暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

スーパーの駐車場で

2009年02月20日 00時31分40秒 | 日常

ぼしょぼしょ雨の降る木曜の午後いつものようにスーパーで買い物をして車に買ったものをゴソゴソ入れていると駐車場隅で若いのがキャーキャー言いながらカメラで写真を撮り合っている。 年のころなら14,15歳というところ、中学校の2年生ぐらいか。 それならこの時間まだ学校のはずなのに男の子が一人に女の子が二人、一緒に撮るならそれではシャッターを押してやろうか、と近づいてそう言ったら一人の女の子は喜んだのだが頬のあたりににきびの赤いのがたくさんある男の子が、いやいいから、と後ろずさる。 もう一人の女の子が、このこ人見知りというかシャイだから、、とケラケラ笑い男の子を促すのだが女2人に挟まれたこの男子、はなはだ覇気がない。 突然自分の父親ほどの男に話しかけられて何か後ろめたさでもあるかのようでもあるけれどこの年頃は大抵これが普通だ。 女の子のほうがはっきりしている。

それじゃ、おじさん、毎日いろいろ写真撮ってるから君たちの撮らせてもらえないかい、といってこの何日かの写真を見せてやった。 くったくなく、これおもしろい、これなに、と私のカメラを手にとってみていたのだが男のほうも慣れたのかいいわ、といって横並びになる。 ワンショットだけ撮ってそれを見せ、メールアドレスあるんだったら送ってやるよ、といったらすぐに女の子の一人が私のレシートの裏にオランダの女の子の丸文字のようなアルファベットでアドレスを書いた。

彼女らの足元にポテトチップスやお菓子の袋が散らかっていたのを見られたからか、一人が、これ私たちのじゃないんだよね、と見え透いた嘘をついて笑うのだがこいつら午後の授業をサボって雨だから公園か通りをぶらぶらするわけにも行かずこんなところでたむろしているわけだ。

車を出すとき小さくクラクションを鳴らしたら奴さんら屈託なくこっちに手を振った。


この焼き物はどこから来たのかな

2009年02月19日 11時47分43秒 | 見る
職場の会議室の一つに入ってふと書類棚の上を見るとテラコッタの焼き物のような、右足の膝を地面に突き足を後ろにのばし、左膝は立ててその上に両手を載せてその上に顎をつけこころもち正面下を眺めている男か女かわからぬ姿があった。

高さにしても25cmあるかないかという小型なのだがその顔つきといい色合いといいどこか日本の埴輪に似ていなくもない。 着色の埴輪があるのかどうかしらないけれどこちらは紅色のかかった茶色に彩色されたあと年月で薄くなったものかそういう風につくったものか骨董なのかみやげ物のレプリカかははっきりしない。 しかし何れにせよこの形はキッチュでもなくだれかがここに無造作に置いておくとしたら中南米に旅行したときに土産として買って来たものだろうと想像する。

ユカタン半島あたりのインディオの像のように見えるし南米で製作された物かも知れない。 まさかいくら何でも中国製ということでもないだろう。 偉大なる中国人はなんでも作るからこれも中国産かもしれないがあちこちを眺め回して Made in
China の文字をみつけるようなことはなかった。 原産地を表示しなくて中国製ということの可能性もある。 げんに何ヶ月か前に射撃協会関連でインドネシアで買って来たという日本刀を持ってきた人がいたのだがそれも17世紀前半の有名な日本刀のコピーでネットで調べたら全く同じ銘の写真が出ていて中国製の贋物が出回っているから注意、と書かれていたことも頭の上を掠めたのだが、まさかこれがそんなこともあるまいと膝を立て顎をその上に休める人の顔を覗き込んだ。 

会議室の壁際の書類棚の上からこれがどうでもいいようなことをああでもないこうでもないと言って時間を過ごしている我々を見ている図、というのは少々皮肉ではある。

アムステルダム散歩(上)

2009年02月17日 08時45分56秒 | 日常
2009年 2月 16日 (月)

子供達と駅で11時に落ち合うはずが娘とそのボーイフレンドが遅れ結局アムステルダム中央駅からアムステルダムの大きな建築群を眺めながら15kmほど歩く予定が12時を周って始まる事となった。

