6/5
田辺聖子さんはすごい。カモカのおっちゃんもすごいのだが、おせいさんがいないとスゴサが浮き出ない。絶妙のコンビでふたりして人生の機微を明らかにしてくれる。エッセィのどの一編も説得力がありすごいから、少しは頭のなかに残るといいのだが、とんと残らない。文章が上手すぎて、よく熟れた女性のポチャポチャした二の腕のようで引っ掛かりがない。おせいさんが悪いのではなくて、読者であるわたしの頭が悪いのであろう。エッセイセレクション2の冒頭に『やりにくい女房』というのがある。読んでいるはずだから、あらすじはどうだったかを思い出そうとしたが出てこなかった。読み直すとやりにくい子供が増えたけれどやりにくい女房も増えたという内容で、それにまつわるエトセトラが書かれているが、そこは本文に譲る。最後でカモカのおっちゃんのつぶやきに毒があっておもしろい。
さて、おせいさんのエッセイは珠玉の作品ばかりだから、文章の手本、ものの見方の手本、人生の手本にできる。小学生や中学生の教科書に取り上げてほしいが、すこしHな部分が入っているので無理かとも思う。しかしこれであきらめるわけにもいかない。高校生だったらその方面では酸いも甘いも噛み分けている(だろう)から披露に及んでも間違いない。おせいさんの感性をじっくり味わってほしいのである。
何がお奨めかというと
・知性が押し付けがましくない
・一昔前の女性の優しさがある
・Hな話をしていてもそれを感じさせない
・後世に残したい日本人の感性が満載である
・ときどき古典の話もしてくれる
数え上げたらきりがない。息をするように句や歌を作る人がいるが息をするように文章を書く人がいるとしたら、それがおせいさんだと思う。思うに人間国宝になってもらっても異存はない。先ほど高校生の教科書の話をしたが、私が薦めるまでもなく、おせいさんが好きだという人がいたら嬉しい。息子夫婦の家におせいさんの本があればわたしはほくそえむだろう。
6/3
久しぶりにジュンク堂にいった。田辺聖子さんのベストエッセイ3、河合隼雄さんの京大での最終講義録、頭の禿げた数学者(西成活裕)が書いた渋滞学的………の三冊が目についた。
今日の『たかじんのそこまで言って委員会』に百田尚樹さんが出てきて出版の大変さを訴えていた。百田さんと言えば『探偵ナイトスクープ』の名プロデューサーであり、『海賊と呼ばれた男~出光佐三』等、ベストセラーを連発させている時の人なのである。その百田さんが、共同出版と言う本制作の話を紹介していた。始めに
・印税は約10%
・流通ルートの高いハードルとして3つあげていた。
(1)取次(2)書店(3)棚
出版社は本を企画し、本が出来上がってから、取次店に持ち込み全国の本屋さんに配ってもらう。売れる本でないと引き受けてくれないのだが、ここが最初の関門。次に屋さんまでたどり着くと、そこではお客さんの動線を意識した場所に陳列される。あまり売れないと、あまり目立たないような場所に移動させられる。やがて棚に並べられるといいが、バックヤードといって、陽の目をみないまま返送されることもある。最後に棚というのは陳列のことで、平積み、面陳等があるらしい。よく売れる本は平積みされるし、平積みされるからよく売れるらしい。そのあとは棚のなかに差し込まれ、背表紙のみがわかるように並べられる。何週間も平積みされる村上春樹の『多崎・・・』等は異例中の異例のようだ。
直木賞をとっても一年後には数千部売れたら恩の字とか、10万部、20万部等は夢のまた夢らしい。
以前から出版界の危機を言われている割りには色々な本が出ていると疑問であったが、共同出版システムが背景にあるらしい。つまり、売れない本を出版するリスクを回避するためにとる方法で、著者と出版社が負担を均等にして、出版社がリスク回避をするらしい。このシステムがどうでもいい本を市場に溢れさせている。体裁のよい自費出版なのである。
わたしなどは平積みは関係なく、作家とか話題本、カテゴリー等で選ぶから百田氏のいう話しとは本質的に違う基準で本を選んでいるのだろう。こういう状況で、本があふれるのは、喜ばしいかというと逆に嘆かわしいといわざるを得ない。いま現在、情報をほしがる読者のほとんどは、社会を成熟させるであろうような先人の英知を求めているとは到底思われないのである。
5/21
寺山修司は1935年生まれで1983年に亡くなっており、47歳の若さであった。50代での死も若いと思うのだから、40代での死はなおさらである。
当時実験演劇集団「天井桟敷」の主催をしており、なにかと話題になることが多かったので、ファンでないわたしでさえ衝撃ではあった。その文学的ルーツが、短歌であることは、歌でも読まない限り関心は薄かった。しかし、言葉を操るその才能は光るものがあるとどういうわけか感じていた。また、書き言葉と話し言葉のギャップについても、印象に残っている。テレビ等に出てくる寺山の東北弁は、書いたものと違うことを言っているような気がして、なにを言っているのか深くは聞こうとしなかった。関西弁の田舎者には東北弁の文化人の言葉が、そのなまりのせいで理解できなかったといえばいいのだろうか。いま寺山といえば歌人として分類するのが手っ取り早い。その寺山の歌集が「青春歌集」として角川文庫から発刊されている。巻末に中井英夫氏が解説を行っているが、それによると、寺山が歌っていたのは、1954年から1970年の16年間だという。その間に刊行されている歌集の発刊は以下のとおりである。
・「われに五月を」1957.1(22)
・「空には本」1958.6(23)
・「血と麦」1962.7(27)
・「田園に死す」1965.8(30)
・「寺山修司全歌集」 1971.1(36)
この最後の「全歌集」で歌のわかれをを宣言した跋文があり、表面上の歌作は終わったようだ。のちに遺歌集として「月蝕空間」という歌集が編集・出版されるが、まだ読んでいない。
5/17
寺山修司は30年ほど前になくなっている。『書を捨てて町に出よう』などを著していて、天井桟敷などの前衛演劇集団と関わりながら時代の寵児として活躍していた。わたしが知った頃には歌人というよりも演劇人として有名だった。寺山の歌人としての力量がどんなものであるかをあまり知らなかったが、言葉を操る人としてずば抜けた才能を持っていた人に違いない。いま短歌に関心を持つにつれ寺山の歌は魅力的だ。ちょっと他の歌人とは違う気がする。どこがどう違うのかを理解して示さないと、わかったことにはならない。今手元に『寺山修司青春歌集』という本がある。五つの歌集からの抜粋と初期歌編を載せてある。まず、いくつかを見ていくことにしよう。
5/15
岸恵子さんの『わりなき恋』を読み始めた。新聞の書評に載っていたのだが、70才の女性と60才の男性の恋がテーマで酸いも甘いもわかっている二人の話である。著者自身をモデルにしているのであろう、国際的、フランス、映画、テレビとの関わりからすると、岸さんそのもののように錯覚してしまいそうだ。新聞のインタビューでもう八十路とのこと、若く見えるからビックリするが、若さだけでなく、色々な面で著者の実像がわかって楽しく読んでいる。