暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

認知症の老母を見舞って(2)おむつ、おしめ

2016年09月29日 09時30分45秒 | 健康

 

 2016年8月下旬

オムツもオシメも大抵は皆赤子の時から2,3歳を超えてまだどれくらいまでするものか、自分のことも、自分の息子、娘のときのことも覚えていないが、それでもはっきり覚えているのは日本から昔からの浴衣を布オシメにして送ってきたものを使い、また同時にオランダの伝統的な布オシメも経験し、それも便利なパンパースに移行した頃だっただろうか、そして当時は政府からの児童手当がパンパース代で消えてしまう頃でもあった。 それまで徐々に粗相が減ってきていた息子があるとき、ボク、今からもうパンパースしない、と言ってその日以来外使わなくなったことだ。  その後子供用オマルに跨ったものの直に普通のトイレに段差をつけ落ちないように子供用リングを乗せたものを使い大きくなるにつれてそれも取れ今に至る。 オムツ・オシメは障害、病気の人々、緊急事態には使うことがあるからそんな時には必要に駆られて我々の知らないところで息子も娘も使ったことがあるのかもしれないけれど、自分の排泄物が肌身に付く感覚を自覚したことがオムツ・オシメを嫌う大きな理由なのではないかと思うのだが、どうだろうか。 人生のコースを辿ってきてゴールに入る頃にはまた幼児にもどると言われ、それならまたオムツ、オシメの時期に戻るようになるのかと覚悟しておかねばならない。 多分何やかや言って人生で「自立」というのはオムツ、オシメからの自立という意味であったのだと思えるが、まさに人生の秋、冬を迎えてここに戻るというのは辛いものだ。

もう10年ほど前になるだろうか、痛風になった。 それでも辛い痛みとも折り合うことが出来たのだがそれが出来たのは薬のおかげで、それを服用すると痛みがぴたりと止んだものだ。 それはそれで嬉しいのだがその裏には副作用というものがあって、それが急に腹を緩くする、というものだった。 自分は幼児の頃はひ弱だったと聞いているけれど物心ついてからは胃腸が頗る健康で腹を下すことなど1年に一度あるかないかであったとしても前兆はあるのだからなんとかしていた。 幼稚園から今まで下着やズボンを汚して気まずい思いをしたのは2,3回ぐらいだっただろうか。 こういうことは誰にもあってそれは人生においてほんの偶に起こるものとして考えているのだろうと想像するけれどそう思うのはそれはまだ若いからだ。 そしてそういう折にはこれが普通でないと思ってやり過ごしている。 

これが常態になったときのことを考えるきっかけになったのは仕事にでかけるのにオムツをしてでかけたときだった。 副作用がきつかったから漏れるのは仕方がないけれどそれを堪えビクビクしながら仕事をこなし漏れればそれをトイレで処理し新しいものを充てて1日を終わる。 50代でまだ壮年だった自分にとってこれはきつかった。 薬の所為、そういうことは自分の人格には関係ないと思っていてもめげるのだ。 それに自分の子供たちのころに比べて大人の物は嵩が高く持ち歩きにもそのヴォリュームに呆れる。 そういうことがあったことを忘れていなかったことを認知症の老母がオシメをつけ始めていると介護人から聞きもし彼女の自室のトイレにそれがうず高く積まれているのを見た時に思い出した。 それはまだ理解できるしそれを自分で処理できるのだからいいと安易に考えていたのを思い知らされたのは昔の女友達二人と老母で食事に出かけ久しぶりに美味いものを喰いそのあと地元の観光地に行った時だ。 