もともと家人の希望でこの何年か彼女の誕生日、正月にどこかを家族で一日歩き回るのを行事にしていて去年はアムステルダムの旧市街を1600年ごろから1900年ごろまでの古い歴史的建築物を巡って一日歩いたのだったがそのときも中央駅から始めて西半分を歩いたから今年は北東半分の、この30年ほど港湾地区を埋め立てて大きな集合住宅コンプレックスを形成しているあたりを歩こうという本人の趣向に皆が賛同したと言うわけだ。

本当は新年の凍るような寒さの中を歩くのがいいのだけど、今年はクリスマスの頃に私も家人も道で転んで特に家人の踝の回復具合がはかばかしくなくこの日まで持ち越したという都合もあり、それぞれの予定を繰り合わせてみればこの日しかなかったという事情もある。 ビチョビチョ雨が降りそうだと前日の天気予報が伝えていたが初めのうちは曇り空が頭の上にのしかかっているだけだった。

この何年かずっと工事中の駅舎を出て一ヶ月ほど前にも息子と訪れた観光局の案内所に家人と娘が立ち寄って世界中からやってきた観光客で混雑するところからこのあたりの情報を何か漁りに行こうと入っていったのを少々うんざりしながら見た男たち3人は前の広場で手持ち無沙汰にぼやっと行き交う人を眺めていた。 スラブ圏の言葉にスペイン系、英語、アメリカ語、中国語も混じるのだけれど日本人と思しい顔つきの人たちもいるけれどあまり話さないようで言葉が聞こえないから日本人か韓国人かどうかはっきりわからない。 もう今頃はひところのように服装で見分けることはむずかしい。 行きかう人々の顔を見ながらそれぞれの生活を想像してぼんやりするのもこういう時だ。 そして駅舎の工事中の壁のそばには自分の帽子を逆さに置き、見せ金の小銭をそこに散らして古いクラリネットでヨロヨロの「ゴッド・ファーザー・愛のテーマ」をうらぶれた服、演奏で立ち尽くしている年寄りがいる。 こんな鬱陶しい昼間にはほとんど誰もこれには興味を示すはずもなくその節回しからルーマニアかそのあたりから流れてきたジプシーのように聞こえるのだがただ単に帽子を逆さにして物乞いをする輩よりはへたでも芸をするからというのか警官たちにも排除されず受け入れられているようだ。

やっと出てきた女共に導かれてそこから100mほどのところに新築された市立図書館に入りその内装、機能、デザインをエスカレーターに乗って眺めながら5階か6階の食堂まで上がる。 老若男女がそれぞれゆったりとしたスペースで思い思いに読んだり調べ物をしたりターミナルに向かってキーボードを叩いていたりなのだがCD,DVDの階が2階に渉っているのが今風なのだろう。 子供の階には遊べたり寝転んだりしながら絵本や何かを読んだり眺めたりする傍で親たちもゆっくりと時間をすごせるように出来ていて現代の公共建築の機能とデザインを体現したものなのだろう。 私を除いて他の連中は出る前に遅い朝食を摂っていたのかスポンジケーキとコーヒー、紅茶にジュースでまだ歩いていないのにもう休憩なのだが私の腹には何も入っていないのでこれから歩くだけのエネルギーを補給するのにビールと腹にも感じるサラダを注文して仕事場のカンティーンのような食事になるのだが同じ公共の食堂でありながら値段は4割方ここのほうが高い。 年寄りでスープやお茶で過す人はうちからサンドイッチを持参する人もかなりいるように見受けられる。 私も家の近くにこのような建物があれば一日中でも遊んでいられるから活字や映像が好きなものにはぶらぶらしているのにいいところだ。 場違いなように黒の薄い袈裟を着た尼さんが二人食事のテーブルを探していた。 台湾かベトナムかというような物腰で足のあたりは少林寺拳法でもやるような風情だが長い袈裟が膝横あたりから下に切れていて歩くと物腰が優雅なのだ。だから周りの静かな関心を集めていた。 たぶん中国の尼僧ではないだろうと思う。

