ここで書きたい歌集はたくさんあるのですが、月に一度くらいしかゆっくり書けません。
短歌関係の人からブログ読んでいます、と声を掛けられることが最近何度かあって、ほんとにまったく何の役にも立たないのに(なんの役にも立たないところがいいですって不思議な褒め言葉をもらったりもするのですが)、申し訳ないと思って、きょうは島田幸典さんの『駅程』のことを書きます。
・蜻蛉が翅(はね)を休めるしずけさに水にまつわる宛名を書けり
・白馬(あおうま)が首(こうべ)を垂れて食む草の音はも草の根の切れる音
・みずからの暗さに水は暮れながらエイヴォン川は舟載せてあり
・もの言はぬ湖にしてゆく船の起こせる波に水は尖りぬ
歌会などで島田さんとご一緒するとき、一首の歌を机の上に立ててあらゆる角度から「検証」して批評されるなぁと驚くことが多いのですが、それは島田さんの作歌姿勢なのだということが島田さんの作品を読めばわかります。
細部まで行き届いている、というのでしょうか。 シャキッとしているんですね。1首目は蜻蛉が翅を休める静けさというかそかな動きと水辺をイメージさせておいて「宛名を書く」という意外な展開に持っていかれます。意外だけれど宛名を書いている情景、たぶん夜で一人で静かな時間がたち現われ、白い封筒にペンの先が触れることを思うとき、それはまるで蜻蛉が水辺に翅を休めているようではないか、と思うわけです。
2首目は、白馬が草を食べている音を聞いている歌ですが、聞いている音は食べている音ではなくて、草の根の切れる音なのですね。 馬が草を食べてる食べてるって思うところを草の根が切れてる切れてるって思う。 そこのところが島田さんの掬い取り方なのでしょう。
3首目、4首目は「てにをは」の使い方にこだわりがあります。 「てにをは」を巧く使って「川は舟載せて」とか「船の起こせる波に水は尖りぬ」といった、一瞬目にみえているものをひっくり返したような言葉の運びになっています。 そうすることによって川の平たい面の暗さが浮かび上がり、川が仰向けになって胸に舟を載せているような不思議な感覚が生まれます。 船が通っていくときに起こした波も、「水は尖りぬ」とすることで、波と水が別物のような、尖った三角の連続が迫って来るような臨場感を覚えます。
・秋分の防潮堤をよじのぼる手に思わざる日のぬくみあり
こういう自然に実感を詠んだ歌もいいなぁと思います。
・トンネルとトンネルの間のみじかきに朽ちたる家を車窓は映す
・谷川を越ゆる列車は父と子と水に遊ぶをつかのまに見す
・この町に去らるるごとくその町を去らねばならぬ時は到りぬ
また、目に映ったものを歌にするとき、自分が見たとしないで、「車窓は映す」とか「列車は・・・見す」と詠み、たまたま見た情景があらかじめその瞬間に立ち会うように仕組まれていたようにするところは、少し屈折しているように思えますが、もう二度と見ることのない一瞬を歌に閉じ込めているとも言えます。 町を去るときでさえ、「町に去らるるごとく」というように冷静で、感情が溢れたりしません。
・青麦が突っ立っていた ゆく春の風のしりえに従いゆけば
こういう歌もあって、私は好きなのですが、島田さんにはシャキッとした歌を作り続けてほしいと思います。