おいらは藁を たたいてる
綿ひき車は お婆さん
コットン水車も まわってる
2 みんな去年と 同じだよ
けれども足りねえ ものがある
兄(あん)さの薪割る 音がねえ
バッサリ薪割る 音がねえ
3 兄さは満州へ 行っただよ
鉄砲が涙で 光っただ
もずよ寒いと 鳴くがよい
兄さはもっと 寒いだろ
岡林は大抵ギター一本で歌い、時々はギターなしで「もずが枯れ木で」を歌ったのだが彼のレパートリーの中ではすでに歌われて何年もなるものがプロテストソングとして光るものでかれの呟くようなアカペラで聴くと忘れるものではない。 半世紀も経って冬の庭の木の天辺に見えた鳥を見てこの歌が頭の中に広がり同時に岡林にも想いが言ったのだが、我々はディランがアコ―スティックからエレキ・ギターに持ち替えた時にそれをどう捉えるかということを友人たちの間で議論したのだが、それから暫くして岡林も「はっぴいえんど」をバックに歌い始めていた。
自分が日本のフォークというものを面白いと思って聴いていたのは友人が会員だったURCレーベルのLPを通じてだった。 それは68年から70年までの比較的短かい時期でその後、日本のフォークというものが若者のメジャーとなるとそこでは目も当てられない惨めで中途半端な女々しい四畳半ものになり始めていた。 多分時代は経済がブーストされ今とは比べ物にならないほど増えた親の収入で「甘やかされ」た若者たちはURCのマイナー批判力をもつフォークを知ることもなくマスメディア主導のフォークと名付けられた「娯楽」に流れて行ったのだろうしそこには若者の政治の季節は終わっていたのだと今になっては思われる。
そうは言っても「もずが枯れ木で」に通じる加川良の「教訓I」などの女々しさには共感を持ち口ぐさむこともあるけれどそれは今でも続く何でも戦争反対、戦争こわい、だからイヤ、というものではなかったように思う。 その違いは内だけに意識が向いているか内外を踏まえて歌うかの違いでもあるように思う。
ここに載せるのにズームし、暗い原画に明るさを加えると微かな緑色が出て、あれ、これは オランダ語で言う Parkieten (インコ)じゃないか、百舌鳥はどこに行ったのかと先ほどまでの重さがパッっとインコとともに消え去って薄緑のイメージだけが残ったのだった。 けれど普通パラキートがこの辺りを飛ぶとその薄緑色が随分群れてとぶのだから空の色で分かるのだけれど宮本武蔵描くところの「枯木鳴鵙図」とまでは行かないけれど一羽だけ止まっていると冬の鬱陶しい空の下、実際より光があると少しはウキウキするようなインコの色を「百舌鳥が枯れ木で鳴いている、、、」風にしてしまうのだ。