図書館を出ると隣はコンセルトへボーの近くから引っ越してきたアムステルダム音楽院で知人が何人かここで教鞭を執っているのだが今日は訪れる時間がない。 ここから北に線路を抜けると良く通うジャズ・ハウスがありそれもほんの目と鼻の先なのだがこの新築の音楽院には来る事はないから図書館と音楽院の高い建物が並びあっている様が珍しかった。 古い港にかかる桟橋を渡ってNEMO(青少年のための、10年ほど前に建てられた科学技術博物館;そういえば子供達がまだ小さいときに子供の友達達をつれてここに来たことがありそれはもう7,8年前だったかもしれない)に沿って 昔の帰帆船のレプリカが浮かんでいる航海博物館の横を通り過ぎていよいよ街に入って舗道を進む。

運河に昔のヒッピーが昔、小さい人口島を作って浮かべている所をその70年代風ににやにやしながら跳ね橋を渡って抜け、昔の造船所の名残を右に見てアムステルダム動物園の北側を西に進み街中で今も大きく立っている昔の粉引き風車を仰ぎ見ながら直進すると広い通りが何百メートルも青空マーケットになっていて雰囲気が一変する。 移民が多い地区なのか、また、にぎやかなマーケットを行く人たちがどんなパスポートを持っているのかは別としてオランダ語を話していない人が圧倒的に多いようなところで、それぞれの屋台の商品の値段がやたらと低い。 あるところでは手書きで「主人がおかしくなったんです、こんな値段にするなんて」というようなことも書いてある。 布や日常生活に必要な道具にしても「普通」のオランダの町の店で売っているものとは質がかなり違うようだ。 ぶらぶらと眺めながらそのうちのひとつの屋台で焼き栗を買って道々皮を剥きながら甘栗を口に入れほぼ30mか50mごとにある通りのゴミ箱に殻を捨てながら歩いた。 ここでは歩く人々の90%以上にはオランダ語は第一言語ではないだろう。 


アムステルダム市立図書館
http://www.oba.nl/index.cfm/t/New_library/vid/53C6A39A-9969-DC55-21E64E8759ACEE68
アムステルダム音楽院
http://www.conservatoriumvanamsterdam.nl/index.shtml
NEMO
http://www.e-nemo.nl/en/

SaxBattle In De Uyl van Hoogland

2009年02月16日 10時37分37秒 | ジャズ
SaxBattle In De Uyl van Hoogland

Sun. 15 Feb. 09 in Cafe De Uyl van Hoogland in Leiden, The Netherlands


Sjoerd Dijkhuizen (ts)
Simon Rigter (ts) The Jazz Orchestra of the Concertgebouw. Altsaxofonist David Lucas (as)
Bob Wijnen (El P.)
Bram Wijland (ds)
Uli Glaszmann (b)

日曜の午後、家人が体を拭きながら風呂をたてたというのでそのあとにビールを手に入り、ラジオから流れるジャズやらBBCワールドサービスのニュース、時評などを聞きながら横になって温まっていたら明日アムステルダムの街を16kmほど家族で歩くということを思い出した。 このところ長らく歩いていないし金曜の水泳にもこのところご無沙汰だから火曜はきっと筋肉痛に悩まされるだろうとほんわりぼんやりした頭でデイパックに詰めるものを考えながら下に降りると家人が義弟から借りてきたDVDの「The Sopranos」を見ていた。 このシリーズはもうとっくに終わっていてテレビの放映の時も切れ切れにみているけれどなかなか面白いものでシリーズ2の3枚目を家人と一緒に見ていたらもう4時を越してしまい今日の午後、カフェーでのサックスバトルと題して毎月ここで行われているコンサートはもう始まっていることに気付き、けれど準備やなんやかんやで30分は演奏がはじまるのは遅れることもあるから今から自転車で出かけるてもあまり聞き逃すことはない、とびしょびしょ雨の降る午後、ポンチョをかぶってうちを出た。

このカフェーは夏の間はときどき土曜のマーケットの魚屋で揚げ物を買ってここのビールで昼飯にして新聞を読む、というようなことをしたり家人がパートで働いている弁護士事務所の連中が誕生日の折には小さなカクテルパーティーをするというようなこともあり最近は大学生の息子のグループがここで定期的に集まるというような町の便利なところにあるカフェーだ。 何も予定がなければ静かなところだが今日のようなコンサートというかセッションがあれば一杯になる。 50mほど教会の路地を行けば昔からジャズカフェーとして歴史のある場所があるのだが、そこは例えばベン・ウエブスターの亡くなる前、ほぼ最後の演奏が行われたところでもあるのだが今は経営者がかわりジャズの灯も消えそうというよりカフェー自体が消えそうなのだが、地元のプロモーターがそれではジャズカフェーの伝統を残そうと非定期的にここに居を移した、ということだ。

