暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

ゼーランド日記(6) ミドルブルグで一日遊ぶ 中

2007年08月13日 13時53分40秒 | 日常
2007年 8月1日 (水)

「のっぽのヤン」から降りてその近くに在るミドルブルグでほぼ唯一のジャズカフェに落ち着いた。 そこには今は既にこの何年も唯売らんかなだけの方針から中身も装丁も「癒しとリラックスのジャズ」におちたジャズ誌の転換前のバックナンバーを揃えており私がまだオランダでジャズを聞くのを再開する以前の80年代からのオランダジャズ誌の様子を概観するのに役に立った。そこで静かにBGMとしてながれるECM系のジャズで雑誌を読んだり読み続けている文庫本のページを繰って2時間ほど過ごしてからこの町の目玉でもある旧市役所の広場、マルクトのカフェで「百姓のオムレツ」とビールで昼食を摂った。 

食後旧市役所の建物の隣にある食肉業者の集会場でもあったのだろうミートホールとでも言うような名前がついた建物で日本人の芸術家が会場を真っ暗にして大スクリーンに幾何学的なデジタル数字に信号を交えたものを流しているインスタレーションを見た。 多分これが日本でも先端の、この何年もヨーロッパ各地でみられるトレンディーな芸術なのだろう。 ただ、ここでも説明が今までのステレオタイプの域からでない技術先進国の無機質な日本のイメージを再生産することに貢献するぐらいでしかない鵺のような顔の見えないような気がした。 作家の顔は見なくても想像できるような気がした。 それもステレオタイプでみるのだけれど。 

そこを出て広場を斜めに横切りメディアのソフトのデパート、本屋と各カフェーにゲームソフトを除くCDにDVDを売る店に入って見渡して買ったものは相も変わらずCDだった。

Ahmad Jamal Trio
Complete Live At The Persing Lounge 1958
Gambit Record 69264


Buddy DeFranco And The Oscar Peterson Quartet 1954
OLP#4 222969-203

Beethoven: - Triple Concert, etc.   1969
Oistrakh,Rostropovich,Richter, von Karajan, Szell
EMI 7243 5 66902 2 6

とりわけ嬉しかったのはこの30年以上ときどき聴いてはなごむアーマッド・ジャマルのLPの残りの部分が合わさってCDとしてあったことだ。 ポインシアナを含むジャマルのラウンジピアノは、エロール・ガーナーがクリント・イーストウッドが市長になるはるか以前にやはりその町で録音した「海辺のコンサート」と題したイーストウッドが初めて監督した映画の中にもあった景色とほぼ同じカーメルの海岸をジャケットにしたLPと並んで私が愛聴するものだ。

自転車を押しながらぶらぶらと歩いてこの町のユダヤ人墓地のそれもユダヤの通りと名のついた小路にすむ私のオランダでの叔父とも言うべき画家の家を10年以上ぶりに訪れてベルを押しても返事が無く窓から覗いても整った居間の自作の絵にも変わりないから、それではとメモ帳に近況と近くに来ている旨を記してドアの隙間に差し込んだ。 3軒ほど先にこちらを眺める婦人がいるので知人とそのパートナーの近況を訊ねて変わりないことに安心した。 2年ほど前に彼の回顧展がこの島の北にある海水浴場の小さな美術館で家族ともども会った折にはパートナーが乳癌の闘病中でもあったことから画家の不在がそれに関係しているのではと心配していたからだった。 けれど、これも杞憂に終わって喜び、この日はこれで、とまた自転車に乗り6kmのほぼ直線コースを引き返し我々の借家にもどったのだが、家の女どもはまだ海岸に寝そべって母娘のヴァカンスを私のあずかり知らぬことであるけれど想像のつきそうな過ごし方をしていたのだった。


ゼーランド日記(4) 夫婦で何となくあてもなくサイクリングをした

2007年08月13日 13時46分06秒 | 日常
2007年 7月31日 (火)

