5/10
心の動き………
好きだ、腹がたつ、悲しい、寂しい、清楚だ、可愛らしい、清々しい、猛々しい、生々しい、生命感に溢れている、感謝、残酷、豆々しい
心の動きの表し方………
小川洋子さんが言っていたが、感情を表すことばをそのまま使ったらおしまい。例えばその部屋にあるコーヒーカップとか壁にかかっている絵とかで表現、寂しさを表すとか。
比喩を使うとかイメージ喚起するとかは重要だ。しかし、他の人が換気するイメージまでコントロールするのは難しい。いくつもの文章を重ねて、イメージの誘導が必要だが短歌ではできない。
二つ褒めて一つ貶す………
QC活動なんかで、サークルの活動を講評するとき『三つ褒めて二つ貶す』というように、プラス点とマイナス点をプラスを多めにピックアップする。短歌を読んだら、このスタンスをとって読み込むという作業が必要か。
推敲するときの自問………
・この歌のいい点は何か
・この歌の悪い点は何か
・すんなりイメージが浮かぶか
・分かりにくい点はないか
・要するになにを歌っているか
・写生的か、前衛的か
・寿命は長いか
・視点は今のままでいいか
・上下のバランスはいいか
・正岡子規だったら何というか
・歌集に採録できるか
5/3
「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」この歌は栂尾の明恵上人の歌である。この歌を最初に見たときは大胆で恥ずかしげもなくよくこんな歌が詠えるもんだと感心した。よほど面の皮の厚い人物だと思ったものだ。しかしこの人はすごく真面目で樹の上で座禅修行をし、法然と激しく宗教論争をした。明恵はあまりにも強く超がつくほどの純粋さを持っていたらしい。この性格が法然に対し激しく作用してきたのかもしれない。はたして、彼は同時代人から受容され、いまの我々からも受容されるのか。あかあかの歌が異様であるように明恵という存在も異様だったのではないか。明恵は夢について書き留めている「夢記」というものを書いているのだが、河合隼雄さんがその「夢記」から明恵の夢分析をしている。明恵上人の著作もあるからこの「夢記」や歌を中心に明恵について深く入ってみようか?
4/22
村上春樹さんが先日新刊を出した。異例の予約まで取り、その予約が何十万部になるといういう怪物ぶりを発揮しているとのこと。発売の夜の12時には、長蛇の列を作らせ手に入れた人はその場で読みだす人もあった。村上春樹はやはり化け物のようだ。廃盤になったレコードを復刻させたり、名古屋の鉄チャンカフェに待ち行列を作らせたりするという波及効果がある。最近は出版不況で、百万部を越える本は少ないらしい。直近では、阿川佐和子さんの『聞く力』という本が百万部を越えたらしく、去年だったか、その前だったか、それが唯一の書籍だったという。『聞く力』はわたしの推薦本なので、私としては嬉しいが、その本しかないということは意外であった。そんな中、春樹の著作は世界的に売れるらしく、あっという間に百万部を越すらしい。今回の本のタイトルは『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という。新聞の記事などで、わかっている情報を総合すると、彼は名古屋生まれの36才である。鉄道会社に勤める多崎は高校時代友達4人に突然に絶縁された。ありえないその経験に彼は深く傷つく。色彩を持たないというのは色に関する名前がついた友達を失ったことによるのだろうが、なぜ絶縁されたかを知るために、つくるは過去をたどり、絶縁された友達に逢いにいく。その巡礼で青年が鉄道模型のファンであるとか、今は廃盤になっているLPを聞く場面とかがあり、ハルキストはそれらのあとをたどるらしい。
さて、こんな感じの本だが、新刊は買わないで、文庫にもなるだろうから、それまでの間は本の内容を勝手に類推することを気ままにやってみようと思うがどうだろう。(休憩)
4/21