地元のジャズ同好会は100mほど離れた別のカフェと会議室然とした場所で市や国からの文化補助金を頼りに地味な世界一流のの内外のジャズメン、例えばリー・コニッツなりフリージャズの連中を招いて定期的にコンサートを催しているのだがプロモーターがカフェーの採算と首っ引きで企画を練るとなるとジャンルは自然と人が集まるバップのサックスバトルが順当となるようだ。

テナーの二人はオランダの代表的なビッグバンド、The Jazz Orchestra of the Concertgebouw (JOC)のリードテナーの Sjoerd Dijkhuizen と、あと2,3日ほどで日本にギターの Jesse van Ruller と一緒に演奏旅行にでかける Jan Menu の後釜としてこの1年ほど常任テナーとして参加している Simon Rigter だ。 アルトはアムステルダム音楽院を優秀な成績で卒業し将来有望な青年 David Lucas で皆の耳は彼のアルトに注がれている。 ここでは二人のテナーの技量は熟知されているから日曜の午後のサックスバトルと題されてはいてもそれは様々な練習試合というようなもので若手のアルトには実践(実戦)経験を積む場としては最適な環境でもある。

パーカーのものを中心にストレートにバップを吹き会う、如何に様々なフレーズを紡ぎだし次につなげていくか、ということが主眼のセッションは観衆の3割以上がジャズプロパーでなくともその躍動とリズム、指の動きとドライブ感に上気しないではいられないものでリズムに引き込まれていくさまは無骨な男どもより女性達をみていればその素直な反応でよく分かるようだ。

タッド・ダメロンのものをいくつか、スタンダードのバラードのメドレーをそれぞれがコードの繋ぎ方で辿っていくときにはアドリブであるからそれぞれのメローぶりの特徴が各自そのとき頭に浮かんだ曲で示され、合間には達者なピアノの Bob Wijnen がローランドのピアノにハモンドオルガンのストップがついたものを操って味のあるハモンドオルガンのソロで華を添えていた。 それにオランダでは人気のあるフーディーニというグループでドラムを担当している Bram Wijland が元気でシャープなサポートをしてチェースの際にはそれぞれに塩胡椒のスパイスを降りかける。

休憩中に昨年JOCのメンバーとして日本に演奏旅行に行った Simon Rigter が日本の大学のビッグバンドにクリニックとして出かけた際に日本の大学の施設が恵まれていることをうらやんでいた。 彼はロッテルダム音楽院で週に22時間教鞭をとっているのだが質はともかく施設ではなかなかそこまではいかない、とも語っていた。 しかし、問題はどこでも質なのだが幸いなことに彼の学生達はジャズの伝統をたどる優秀なものたちが多く、やりがいがあると付け加えていた。 つまり、将来、職業音楽家としてジャズ、軽音楽でやっていけるように教育するのが務めだから、と熱気で乾いた咽喉を何杯目かのビールで潤して年季の入ったセルマーのテナーをぶら下げて第二ステージ目の仕事に向かったのだった。



青空マーケットの古本屋で

2009年02月15日 23時34分42秒 | 見る
土曜のマーケットのはずれに古書店が入り口の前にテントを張って他の古書店2,3軒と共に店を出している。 そこは毎週通るのだけれど自分は読みかけの本が山ほどあるからできるだけ寄らないようにしているし、時々覗いてもさしてすぐに読もうと思うものもないからそのすぐ向こうの古LP,CD,DVD屋に入ってしまう。

その日は買い物も多くはなく時間にも余裕があったから久しぶりに覗いて見たのだがトーマスマンの日記の何巻かがあってそれをちゃんと読めるまでなるのにはこれからドイツ語を勉強しても何年もかかるだろうからそれなら精々英語版か日本語訳なら何とかなるのだろうけれど断腸亭日乗日記にしても齧ったままで放ってあるのだからマンの日記に行き着くまでには100年はかかる、とオランダ奴隷貿易についての本をぱらぱらめくり、眼を他に向けたらボードレールやムンクの画集、安手の怪奇ロマンに混じって漢字かな交じりのタイトルが見えた。