前日遅くまでテレビを見たり本を読んでいたりして3時半ごろ眠りについて7時半に目覚め、トイレに行きそのままベッドで、もう35年以上読んでいる、個人的には大江健三郎の時にノーベル文学賞を与えられるべきだったとも考える日本の作家のインタビューを読み終えたのは9時頃で、それからノコノコとベッドから起き出して10時ごろには親子3人で朝食を終えたのだがその卓で娘が服の事で母親と少々の行き違いを起こし彼女は今日は一人で町をぶらぶらして親たちからのプレッシャーから気を紛らわすということになり、天気もいいことだし我々夫婦は二人でなんとなくぶらぶらと海岸を北に向けてサイクリングに出かけた。 静かな森や田舎を抜けて走る自転車専用道路は我々のような年代の人々と小学校をあがるかまでぐらいの子供たちとその親がほとんどでその頃にははるか向こうを走る自動車道には家族連れ、友達連れで一杯の車が海水浴場に向かっているのだったが狭い村の道路と限られた駐車スペースはこの時期には大問題なのだからできれば自転車で来れば一番の解決方法なのだが今は自動車の時代なのだ。 それは後で海岸リゾート地の村に着いてはっきりした。

フリッシンゲンから5kmほど、続く砂丘の後背地である森の連なりを快適に行くと突然子供の遊園地やレストラン、カフェーが立ち並ぶ村に着き、そこでこの時期に観光客、海水浴客のために開かれるバザールが狭い村の教会あたりにたつと避暑の人々で一杯である。 家族連れから若者、ドイツ人たち、と色々な顔、言葉が行きかっていた。 一渡り人ごみに混ざってぶらぶらしているといい時間にもなり昼食をとレストランが並ぶ村のメインストリートで魚のレストランに入りゼーランドの特産、ムール貝の白ワイン酒蒸しを摂ることにした。 コレステロールや尿酸値からすると医者から止められているもののもう10年以上口にしていない料理でもありここからブリュッセルに輸出され観光地グランプラスの一つ裏のレストラン街で名物として消費されるのだからその貝の本場で味わう誘惑には勝てなかった。 家人はサラダに海の幸を散りばめたものを注文して時々は私の黒い琺瑯びきの大きな鍋から長ネギやパセリに大蒜が混ぜられて蒸されたムール貝をつまむのだったが二人とも腹も満たされ混雑する通りを横切って堤の階段を上り広い砂浜に降りてそのままの格好で細かい砂に横になり家人が昼寝をする横で私は様々な人々を眺めた。

気温が20度を少し超えたぐらいで、私には水に入る気もせず一方、家人は露出した肌に日焼け止めクリームを塗って居眠るのが丁度いいのだろう。 実際、水に入っているのは子供か若者で中年以降は水に歩き込むものの泳ぐものはまず無いのだから大人は殆ど寝転んで日向ぼっこ、というところだ。 

精々1kmかあまり遠くないところを通る様々な大小の船、北欧に向かうフェリー、コンテナー船などが行きかうこちら側の浜辺では恋人たち、若者たちがペア、グループでボール遊びをしたり寝転がっているのが見られるもののかなりの部分が子供づれの家族だ。 よちよち歩きの子供をつれた若い親たちか中学生に上がるかどうかの子供たちをもつ中年の夫婦の家族連れである。 それらの子供たちを眺めていると我々の子供たちがまだその頃だった事を久しぶりに思い出す。 大抵スコップにバケツ、ボールを持って遊ぶ中で、砂の城や穴を掘って遊ぶ子供にビールで赤くなった顔に汗を浮かべて父親が子供そっちのけでレーシングカーや船を子供のためにとは言いながら一所懸命に製作中の一方、母親は日焼けを気にしながら居眠りというのがよく見られる。 若い男女はそれぞれおしゃべりや他の同年代の男女観察に余念が無いし、若い男のグループはサッカーで遊びそれからビールに戻りまたサッカーというサイクルで健康的なことでもある。 何年も前の自分たちがそこに見えるし手を離れつつある子供たちの姿もそこに見える。

ひとしきりニンゲン動物園の観察のあと、目覚めた家人と売りに来た氷のアイスの棒を手に、それを舐めながら浜辺から村にもどって停めておいた自転車で今度は穀倉、野菜、果樹、花畑がひろがる田舎の自転車道を戻ってうちに戻りこの15kmほどのサイクリングを終え、そろそろ慣れた家に戻ると娘がパンケーキにスープとフルーツの取り合わせにホイップクリームのデザートを用意して待っていた。 食事の後、8時のニュースを見ていると中東で誘拐されたキリスト教韓国人のグループのうち2人目として射殺された男の道端に転がる映像が映し出されていた。