サワコの朝に吉川晃司さんが出演した。水球が得意なロック歌手ということで、それなりに有名で継続的に活躍している。個人的にはあまり引っ掛かっては来なかったので関心はなかった。どんな人物かも知らなかったが、本日の出演で語っているのを聞いて、なかなかスピリッツと深みのある話をしていた。デビューが17才ということで、若いときのイメージを沈殿させていたのかもしれない。その頃から30年たっているので、年齢から来る重厚さも加わってカッコいい人になっていた。
最近、八重の桜で西郷隆盛役を演じているので役作りのため4~5Kg体重を増やしているらしい。役への取り組みかたはその人を調べてその人になりきることを心がけているという。サワコさんがツッコミをいれてじゃあ吉川さんが考える隆盛像を聞くと、下級武士、流刑者で雨ざらしの檻の中で耐えた強靭な人、国を治すために人も殺すということで、悩んだ人という。へそを曲げるヒトだとも評す。そういう性格的なところをベースに隆盛を普通のヒトとしてとらえようとする視点がいい。西郷さんを苦悩する人ととらえている。わたしにはよくわからないが、なんとなくわかった気になる。あと、歌舞くという言葉を印象的に使っていた。彼に言わせれば歌手で役者をしていることはまさしく歌舞いているのだという。歌舞けるには今の世の中では難しく役者とかロック歌手等の世界だとしている。いままで思いっきり歌舞かせてもらったので、次代には美学として負の遺産を引き継がないようにしたいと考えているようだ。
最後にデビット・ボウイの最新アルバムから人生を振り替える渋い歌声を聞かせて終わった。
4/12
短歌と俳句について書く。最近本屋に行くと棚が2:1の割合で俳句のほうが多い。棚に収まっている本もなんかバラエティに富んでおり、楽しそうだ。援軍である川柳もそれ自体で短歌を圧倒するくらいの勢いである。短歌の応援たるべき狂歌などはほとんど見当たらない。
わたしも右か左かというときに十七文字が短すぎること、季語の制約があることなどがひっかかり、三十一文字を選択した。どっちが優れているというような論議は不毛であるが、どちらも世界に類を見ない文学形式である。どちらも老若男女を問わずかなりの俳人、歌人がいる。考えようによっては隣に住んでいるごく普通のおばちゃんも継続的に句や歌を詠んでいたなら文学者なのである。世界中を探してもこんなに文学者を擁する国は他にないだろう。
しかしこと日本の中では短歌危うし、という状況であり、本屋の俳句の棚の明るさが羨ましいのである。短歌の棚を明るい印象を与えるような棚にする方法はないか、ちょっと考えてみる。
まず短歌には前身の和歌の膨大な蓄積がある、昔の人は決して俳句を詠まなかった、百人一首のようなカルタの娯楽もある、狂歌のなかには世相をうまく歌ったすぐれたものがある、等と利点をあげてみる。たしかに下句の七七を構成する十四文字が何でもハショる時代感覚に合わなくなっているとか、女が強くなり重厚なことが嫌われる風潮になっているとか、とにかく軽快感を損なっているようにも見える。すべてを下句のせいにするのは下句に申し訳ないが、いまさら重厚さの復活や男性の覇権奪還を目論んでも無理である。そこで、いまある軽薄短小なものと短歌をつなぐことにより短歌の棚をあかるく活発になるように工夫することである。
むかし、夏目雅子さんが河童という号で俳句を詠んでいたことがあるが、これはAKBに短歌を詠ますとか、プロデューサーの秋元氏のような人に短歌をPRしてもらうことに通じないか。ネットを使った連歌を、それなりに名の知れた人にやらせるのはどうだろう。イラスト、写真、ビデオなどビジュアル系と絡ませるのはどうだろう。わが師(かってに思い込んでいるのだが)俵万智さんもだいぶお年を召してこられたが、あの『サラダ記念日』的なセンセーションをプロデュースできないかとか、色々と考えてみるがどうなんだろう。いま本屋大賞というのがあるが、店員が売りたいというような短歌本が出てこないとどうにもならないかとも自虐的に考えてみる。