暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

待ってるからいつでも来てくれ

2011年12月02日 03時17分20秒 | 思い出すことども
ドイツとの国境あたりを3日ほど歩きに行く前、気になっていた友達に電話をして様子を尋ねた。 それは自分が足首を挫いて射撃クラブに出かけられなく3週間ばかり休んだあと、車を運転できるようになってクラブに行くと、お前と同じようにヘンクもこの3週間ほど来てないな、どうしたのかな、というのでヘンク爺さんに電話をしたのだった。 

ああ、どうもいい方には向いてないけど、カミサンと二人のんびりしているよ、歩けなくなったしもう車も運転できないからぶらぶらしてるんだわ、ま、家の中なら階段の上がり下がりもできるしな、痛み止めの薬もかなりあるから食い物の味もかなり変わって不味いものが増えた、ま、魚は喰えるけどな、で、お前の方はどうだ、というので、来週あたり行ってもいいかい、何時頃ならいいのかな、と訊くと、ああ、どこにも行かないしいつもここにいるからな、待ってるからいつでも来てくれ、と元気な声で言うのでその後ろに聞こえる奥さんの方にもじゃ、近々、といって切った。

ウォーキングから戻り仕事や他にもすることがあるから爺さんの家に行く日を算段して、明日の金曜日がいいだろうと考えていた。 久々に寿司を作って爺さんに食わせてやろうと計画していて、2日ほど前に日本から輸入のものも扱っている中国食材店で買っていたときにそこの中国人のカミサンが、また寿司の先生するの、と訊くので、いや、もう死ぬ友達がいるから食わせてやろうと思ってね、というといつも笑っているまだ40代のカミサンの顔がこわばってそんなこと言うもんじゃないよ、と叱られたけれど、私らみたいに還暦を過ぎれば何時死んでもいいような誰かがいつも居るもんだ、と言うと、そうかもしれないね、ま、美味しいものを食べさせやればいいよ、と言われてそこを出た。

おれ、もう駄目だ、手遅れだ、あと半年だ、と言われたのは4月の初めで、クラブの親しい連中にも言ったから、ま、それまでぼちぼちといくか、とそれから普通に接していた。 6月の半ばから8月の半ばまで日本の家の整理をしに帰る前にもクラブで、また夏過ぎにな、と言って分かれるときにはこれが最後だという気はせずこちらに戻ってからクラブで顔を見たときにはほっとしたものの普段と変わらず相変わらずの馬鹿話とこの20年来の調子だったものだからこちらもいつもと同じ調子で過ごしていて自分が脚を挫く前に話したときには、ま、別に自分はどうなってもいいけれどカミサンを独り残すのが不憫でそれが辛い、と言った。

干し椎茸を湯でもどし、寿司酢もあわせて作る算段もできて明日は朝、港に行って生魚を買ってきて手早く造り午後にいけばいいだけにして、念のため爺さんに明日家にいるかどうか確認しようと思った。 病院にでかけて留守、というようなこともあるし、家族や知人の訪問もあるかもしれないからだ。 電話のほうに向かっていると表のドアの隙間の郵便ポストにどさりと広告や郵便が落ちる音がするから束をひろい上げるとその中に葬儀案内の灰色の線が入った封筒が見られた。 少なくともそういうことが起こっても不思議ではないような年寄りが何人かいるから義兄弟の親の一人だろうと思いながら開けて驚いた。 これから電話をして確認し、明日そこに行くはずの当人の葬儀案内だった。 暫くものごとが手につかなかった。 

幸いなことに家の中には猫と自分だけだったからなんとか治まった。 寿司の用意はそのままにして夕食の準備をしていると家人が帰ってきて居間に入り封筒を見て涙目でこちらに、そんなに悪かったの、こないだ元気だと言ってたじゃないの、とこっちを責める。 だから明日寿司持ってご機嫌窺いに行こうと思って準備していたぐらいじゃないか、と言い返したのだがやりきれなく二人とも黙ってしまった。