ニュースの後、近くの町に住む年取った知人に電話したけれど返事が無く、二年前に家族で会ったときには夫人の乳がんの事を聞かされていたからその後の経過を心配したもののまた翌日に再度電話を試みることとしてまだ明るい町を一人自転車であちこち廻ることにした。 人通りの少ないショッピングセンターを抜け、海岸のプロムナードで遠く行きかう船を眺め、王室と名のついた造船、補修のドックヤードの広大な敷地の脇を抜け、この島の内陸を島の反対側まで突ききる運河の関門にかかる橋を渡ってこの町の駅に至りこの町の様子をのんびりと自転車で概観し12時前に家にもどって地図で確かめると距離はほぼ10km弱になっていた。 

知らない町をこんな風に夜中、徘徊するのが好きだ。  

 


ゼーランド日記(3) 35kmのサイクリング

2007年08月13日 13時41分50秒 | 日常
2007年 7月30日 (月)

オランダは一概に平らな土地が殆どなのだが海岸が近いと砂丘があり古い砂丘には大木はあまり生えてはいないが草や潅木に被われているところでは遠くから見ると山脈のように見えることがある。 日頃山を見ることのない生活をしているとそのような山の連なりともみえなくもない砂丘が見えてくると逆に奇妙な気持ちにもなる。 それはひとつには、日頃住む国で見慣れない異国に来たような気持ちになることと、もう一つは多分見えている景色が本当の山脈であれば10km以上の距離を置いたものであるように見えるのが実際にはほんの数百メートル先の景色であることだ。 つまりはミニチュア版なのだが比べるものがなければ目の錯覚で高山に見えてしまう、もしくは自分の記憶の慣れからかそう見てしまうからなのだろう。

そのような景色を片側に、それはつまりそのすぐ向こうには砂浜がありすぐ海である、ということなのだが、そしてこちら側には単調な農地がひろがりこの日はこれらの景色を縫って自転車でサイクリングをすることにした。 町を出て砂糖大根や玉葱、玉蜀黍、ジャガイモに小麦などが植わっている広大な空間を抜けてこの小さな半島の南東部を州都ミドルブルグを通ってもどるのが大まかなプランだ。

日頃使っている5段変速の普通の自転車だが坂のない土地で自転車を漕ぐのは快適だ。 その分少しでも勾配があるとその抵抗が脚に感じられるのだがツールドフランスがヨーロッパ中で人気があるように40代ごろまでには軽量ハイテクのサイクリング車で100kmほどを練習に走るのは極普通のことであるし私の周りでも派手な競争用のユニフォームで音を立てて, のんびり走る我々のそばを矢のように走り抜けていくものが多いなか、われわれのようなのんびり型はほぼ年配の夫婦、もしくは年配のグループというところだ。 ここでは年代で言うとハイティーンから30代が欠落している。 逆に車、バイクの運転者の中心はゆっくりサイクリングから抜けているこの年代なのだろう。

こういう田舎でいいのは町をでると喧騒が一気に消えて綿雲が青空に浮かぶ下、草木を渡る風の音か遠くで穀物を収穫するコンバインのかすかなエンジン音ぐらいな物音しかない。 ほんのたまにしかサイクリングする人々も通らず5-7km間隔で通過する村にしても必ずしもカフェーがあるとは限らずゼーランド州がコースにしたサイクリングルートの案内図を見ながらその辺りで唯一軒のカフェで簡単な昼食をビールで摂った。

その後、軽い疲れとアルコールが入った体を軽い追い風に押されるとあちこちに見られる灌漑用の風車が素早く後ろに流れ去る。 

ゼーランド日記(2)フリッシンゲン散策

2007年08月13日 13時35分54秒 | 日常
2007年 7月29日 (日)

日曜日でもあり別段何も予定もなく前日の睡眠不足を補うためかゆっくり昼に目が覚めたら家人は早起きして自転車で新しい町をあちこち乗り回し見て廻ったついでにショッピングセンターにある大手のスーパーで食料、ミルクにチーズ、肉、肉製品にクロワッサンを含むパンに野菜、果物を買ってきて裏の小さな庭でうちから持ってきていた分厚い小説を読み始めていた。