「坊ちゃん」と荷風の「腕比べ」だ。 特徴のあるペーパーバックはまぎれもなくCharles Tuttle社の英訳でそれぞれ「Bochan」「Geisha in Rivalry」となっている。 妙なものだ。 日本にいたときは高校時代、大学時代と時々は書店で手にとって立ち読みはしたことがあるけれどちゃんと読み通したものはあったかどうか自信がない。

それは多分手に取ったものが日本の文学なり昔話のようなものの英訳だったからなのだろうか、何も日本語のものが読めるのにいまさら、、、、というような気があったのだろう。 そして更に英訳を読んで勉強しようと言う気持ちにもならず、何か昔の西洋人の日本に対するイメージや戦後すぐの日本のイメージが重なって装丁、表紙、文字のタイプに1950年代を感じるから、、、、いいと思うのかも知れない。

80年代には講談社インターナショナルという出版社が日本のものを系統的に出版しだしたし、この10年ほどではパリ、ニューク、ベルリンだったか、日本にもオフィスがある Taschen 社 の建築、荷風風に猥雑な写真を撮る荒木経惟などの芸術関係の写真集は立ち読みはする。 けれど文学では 古井由吉 や 幸田文 などの翻訳がこのあたりまで出回るのはいつのことなのだろうか。 はたしてそういうことが起こるのかどうか疑わしいとも思いながらも自転車の置いてあるほうに歩を進める。


今晩、ふたご座の二つの明るい星をみた

2009年02月14日 10時51分52秒 | 日常

雨がしょぼ降る毎日でも昼間に陽が射すこともあり夜中にも晴れ上がる何分間か裏庭に出てみると北半球のこのあたりでは見られない金星の替わりに明るい南の星(南うお座のFomalhaut)が今はとっくに地平線の下に沈んでいて、オリオン座の三ツ星がはっきり南の空にあり、この日は大犬座のシリウスがオリオンの左下に大きく青白く輝き、おまけに私の頭頂にはふたご座の二つ星まで見える。

そうしていると又雲が流れてきてふたご座のペアも雲の合間に隠れてしまった。 夜中に遊びまわっている猫を呼んで台所に入れそれで一日の終わりとした。



中華料理屋でぼそぼそソバを喰っていたら、、、、

2009年02月13日 23時43分02秒 | 聴く
纏まった金を銀行から引き出した帰り、昔、このあたりから喜望峰を巡りインドネシア、日本にも船出したと思われる古い港があり、その港といってもライン川支流の、それも河口から10km以上も内陸にはいったあたりで、それは日本の普通の「港」というイメージからはかなり遠いものではあるけれど、その「港」の近くにある中華料理屋に入って朝昼兼用の食事にした。

このあたりにはもう150年以上前にシーボルトが日本から持ち帰った大量の文物を保管してあった家もあり、また、カフェーが二三軒集まっているところでは5年か10年に一度ぐらいそこの客が例えば痴情の縺れからピストルで撃ち合いをして死者がでる、というような物騒なところでもあるのだがそんな風に誠に風情も興味も喚起される場所ではある。

けれど、この中華料理屋はそんな興味から最も程遠い、うらぶれた、年寄りか金のない旅行者ぐらいしか立ち寄らないような食い物屋だ。 特に2軒ほど隣のマクドナルドの様子と比べればその寂びれ具合が一際際立つ。 私はそこにはこの20年以上、年間2、3度立ち寄る、といったところだ。 別段旨くも不味くもない料理を出すのだが客があまりいないから静かで、大抵ひとりでボソボソと食事を済ませてまたどこかに行くのに都合がいいからだ。 

この日も読みかけの文学雑誌を手にこの店に入り「日本語が亡びるとき」と題した評論を読んでいて、これは日本語だけではなくほかの言語も英語が世界語となり君臨している現状においてはたとえ政治、文化の分野で華を咲かせていたフランス語も今では死に体であるといい、特に日本語の衰退がそれに輪をかけていちじるしい、ということを述べている非常に面白い読み物だ。 少なくともオランダに住んで20年ほどぼんやりと頭の中に浮かんでいたことをはっきりとさせてくれる書き物だ。 日本だけに住んでいると英語の世界性というものは少々分りにくいかもしれないがこの20年ほどの間にオランダの中の日常生活にも英語が加速度的に浸透してきていること、日本では活字が読まれない、良質の小説が売れない、一般に膾炙される小説が貧弱だ、一国の首相の漢字能力が情けない、などの事々を例として世界の趨勢、言語、特に日本語の位地を世界規模で論じた力の入った面白いものだ。 