ヘンク爺さんは銀細工職人でアムステルダムの大手の宝飾店でオランダ王室の装飾品をも作っていたのだがもう何年も前に定年になり、暇にあかせて町の時計屋の二階で若い職人に色々なアドバイスをしてもいて自分が暇なとき、そこを通りかかった時にはたまにその作業場で作業机に向かう若い女の子に指図している爺さんの姿も見ている。 互いのジャンルは違うものの家人は様々な金属で装飾デザインをするからクラブのパーティーなどでは爺さんは家人と二人で話すこともあった。 話が好きでいろいろなことを教えてもらった、さすが昔の職人さんはすごいわ、というのも家人から聞いている。 だからそれでその方向が変われば古式銃マニアになるのだ、といっても家人にはそれが分からないようだ。 

もう7,8年前だろうか、息子と二人テントを持ってこのあいだ歩いたドイツ国境近くから遠くない森のはずれで古式銃をやる連中が毎年主催するウエスタン・ウイークエンドにでかけたことがある。 ここに土日に泊りがけで来る連中は必ずテント持参、見物人は別として参加する連中は必ずウエスタンに相応しい格好をしてくることとあるからそれぞれ趣向を凝らしてインディアン、カウボーイ、保安官、騎兵隊、南北戦争当時の格好、悪漢、それに爺さんがいつも扮装していたデイビークロケットばりの猟師と様々だった。 こちらはごく普通の西部の町の住人、映画のエキストラのような格好で地元の警察からこの日だけは許されていた銃器をガンベルトや手に持って森の彼方此方で射撃をしていたのだが、競技の一つである早撃ち競争をした。 二人横に並んでそれぞれの2mほど前の風船を空砲で射抜く早撃ち競争で、前の信号機に青信号がつくや否や的を空砲のフェルトのタンポンで射抜くというものだ。 自分はガンベルトや銃に早撃ちの細工をしたり改造をしたりするのが嫌でそのままのものを使っていた。 抜くのが遅いから殆んど負けるのだが、けれど相手が的を外したときはこちらが勝つ、というような状態だった。 0.4秒では遅すぎて0.35秒ぐらいでないと競えない、というような世界だ。 あるときあせっていてホルスターを抜くやいなや引き金を引いたのだろう、いや、まだコルトピースメーカー、騎兵隊仕様の1873年モデルのリボルバーがホルスターの中にあるときに引き金を引いてしまったらしく気がついたら古いブルージーンズの右ひざに穴があいて小さな火が燃えていた。 慌ててジーンズの火を消しよく見ると穴越しに丸い新鮮な傷ができていて血もかなり出ていた。 けれど痛みは全く感じない。 そのまま慌てて監視人と町の診療所にでかけ止血をして終わった。 医者は痛くないのはそのあたりの神経が壊れているからだという甚だ大雑把なことを言ったけれど当初はそのとおりだと思ったのだが徐々に痛みが戻って痛み止めを飲んで凌いだ。 そのキャンプ地に戻るとヘンク爺さんが来て手をさしだして、クラブにようこそ、と杓子定規なことをいうから、何だい今更、 いやいや右ひざに傷のある者のクラブだ、といって出す爺さんの右の膝をみると同じところに傷がある。 その周りの何人かもひざをだし傷を見せてニタニタしている。 そういう自分の恥ずかしい傷を舐めあうばか者のクラブなのだ。 で自分もその会員資格を得た、ということでそのあと皆からビールで乾杯された。 はからずも同じ経験をした仲間が人には言わずただそれだけで認め合うそんなクラブだ。 

そういうことを葬儀案内のセピア色の写真を見ていて思い出した。 それは多分もう3,40年前のそういうキャンプの写真だ。 7,8年前にはそのブームもかなり去って昔風のオリジナルなテントはこれの三分の一ほどに減っていてあとは我々のテントと同じく味気のない普通のモダンな形のビニールテントだった。 この写真も爺さんがこの知らせのために自分で選んだもののようだ。 インディアンテントの一つで寝泊りをしていたのだろう。 7,8年前に右ひざに穴を開けたときには爺さんは歩く博物館のような格好をしていたものの嘗てのようにはそれで森の中でのサバイバルゲームのようなことをしなくなっていた。 この写真を見る限り爺さんの一番力の充実していたときの道楽の様子がこの写真から窺える。 

これを開くと葬儀の場所、日時とともに「76年間の普通の一生だったけれど特別な人でした」との夫人の言葉が添えられていた。

合掌