のんびりと濃いミルクティーとクロワッサンで昼食を摂ってから古い町の中心に向けて家族4人で歩いていったのだが途中のシッピングアーケードは日曜でも店が開いているショッピングサンデーだったから人出がおおくてあちこちでいろいろなバンドが街頭でラテンや流行りの音楽を奏でていた。 うちの女子供は日焼け止めクリームを買うためにそのような店に入り、私と息子は時間をつぶすのにバンドの音楽を聴きながら店の前を通りすぎる人たちをぼんやりと眺めていたのだがさまざまな年頃の人々が行きかう中で腹が大きい妊娠中の若い母親がかなりの数あるのに目が付いた。  

早めに夕食を済ませて息子をオランダのほぼ西の端の駅に車で乗せていってそこから5時半の列車でうちまで直通で2時間あまりゆられて帰るのだが、一晩泊まっただけで別段何もせずばたばたと折り返しだ。 彼女にバイト、自動車の教習所などの予定が家でまっているからなのだが忙しいのかのんびりしているのか判断がつきかねる。 それに、9月からユトレヒトで自炊することになるかもしれないのだからその予行演習も家でするのだろうか。 毎週当番で家族の食事を作っているのだから食事に関しては困ることはないのだろうが他の家事は出来るのだろうかというのが私たちの興味の的だ。

夕食後私たちはまた海岸をゆっくり歩いたり町の様子を眺めながらなんやかやと結局10km近く歩き回り、暗くなる11時ごろに帰宅した。 小さい町で散歩できる近くに港や海岸があるのはいい。




ゼーランド日記(1)出発と到着

2007年08月13日 13時17分48秒 | 日常


http://www.vvvzeeland.nl/index.php/?url=/plattegronden/walcheren/&lng=en&zoek=

2007年 7月28日(土)


オランダの中でもゼーランド州は文化、歴史的に重要な場所である。 そもそも地面が低く何世紀も前にまだこの地方がさまざまな島から出来ていてベルギー、オランダ、ドイツやヨーロッパ内部にかけて水上交通の要所であったことはローマ時代やそれを覆うケルト文化からもじゅうぶん証明されており、まだアムステルダムの町が築かれていなかった頃にもう既にこの地方の町々は栄えていたことでありここではここからベルギー、フランスと続く中、南部ヨーロッパの香りをはっきりと残している。一方、新しくは第一、第二次世界大戦の戦禍、戦後の洪水の惨禍の影をも落としている場所でもある。 けれど点々と州都ミドルブルグの周りに点在する町を囲む広大な農地はおだやかに穀物、野菜、花の下にそのような歴史をとどめていて表面はまことに長閑な土地である。

朝7時ごろ寝床に入り3時間ほどしか寝ていなかったためボーっとした頭で10時ごろに起き出して急いで荷物をガタガタと車に積み込み最後に自転車のキャリヤーに2台のせて家を出たのが13時すぎだった。 途中ロッテルダムを抜けているときにラジオの交通情報が入りあちこちで起こっている渋滞のニュースを伝えていて急遽方向をかえゼーランドに直接向かうルートをベルギー方向に転換迂回して途中のパーキングエリアで昼食をとり、その後のんびりとした高速道路を目的地ゼーランド州に走らせた。 

古くから栄えた港町フリッシンゲンに借りていた家は昔年の栄光ある造船業のおかげで立てられた住宅街にあり、天井の高い部屋の多い昔風のゆったりしたものだが長年避暑に来ていたドイツ人家族の持ち家だったものを老人がその歳に勝てず手放したものをその隣人が買取りいわゆる家族用ペンションとして一週間単位で貸すということを始めたものだった。 改修するにしても昔のものを出来るだけ残そうというのか居間には昔のオランダ風に壁にはめ込んだようなカーテンで仕切られたベッドまであり、こういうことからでも他の町に出かけてその町のうちに住むという楽しみを満足させてくれることにもなっている。 家主は隣でぺディキュアの店を持つ180cmは軽くある奥さん夫婦のもので何かと便利だった。

二階、屋根裏の大きな空間に夫婦のダブルベッドに仕切られた小部屋が2つ、それぞれに折りたたみのベビーベッドまであるのだから子供たちにそれぞれ友達が来るとしても下の居間のベッドを加えても8人は暮らせる家だ。 早速荷物をそれぞれの部屋に運び込み荷を解いて散歩に出た。 この町には四半世紀以上前に来たことがありそのときは何時間かだけの滞在だったからかこの町の記憶がほとんどない。 知人に案内されその車で慌しく訪れただけだったのだろう。 ただ、対岸のオランダ領からベルギーを望む港の先端に立つ海の英雄ミヒル・デ ライター海軍提督の銅像は覚えていた。

