庫より)
   
(句が刻まれた碑)


蓮二とは俳号で、各務支孝と言い、
美濃の国山県郡(岐阜市)出身。
芭蕉の高弟、蕉門十哲の一人。

この句碑の反対側に、神社の周りに並ぶ句碑。
その中に、大島寥太、遠藤曰人(わつじん)の句碑もある。

・五月雨や ある夜ひそかに 松の月(寥太)
・道ばかり 歩いてもどる 枯野かな(曰人)

(神社の周りに並ぶ句碑)

(大島寥太の句碑)

(遠藤曰人の句碑)


榴岡天満宮の拝殿で、御参りをした後右手に進むと、
榴岡公園にでる。

(公園)


緑の多いこの公園の奥まった所に仙台市歴史民俗資料館がある。
この資料館は、旧第四連隊兵舎で仙台市の文化財に指定されている。

(榴岡公園と奥に見える資料館)

(歴史民俗資料館1)

(歴史民俗資料館2)

(旧第四連隊兵舎の説明板)

(歴史民俗資料館の裏側)


広い榴岡公園内では、ダンスサークルの一団が練習に励んでおり、
ジョギングを楽しむ人たちに何人にも出会った。

最高気温22℃、快晴でさわやかな一日である。
この後、芭蕉が歩いたように陸奥国分寺跡へ向かう。
(榴岡公園の石造)

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