それはともかくとして、ビールとワンタン麺を頼んでこの評論を読み進んでいくうちに店内に音楽が流れているのに気が付いた。 ピアノ曲がバッハからモーツアルトなどの所謂ポピュラークラシックとでもいうものでショッピングモールなどでかかっているのなら分るもののこういうのが寂れた中華料理屋から流れてくるのだと思っていたらそれが私が子供の頃に流行ったポール・モーリア楽団「恋は水色」になりそれが映画音楽、ディズニーアニメの「いつか王子様が」になるとちょっと耐えられなくなる。 初めからずっと同じピアニストが淡々とこういうものを弾きつづけているのだから目の前に運ばれたワンタン麺の国籍がヨーロッパ産なのだということを否が応でも知らしめるものとなる。 

考えてみれば今までこの店で音楽か何かが流れていたかどうかを思いだそうとしても思い浮かばない。 たぶんそれがいらだちの理由の一つかもしれない。 しかし、ハーグにたまに行った時には昼飯や飲茶にする中国人街にある料理屋のメニューも中国語と写真だけの料理屋でも香港ポップスとか演歌のようなものが流れているところもあるけれどそこでは決して柔なバッハやフワフワなモーツアルトにヴィヴァルディなどかからない。  ヨーロッパのあちこちにある日本料理屋はどうかというと、日本人経営のところでは尺八がはいった民謡調のところが多いけれど日本料理屋といってもヨーロッパでは90%以上が中国資本、コックも日本人からならったり日本で修行したものなど殆ど皆無でそういうところでは日本の民謡に混ざって香港ポップや中国の音楽が多い。 しかし、そういうところでさえこういうクラシックはない。

人畜無害なポピュラークラシックまがいのピアノだけれどどうしてそれがこれほど私を苛つかせるのだろうか。 多分、自分の中の固定観念とか自分のパブロフの犬状態がそうさせるのだろう。 何もないいつもの寂れた中華料理屋の無音を想定していて、もし音があっても香港からだれかが送ってきた、安物の中国の胡弓の調べか中国演歌のテープならこの質の貧しくやたらと量だけはあるどうみてもインスタントラーメンでしかないのびた麺がメインの「ワンタン麺」には適当だ。 ポピュラークラシックで喰うようなものではないが、しかし、考えてみえればこの組み合わせはその質という点でバランスが取れているのかもしれない。

アムステルダムの怪しい地区には小さな安い日本料理屋があってそこでは80年代の古いカラオケがレーザーディスクで流されているのだが、それは宮沢賢治と同じく東北出身のオバサンから供される二流、三流の料理に合うバックグランドミュージックであり、それを世界各国からきてたまたまここに入った客たちがモニターに写ったノスタルジーにあふれる80年代の流行歌やその演歌のストーリーが写るものを不思議そうに眺めているのは様になるようでそれはそれで趣もあるのだがそこではヴィヴァルディは全くお呼びではない。

水っぽいハイネッケンビールの小瓶とワンタン麺に12ユーロ(1400円弱)払って外に出たら相変わらず惨めな雨がびしょびしょ降っていた。


朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで、、、、、、

2009年02月11日 14時39分15秒 | 日常
昼過ぎて起きる毎日、たまに午前中に起きなければいけないこともあり、起きてみればそろそろ終わりかけかという冬もまた外は霙交じりで寒いのでシャワーを浴びることにして湯を頭から浴びても足から尻、体に温かみが戻ってこず堪らず流れる湯をバスタブにためて風呂にしそれに体を横たえて何とか温まった。 先ず熱い湯に小型のタオルを浸しそれを両目の上に乗せ、時々は同じように耳朶もその熱いタオルで包むと特によく温まるような気分がする。