いわゆる庶民の町を抜け海岸大通りを歩くとオノボリさん目当ての高層ホテルやレストラン、カフェーが並んでいたのだがヴァカンスの時期に入っているもののあまり人通りはなく少々気が抜けたようなところはあったものの喧騒が避けられてレストランにしても待つこともなくすんなりとヨットやクルーザーが係留している古くからの港の近くに子供たちの希望でイタリアレストランに落ち着くことができた。 大概ヴァカンスに出ると目的地へ到着の夕食と出発前日の夕食はレストランで摂る事になっているのだがこの時期は3時間ほどの食事を済ませても外はまだまだ明るいので食後の散歩は快いものだ。 特に食事でアルコールを摂ってその後車にも乗らずに歩いて海岸の大通りで涼しい海風に吹かれながら自宅に戻れるというのはいいものだ。

この日3時間だけの睡眠がたたったのか帰宅後11時ごろ床に就き翌朝、というより正午まで夢も見ずに眠った。


ウィキぺディアで見るとミヒル デ ライター提督の読みがこちらではとても通じそうにもないローマ字になっていて驚いた。 これじゃ「ゲーテとは俺のことかとギョエテいい」という川柳とおなじだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%

さて、また日常に、、、、、、

2007年08月12日 23時27分18秒 | 日常
オランダ国内、ゼーランド州でとりたてて予定もたてぬままゆったりと2週間過ごして、去年のチェコ南部の1000km強に比べると物足りない150kmほどをラジオの交通情報でフランスでは暗黒の土曜日といわれるヴァカンス帰りの渋滞で何十キロもじゅずつなぎになっているのを聞きながらこちらでは別段なんともなく平均時速100kmで急ぐことなくのんびり運転して土曜の午後4時ごろ帰宅した。

車の屋根の上に家人の自転車、車の後の牽引棒につけた金具に自分と娘の分の2台のこれも日常に使う自転車を載せてどこから見てもヴァカンス帰りの雰囲気で快晴の20度の青空の下、車のドアを開けたら隣人とうちの猫がたまたま舗道で遊んでいた。 行きの車に乗って借りた家まで家族4人で行ったものの一晩泊まっただけで自宅に戻り次の週末にまた一晩泊まるためだけに戻ってきてそそくさとオランダの西の果ての駅から自宅に戻っていた、何やかやと忙しい息子も荷物を車から降ろすために出てきてこれでまた日常に戻る、という気持ちがしたのだがこの気分も悪くはない。

住み慣れたところに日常から離れたところからもどってくると或るところから、もしくは或るところで、ああ、戻ってきたと感じることがある。 多分見慣れた風景かもしれないしそれは国境であったり国境でなくてもある世界から自分の属する世界に戻ったところかもしれない。 それは地図で示される場所だけでに限られないのかも知れない。 例えば啄木が、停車場で聞く故郷の訛りを聞いてそれで自分が属する世界を感じる、ということもあっただろう。 しかし、それは自分の今生活するところで故郷を感じるということでどこからか戻ってきた感じることを表しているのではない。 それは帰省した日本で何かの折にほんのたまたまオランダ語を聞いたときに感じる今自分の住む所に対する一瞬の懐かしさのようではあるが。

今回はゼーランド州に行って何日も過ごすというのは私にとっては四半世紀以上前の思い出を辿るという性格も持っていた。 だからそういったこともこれから折々にこの夏のヴァカンスのメモとして綴っていこうと思う。

さて、日常に戻って出発前と変わった事を戻った車のドアを開けた途端に見てそれで時間の経過を感じたことがある。 それは家を出る何日か前に、咲きそろって盛りを過ぎたバラの花を次の開花のために全て剪定しておいたバラの木がどちらかというとこの冷夏の中で大輪を幾つか開花させていたことだ。 2週間前にはどれ位の蕾だったか思い出せないものの緑の葉をつけた枝だけだったことを覚えていることから見ると2週間で既に満開を過ぎ散ってしまったものまでありこの間の時間の経過を形で見せるものだった。 それにもう一つは家の留守を守ると言っていた息子が怠惰に過ごし求められるままに与えていた飼い猫の餌の具合もオバサン猫の腹のたるみ具合でも分かり2週間でこれぐらいに膨れ弛むのかというものだった。