暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

エリック・フォファーのインタビューを YouTube で観る。

2015年08月12日 12時47分03秒 | 聴く

 

ことの始まりはたまたま見つけたエリック・ホッファーの2冊の著作だった。 

 

みすず書房 田中淳訳  エリック・ホッファー 「波止場日記  労働と思索」   初版1969年、 日本初版1971年 2004年 第五刷

作品社   中本義彦訳 エリック・ホッファー 「魂の錬金術  全アフォリズム集」 初版1955年、73年、 日本初版2003年 2005年 第六刷

彼の人となりはウィキペディア英語版に詳しいが日本語版でも幾分かの概要が掴めるかもしれない。 70年代にホッファーのことは朧げに記憶しており今まで著作に触れることはなかったのだが上記の「波止場日記」から読み始めひょっとしてインタビューもあるかもしれないと試しに YouTube で牽いてみたら50分ほどを5つに分かれたインタビューがありそれを観た。

You Tube; The pationate State of Mind、Interviewed by Eric Sevareid,  CBS TV (1967)

https://www.youtube.com/watch?v=kTcv4HyEY3w

書かれたものは書かれたものとして読まれるべきものであるが書かれたものは生身の人間が自分の思索のまとまりとして提示するものとして創り上げられたものであればそれを補足する、あるいは自然な思索の発露としてのインタビューはその人間のある側面、もしくは核になる部分の提示もあるやしれずそれを探る上では甚だ有意義な場合もあるけれど退屈な決まりきったセリフや偽善とまではいかないものの何かの意識を纏って防衛一方のインタビューもあるから現在さまざまな技術・メディア露出の場でみられるものの場合では様々なアドヴァイザーに囲まれ仕込まれたインタビューではそればかりが露わになって興ざめする場合が多い。 現在の政治家はスピーチライターによって作られコンクリートで固めた柔肌のタッチは今更それをそのまま出たものとしてうけとれないのは言うまでもないのだが日本の政治家の能天気ぶりにはそれでも繕った穴から地がみえることもあり、それはそれなりに楽しませてくれることもあるからこういうスペクトラムをもつジャンルとしてのインタビューは面白い。 

だがホッファーのインタビューにはそれを吹き飛ばすぐらいの1967年9月というアメリカの状況から鑑みて甚だエキサイティングな、それは現在にも友好的に射程が十分届く十分有益なものだ。 あの時期自分がこのインタビューの存在を知っておりこれに接していればかなり自分の思索の方向がもっと豊かな方向に行っていたのにと悔やまれることでもあるがそれからほぼ50年経ってホッファーが65の定年で沖中士と大学教授職から同時に引退し著作に専念するというときの一つのまとめとしてのインタビューであれば自分が今彼と同年配であることからしてこのインタビューにはさらに奥行きが加わっている。 力がはいってインタビュワーをぐいと見つめる眼や思索を続けながら語るときに眼をつむり集中し語るその語り口、相手の誤解なり誘導に抗って力強く説明する態度は長らく労働運動のリーダーとして現場で培った知性を基にした強靭な体力が感じられこのような教授がやわな学生をあいてにどのように料理するのか甚だ興味深いものだ。 日本の60年代からの悲劇はこのような大学人が育たなかったことだ。 だからその結果として80年代からの雪崩を打っての総崩れの結果が現在の世界に全く通用しない「知識人」を量産してきたという結果になっている。 実際自分は1985年にオランダの院レベルの学生グループ・教授を引率して日本の科学研究センターを一渡り見て回った経験があり例えばオランダの学生と日本の主要な大学の学生のレベルの違いに愕然とした経験があるからこの10年ほどの日本の惨状には驚くこともなく当然の結果だと受け取っている。 それは知識の質とか量ということではなく普通の人間が賢くどのように知性を発露できるかということになり、その結果多分そこそこ知性のある外国人留学生が日本の学生を評して「子供っぽい(ないーぶ)」というのも当を得ている。 だから若者の間で「大人の」なんとか、という言葉が出てくるのはそれを自覚しているという証でもあるのだ。

このインタビューで面白かったのは彼の確固とした「インテリ」を排除する態度だ。 一見すると、それでは一般的に、彼の著作を読み彼の知識・思索を共有しようとする人間のグループを知識人というカテゴリーに入れるとするとそれは「インテリ」には入らないと自分で言うだろう。 つまりそれは自分の思索・思想は自分の生きてきた職業の中から培われたものの中から出たものでいわゆる大学・象牙の塔・メディアに属する「インテリ・知識人」ではない、と規定することにある。 世界の問題はこれらの知識をもったいわゆる「インテリ」の問題なのだ、ということだ。 つまり世間知らずのおぼっちゃん・おじょうちゃんたちが権力に使われるそのメカニズムが問題なのだ、「インテリ」の脆弱さが問題なのだと指摘する。 彼は「インテリジェントな者」を排除せずこういう人間に向けて発言し「インテレクチャル(知識人)」にも賢くなれる要素はあるものの、彼らの階級規定、脆弱さによる囲い込まれ、知性の有効化利用ができない状況を指摘する。 だから当時のこれらの発言に対してヒッピーたちに大きな影響をあたえることにもなるのだが、彼自身はヒッピーを白人中産階級の甘やかされ人種だと規定して所詮「知識階級」予備軍だと切り捨てる。 いちいち彼の言動を当時の状況、それから日本の60年代から現在までの「知識人」の動向に照らし合わせてみるとアメリカ並みにも届かずまさに日本の知識人たちの脆弱さ、「インテリ」のインテリたる所以を露呈しているのが明らかになる。 先日鶴見俊輔が亡くなって当時のべ平連関連の様々な言動を思い出すのだが彼にはホッファーとの接点がなくもなかったように忖度する。

インタビューの中でMr. Sevareid をミスター・シヴィライズド(文化人さん)と聴きちがえ彼の論旨から面白い揶揄の仕方をするものだと思ったのだが実際CBSのエリート・ジャーナリストは典型的な文化人・知識人であってその英語に対するホッファーの強く内容も筋肉を感じさせる冲中士の英語も自分の誤解を補佐するものだった。 自分をインテリジェントな大衆の中の一人だと規定しインテレクチャル・文化人から大きく距離を置きながら皮肉も敵対心も持たず大きな包容力をもって語る思想家の姿には労働と思索の両方を自分の手と頭で築き上げ続けてきた稀有な一般人の姿がある。 このような人間を20世紀以来生み出してこなかった日本の悲劇をみるようでもある。

 

 



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