暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

情緒について

2005年04月29日 17時18分47秒 | 日常


別に取り立てて言うこともないけれど、とにかくこの日記を書き続けることを決めたのだから先ず指を動かすということで筆を進める。

日常のことごとは流れる。 竿を挿さなければ細かい日々の事象は流れの彼方に泡と消え、見失しなってしまうことが多い。 この日記をつけ始めてから日常生活の隅々で、これはあとで記そう、とか、この感じを忘れないでおこう、という気持ちになることが多い。 けれど、そういうことは特別でもなんでもないふとしたほんのささいな思いや感覚の記憶であるから、形としてもまとまっていないし結局、次の瞬間には忘れてしまって、感情、感覚、記憶が流れの彼方に消えていくものがほとんどであるし、もう戻ってくることのなく思い出しさえもしないものが殆どであり、別段それがなくても生活に支障をきたすこともない淡い事どもである。 けれど、そういうことを思ったという記憶だけは残っているが内容はすっかり消えている。 そういうことが続くと喪失感だけが漂う。 それでは、その時にこれを記憶しておこうというような気になりさえしなければよかったのだ。

例えば、日差しの変化、空気、外の風の温度、においなど、うまく表現できたらいかほどの喜びかと思う。 ここではうまく、というのは必要ではないかもしれない。 この感覚をまた随意に再現させたいという欲望だけなのかもしれない。 凝縮された言葉であれば、他人はともかく、せめて自分だけでも、かなりの時間がたってから読み返したときに同じ風の、頬に当たる強さ、温度、微妙な光の具合を再び鮮やかに感じることができさえすればいいのだ。 なぜか。 欲どおしいのである、なんどもいいことを経験したいという欲。 言葉でその状態を何度も再生することができれば満足するのだろうか。

あるときに急にわけもわからずに涙がこぼれたことがあった。 別に悲しいことがあったというわけでもなく、また、悲しい思い出がこみ上げてきたということでもなかったのだが、当時住んでいた北の町の秋の夕暮れ、石畳の広場を横切っていたのだ。 そして、この国特有の木靴を履く人の木靴のカランコロンという音、いつも通る日常的な風景の、取り立てて特別なことのない生活のおりおり。 空は深く蒼く澄んで夕闇がせまり蒼が黒に変わる部分もまだ日の残りのかけらをみせる大空の反対側にはあったのだろう。 空気はあくまで澄んで温度が下がりつつあった。 そこで涙が流れた、まるで急にシャツのボタンが落ちるように。

自分は感傷的であるとは思わないし、家人にも時には表になにも現さない私の性格を非難されることもある。 けれど、これだけは生まれ育ちでもあり、年をとってからは体裁を考えることも多くなり、やたらとしゃべる人間は好まないから自分にもそう自覚して口を謹もうとする。 しかし、それは人の言動についてののことで、情緒のセンサーの反応には関係がないかも知れぬし感受性には関係が無い。

悲しい涙やくやしい涙を流した事は人生のおりおりで経験しており、それぞれの場合にはその理由ははっきりしているからその場が終われば決着はついたものとして、日常ではないもの、行動パターンの一つとして理解、整理されているのでことさらとまどいもないし、あとから懐かしく思い出すことも無い。 けれど、それに反してこの、密かな無意識のうちの感動というものは自分の内の別の人格を理解、分析しようという欲望の頭を起こしにかかる。

私は今、ここで感動という言葉を使った。 さきほどの涙の解析結果を感動としたのだ。 悲しみでもない、慙愧でもない、歓喜でもない感情の急激な迸りをとりあえず感動と括っている。 

この涙に脈絡はあるのか。 人間関係にからむ要素はないとみた。 社会的な孤立、閉塞、関係の煩雑ささも排除される。 自覚しているのは記憶である。 関係や物語の記憶ではない。 これはいつかどこかで経験したことの体感の再現であり、自覚しているのは、その記憶を共有するのは光、色彩、温度、湿度であろうということ。 夕闇迫る黄昏どき、透明な光、蒼とそれをしずかにつつむ漆黒、夏は完全に撤退し秋も熟したという涼しさ、乾いた肌触り、これらの要素の総合が広場の中心での突然の涙となるのである。 

これでメカニズムが解明できたのであろうか。 ここまでは当時、20年以上も前に家路にもどる歩道をたどりながら思ったことであり、今もそこからほとんど先に進んでいない。 そして、同様の条件をその後、何度も経験してその都度、感動の兆しは実感しているものの、未だに再びの涙には至っていないのであるからこの解析は未完である。 




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