大体女性はどこでもトイレが近いのか何かそこで秘密のことをするためなのかどこに行くにしてもトイレが行動の基準になっているとこの歳の男なら考えているのではないか。 そんな具合で二人とも孫がいる女友達は観光地のレストラン・カフェーに老母を連れてそこのトイレに行き老母を手助けして出てきたのだがその後いざ観光地の入口に来てこれから、と思っていると老母が苦しがり慌てた。 後で訊くと替えのオムツが溢れて非常事態になったのだ。 こういう経験のない息子はなんとかしなければと焦るけれど何もできない。 そういう経験がなくもない女友達がすぐさままた今来たレストランに老母を連れ戻し車椅子も入れるような大きなトイレに籠り一人は車でオムツとパンタロンを買うために走ってくれた。 その間自分は何もできずカフェーの隅で佇むだけだった。 自分が何もできないという無力感は忘れられない。 つまりそれは老母の無力感でもあるのだがそれにもまして男の自分の能天気さに苛まれ女友達のテキパキした動きを有り難いと感謝した。  

肉体的に衰え、日頃できていたこと、殊に排泄にかかわることで不如意になることが人格を揺るがすのではないか。 そんなところを過ぎて老母は、それを看護人に頼るようになり始めて大分経つようだ。 先月10日ほど今までになかったほどほぼ密着するようにそばにいてその場面に何回も出くわし、外から部屋に戻ってみれば歩けないはずなのに一人でトイレに行き、済ませたものの立ち上がれないから起こしてくれと言われどこにそんな力があったのか驚きながらソロソロとベッドに連れ戻り寝かせた後それを看護人に伝えると驚いていた。 トイレまで5mほどの距離を歩かなくてもいいようにそばには椅子の部分をずらせばポットが仕組まれているものを置いてあるのにそれは無言のまま無視してトイレまで行く。 その簡易トイレ椅子を拒否してトイレまで行き来、というより来るためには立ち上がれないのにそこまで行くというところに意地というか人格というものを感じるのだ。 だからそこで認知症が進みそんな意識もパスするようになれば赤子に戻るのだからその無力さも感じないのだろうが今その境目にいるような老母をみていると複雑な気持ちになる。 何回かの手術の後老人性鬱に沈殿しつつ食事を断つような毎日に接し自分も思わずそんな鬱に引き込まれそうにもなる。 自分ももう老人なのだ。 あと20年もしないうちに同じようになるのかもしれない。 その時にはどう感じどう対処するのだろうかと他人事のように考える。 

昼食に1kmほど離れた飯屋に真夏のカンカン照りの田舎道を歩いてでかけボソボソと済ました後また同じ道を戻るときふとみれば壁一面にオムツ・オシメが貼られているのが眼について圧倒された。 そこは介護をサポートするそういう店だったのだ。 様々な助具、電動・手動の車椅子などの周りにこのオムツ・オシメ・様々な取り換えパッドの展示が見られた。 ある意味これからまだまだ成長する産業のようだ。 我々もこれにお世話になる時期がかならず来る。 それを見ていて老母と同い年であと何年かと数えるオランダの姑のことが頭をよぎる。 もう無理して生きたくないという脳に曇りのない姑は終末医療、いざとなった時の蘇生作業をどうするかというようなことを担当医と話合い、それをカルテに記すような作業を始めている。 それは老母と対照的で多分老母の場合にはオランダの柔らかい安楽死、若しくは積極的ではない安楽死というようなところが話されることはないだろう。 法律的に言えば本人、複数の医師、証人のもとで合意された、或る状況下での取り決めがまだ本人がそのときの合意を確認できる場合にのみその処置が合法と認められ執行されるからで認知症の場合には殆どの場合これは適応されないだろう。 けれど人類はこのような書類がなくとも犯罪とならないような処置をして過ごしてきたのだから違法でない道はあるはずでそれを認識して準備を勧める書物も数多く見られるのではないか。 これもこれからの分野だ。  

壁に並んだオムツ・オシメに圧倒されてそのサイズの中で小柄な老母、かつては小山のようだったけれど今は風船が萎んでしまったような痩躯となった姑の現実を思い起こしながらそれぞれどのあたりのものか想像しながらも、嘗て小児用パンパースをスーパーでの買い物の折に言われたサイズをかなり大きなコーナーで探す時にあったバリエーションに比べると目の前のヴァリエーションの豊かさに圧倒されそこで思わずため息が出るのを禁じ得ないのだった。