そうしていると世間の人たちが働いている中、朝の光の中で湯に浸かっていて少々の罪悪感にちりちりと苛まれるという自虐的な楽しみも少しは戻ってきて、考えてみれば朝から湯に浸かるということはまだ無垢な子供の頃の正月の初湯なり、学生時代にすることもない毎日、由緒ある温泉に朝湯に浸かりに自転車でよく出かけ、見事な広い御影石の浴室で風呂の縁に首を載せそこに老人達がするように好きなだけ寝そべって時たま木の桶から湯を汲み横たえた体に流して気持ちよく眠るかまどろむような、午前か午後の感覚もなくなり、ドラッグもいらないほどの桃源郷に遊んだことも、また、もうそろそろ30年以上前にオランダに渡航するため一年ほど日本の実家でぶらぶらしていたときの朝湯のことが思い出され、それにこういうゆったりしたときの朝酒のことも加えてその快楽の中で妙な感慨に包まれる。

民謡の、「はああ、会津磐梯山は宝の山よ、笹に小金が、ハア、なり下がるよお」と景気のいい歌詞が続く後に、、「小原庄助さん、何で身上潰した、朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上潰した、もっともだ、もっともだ、、、」と囃しがありそれが頭の中をよぎるのだ。

この民謡はよく知られたもので歌の部分は目出度いものなのだが囃しの部分が問題だ。 朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、、、というのはいいが、それで身上つぶした、というところに強くモラルの強制を感じる。 小原さんは強壮の30代だとしよう。 昔、例えば江戸時代、人の活動時間は夜は暗くなるとほぼ終わり、夜は10時ごろには活動はほぼ終わっているとみてよいだろう。 その代わり朝は夜明けごろから起きて活動するという具合だ。経済活動には朝早くから精を出し、風呂や酒の快楽は身の破滅を導く、というものだが、果たして小原さんはそれで身を滅ぼしたのだろうか。 自分の行いを正当化するのだが小原さんが隠居の身なら何の問題もなかったのではないか。 働き盛りの30、40代なら問題があるのかもしれない。

江戸時代の地方の農夫、小原庄助さんの一日を想像してみる。 一日の開始は5時、6時というところだろう。 二時間ほど働いて家に戻り朝食にすると8時ごろになるだろう。 一服して9時前から12時まで働き、昼食を摂り1時前から暮れ始める5時まで野良で仕事をすると大体9時間半の仕事となる。 これは明治生まれの農夫、私の祖父の平均的な時間割だったように思う。 盛夏には昼食後、1,2時間の午睡があり小さい私もこれを強制され眠れず困った思い出もある。 ここには朝寝、朝酒、朝湯が入る隙間がない。 正月ぐらいなものだ。

ここでは朝寝というと何時ごろまで寝床に留まっていることなのだろうか。 農家では起きるのが遅い、というのは7時ごろまで寝ている、ということなのではないだろうか。 明らかに仕事に支障が出るのは9時頃まで寝ているとそれがはっきりするだろうし、昼間まで寝ているというのはそれはもう床に伏せる、ということで病気でもないのに寝床にいるというのはもってのほかだろう。 さて、9時ごろに起きてゆっくり少なくとも30分ほど風呂に入るとしよう。 上がってからゆっくり朝酒を嗜んでいるともう10時は遥かにまわりそろそろ昼に近づいてくるだろう。 

これではまだ壮年の小原さんの日常の経済活動も生産活動もできるはずはない。 しかし、小原さんが農夫でもなく、ある程度の素封家でしっかりした番頭がいれば午後からでも采配を奮えるわけで商家ならこれでやってやれないことはないのだが家族、身内に示しがつかない、ということもあるのだろう。 このようなことから、酒、女色、賭博と同類の戒めが朝寝、朝酒、朝湯にかけられても不思議ではないような気がする。 けれど女色、賭博にくらべて朝湯と朝寝の地味なこと、金のかからぬ快楽なのに破滅をもたらすものとは。

こんな事を考えながら温まった体をタオルで拭いて、外気ほど冷たくないものの冷蔵庫から6,7度ほどに冷えたビールを取り出して飲む。 今日はまだ昼にもなっていないからちょっと早く起きたというような気分なのだが、冷たい外に出かける前に体を温めるということをしたから一日のスタートしては建設的ではある。

私のご先祖様方からみれば「罰当たり」なのだろうが、この異国にご先祖様方を招待して一緒のライフスタイルでくらしてみてご意見を伺ってみたい気もしないでもない。 こんな鬱陶しい冬の日には仕方がないか、とスキポール空港で言い残して日照時間がこちらの3倍はある日本に喜んで帰るかもしれない。




