宗谷岬 / 千葉紘子
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス咲いて カモメも啼いて
遥か沖ゆく 外国船の
煙もうれし 宗谷の岬
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
吹雪が晴れて しばれがゆるみ
渚も貝も 眠りが覚めた
人の心の 扉を開き 海
鳴りひびく 宗谷の岬
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
しあわせ求め さい果ての地に
それぞれ人は 明日を祈る
波もピリカの 子守のように
思い出残る 宗谷の岬
流氷とけて 春風吹いて
思い出残る 宗谷の岬
ハマナス咲いて カモメも啼いて
遥か沖ゆく 外国船の
煙もうれし 宗谷の岬
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
吹雪が晴れて しばれがゆるみ
渚も貝も 眠りが覚めた
人の心の 扉を開き 海
鳴りひびく 宗谷の岬
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
しあわせ求め さい果ての地に
それぞれ人は 明日を祈る
波もピリカの 子守のように
思い出残る 宗谷の岬
流氷とけて 春風吹いて
思い出残る 宗谷の岬
宗谷岬に特別の思い入れがあった船村徹さん、何度か現地に足を運んでイメージ作りをして、それを曲に表したのがこの曲「宗谷岬」。
昭和49年(1974)、稚内在住の作詞家・吉田弘氏がこれに歌詞をつけました。
彼は、歌にありがちな嘘はいっさい排除し、地元の人たちに長く愛唱されるような歌を、と考えて作詞したといいます。
その結果、哀調を帯びた船村演歌とはまったく違う、春風のように暖かく伸びやかなフォークソングができあがりました。
同年、千葉紘子さんが吹き込みましたが、一般には広まらず、ほとんど地元だけで歌われていたそうです。
ところが、昭和51年(1976)、NHK旭川放送局のスタッフが宗谷に取材に行った折、この歌を発掘、同年4月、ダ・カーポの歌で「みんなのうた」の1曲として放送され、全国に知られるようになりました。
昭和49年(1974)、稚内在住の作詞家・吉田弘氏がこれに歌詞をつけました。
彼は、歌にありがちな嘘はいっさい排除し、地元の人たちに長く愛唱されるような歌を、と考えて作詞したといいます。
その結果、哀調を帯びた船村演歌とはまったく違う、春風のように暖かく伸びやかなフォークソングができあがりました。
同年、千葉紘子さんが吹き込みましたが、一般には広まらず、ほとんど地元だけで歌われていたそうです。
ところが、昭和51年(1976)、NHK旭川放送局のスタッフが宗谷に取材に行った折、この歌を発掘、同年4月、ダ・カーポの歌で「みんなのうた」の1曲として放送され、全国に知られるようになりました。
宗谷岬 / ダ・カーポ
宗谷岬は日本の実効支配が及んでいるうちでは最北端の地ということで、もともと旅行客の多い場所でしたが、この歌のヒットにより、訪問者が激増したと言われています。
ちなみに、3番のピリカですが、これはアイヌ語で「美しい」の意味です。
ちなみに、3番のピリカですが、これはアイヌ語で「美しい」の意味です。