10月4日にオランダから関西空港に着いてそこから遠くないレオパレス21の賃貸しアパートに1か月暮らし11月4日にオランダの家に戻った。 8月の終わりから9月の初めにかけて2週間弱慌ただしく来日していたのだがその後、母の容態が落ち着きそうだったので当初は10月、11月と2か月住むつもりだったものを今回は1か月に短縮した。 容態は5月に比べると驚くほど悪化しているけれど一時は覚悟した9月に比べると少しは落ち着いて、この分ではこれは長期戦になると感じ、来年にも同じようにして戻ってくることになるだろうとも感じている。
親戚の者は3度の眼の手術で麻酔が引き金になりそれによりは母は突然植物人間のようになったと言う。 寝たきりで移動は車椅子、話すことはなく殆ど首を落として居眠り、目を覚ましてこちらを見る眼に力がなくこちらの言うことを首を動かすか指を微かに動かして意思を示すだけだった。 それが今回では眼に微かには力が認められ微かにほほ笑むこともあるのだがそれも毎日のことではない。 食欲がなく介護師がスプーンで根気よくほぼ液状にしたものを口に持っていくもののその味か舌触りからかじきに口を噤む。 医師からは老人性の鬱が顕著であり薬物で鬱を晴らすべく、それによって食欲も徐々に増やす、けれどそれには時間がかかる、との診断を受けている。 月曜と木曜はデイサービスで自分の部屋から1日出るからこの2日は母の下に通わないで他のことをする。 殆どが10時半ごろ介護施設に着き彼女の昼食に付き添い、その後外に出て自分の昼食を済ませ戻り6時前の夕食に付き添い部屋に戻り安楽椅子に坐らせ介護師が母をベッドに8時前に横たえた後帰宅するという1か月だった。
滞在の最後の方で2日ほど鬱が薄れて陽が射したように30分ほど話ができたけれど後は居眠りの老人の傍にいるだけだった。 これには疲れた。 介護師たちには日常でありテキパキと身の回りの物を整え介護するのをこちらは黙ってみているだけで自分の無力を悟ったし彼らにしてみれば自分の存在が老人に嬉しいという感情を起こしているしその兆しが十分あるというけれどこちらには分からない。 自分には何もできないけれどこのルーティーンを続けるのが自分の仕事だと毎日通った。
1か月もそのようにしていると母の容態、気分の上下、介護師の、介護師たちとの微妙なところにも多少は触れるようになり徐々に自分もこの環境に慣れて来たけれどそれでも沈む夕日を戻すことが出来ないことを納得しなければならずそれは楽ではなかった。 友人、家族の助言があってなんとか自分も鬱の縁から距離を置けるようになったと思えるようになったと思うのはオランダに戻って少し落ち着いたこの頃だ。
10月10日は自分の育った村の秋祭りであり去年は車椅子に乗せた母を伴ってそこに出かけ村の知人、老人たちとも顔を合わせ話も出来たのだが今年はそれももう不可能になっている。 介護施設のある場所は自分の本籍のある土地でそこでも10月10日は秋祭りの山車を練り歩く。 昼前に介護施設に着くと今さっきその山車がここを訪れ母も車椅子からそれを楽しんだと聞かされたが部屋に来てそれを訊ねると微かに頭を下げただけだった。 またそこで1日過ごし暗い田舎道を駅に向かうとそこだけ祭りの提灯が雲間からの満月に並んでいてそれが見上げられた。 去年今年の秋祭りをこのように過ごしたもののさて来年はどのようになるのだろうかという気が重く頭をよぎる。