そろそろ球根も芽生えるようになってきた

2009年02月09日 02時38分29秒 | 日常

マーケットを歩いていて花屋が何軒か連なっているところで、あれ、っと思ったことがある。 切花は年中いろんな種類を置いていて特に土曜のマーケットなど、週末に予定している来客の為、もしくは家族でちょっとゆっくりしたときに居間に花をと、花を求める人で花屋は賑わっているのだがその連なりに緑だけのセクションが出来ている。

多分温室で栽培した球根なんだろう、シクラメンや水仙などの球根から3,4cm緑の葉がのぞいたものを並べて売っている。 そういえばこの何日か風の中にも切るような寒さが後に引いて暖かいというのではないけれどもうそんなに寒くないという感じがするし自転車で走るにしてもこの2,3日手袋は要らない。 そういうときにこのような球根を見ると春の訪れが感じられるのだが、しかし、それも温室栽培の手助けがあってのこと公園や町のいろいろな緑地に去年の秋さまざまな球根が植えられているはずなのにまだそのような兆しはない。

そういえば今年も雪のない冬なのだが例年のとおり先ず雪割り草が出てこなければならないだろう。 それに水仙が続く、という手はずだ。 しかし、今のところ外気は寒くはなくなったというだけで自然界では特にその動きは見られない。 少々芽生えた球根を4つ5つプラスチックの植木鉢に入れ売っている。 一鉢1ユーロ70セントと出ている。 円が高い今、それは200円弱だ。


春はこんな乗り物でやって来るのか

2009年02月08日 07時27分15秒 | 見る
土曜の青空マーケットを歩いていて八百屋の前に停めてある自転車を道行く人が指を指して笑いながら通り過ぎてゆく。 なるほど普通の婦人用の変速機つきのきっちりとした自転車で、後部座席の両側にはどちらかといえば高級感溢れるモダンなふりわけ袋とでもいうような荷物入れがぶら下がっている。 普通のものは黒の分厚いカンバスでこのような「モダン」なものをつけていると人は一目置く。 それに加えて座席に被せてあるカバーが派手だ。 原色の花柄で青、赤、黄色の組み合わせが熱帯だ。

しかし、それだけだったら人はそれを指差して笑うことはない。 ハンドルの周りから車体、後ろの泥除けあたりまで緑に生い茂るよくできたプラスチックの蔦のなかに咲く青い朝顔があちこちに散りばってなかなか面白い。 多分、人が笑うのはその春を告げるような華やかで派手な自転車の飾りだけではないと思う。

時々若いものが古い自転車を原色に塗ったりいろいろなものをつけて、時にはパンクの格好をした男女がそのゆがんだタイヤをゆらゆらと揺れさせて走っているのを見ることがあるし、いろいろな飾りとつけているのを時々みることもあるのだが、大抵は若者とか学生が古い自転車にそんな飾りをつけているのが普通で、そういうものであれば人は微笑むことはあってもあまり指差すようなことはしない。

オランダ人は自転車には敏感だ。 車で持ち主の性格、収入を測るように自転車もそのように見るだろう。 ただし、古くぼろぼろのものに乗ってもいてもそれはそれでイキにみえるのか20前後から40歳ぐらいまでは別段それでも不思議ではないのだし、町の古い映画館の持ち主のように着るものに頓着せず髭だらけ髪はぼさぼさの大男がのっそりとぼろぼろの自転車を走らせていてもそれはそれで様になる。

ここで皆が面白く思うのは飾りと自転車のアンバランスの加減だろう。 まだ比較的新しく、多分40歳から60歳ぐらいの女性の乗り物と思しく、そういう人が「高級感」ただようバッグをぶら下げ、トロピカルなサドルカバーをつけてこの朝顔のつるまきだ。 おまけにハンドルについたベルが真っ赤なトマトよろしくアクセントが利いている。 それを感じて人はどんなオバサンがのっているのかねえ、と興味本位なのだが、しばらく見ていてもオバサンは戻ってくる様子はない。

わたしも暢気にオバサンが戻ってくるまで待つつもりもなくそのまま買い物袋をぶら下げて人の流れの中に混ざるのだがこういうもので春はやってくるのかもしれない。 いや、その持ち主はこの2週間ほどのぐずぐずした天気に少々鬱陶しくなって気分を高揚させるためにこんな飾りをつけて陽気に町中を走る気持ちになったのかもしれない。