★明治天皇崩御時の写真で腕に喪章を付ける漱石
寒さが身に沁みる季節になりましたね。私はすでに真冬の装いで街を闊歩しています。
いつもの如く、すでに終わってしまった展覧会についてですが、少しだけ書きたくなり、
書き始めたら終りが見えなくなったので、やっと今、upすることに決めました。
ずっと気になっていた、「文豪・夏目漱石~そのこころとまなざし」展。最終日の前日に、江戸東京博物館まで見に行ってきた。博物館の建物と、気の利いたカフェもないあの辺りを想像し、いつもどうしようか、と迷ってしまうのだけど、土曜日は夜の7時半まで開館しているので、行く決心がついた夕刻からでも間に合ったが、展示物が膨大で、閉館の時間まで見ていても時間が足りない位だった。 昔、父が、「太宰や芥川なんかを読んでいると、生きているのがイヤになってくる。その点、夏目漱石はいいぞ。」と言ってたが、いつも途中で挫折していた。漱石の本にかぎって挫折するはどうしてだかわからないのだが、人間としての彼には常に興味があった。
漱石と子規の友情は「寄席通い」がきっかけだった ![]() 明治37年10月22日付けの 寅彦宛のハガキ (高知県立文学館蔵) |
会場は 美しいこれらの装丁本が漱石と橋口五葉の共同作品・・・と言うことは、漱石がどれだけ美術に感心が深かったかを意味している。 1912年 「山上有山図」 |
漱石を朝日新聞入社へ導いた、池辺三山(朝日新聞主筆)のことも初めて知った。「巴里通信」を書いていた彼を漱石は高く評価していたそうで、顔も、手も、肩も、すべて大きい尽くめの三山にすっかり安心したという。朝日新聞社長に、「夏目漱石君ニ百円くらいの俸給ならば大学教授を辞職して入社いたし候べき見込有之・・・」等、したためた推薦状も展示されており、二人は、「心を許した間柄」だった。が、それから5年経たずして三山は心臓発作で急死。同時期に漱石の五女ひな子も幼くして急死。これらの出来事が漱石の心と体に最大のダメージを与えたようだ。最後まで神経衰弱と胃潰瘍に悩まされたけど、これだけ人々に愛された人柄は、幼くして養子に出されたりして苦労したことも影響しているのではないか、と思う。信頼できる人を自分で見つけるしかない環境から、人を見る直感力が養われ、その上、真面目だがユーモアセンスの旺盛さが人を引きつけて止まなかったのだろう。彼の講演はなかなか面白くて人気があったというのも頷ける。
漱石について、その人となりをいろいろな方面から見る事が出来た展覧会だった。
書いても書いても書き足りない。あれも、これも、と、浮かんでくるけど興味ある方には物足りないだろうし、皆が当然知っていることばかりを、もしかしたら嬉々として書いているのかなぁ。
会場の最後のところで漱石のデスマスクと対面してしまった。
1867年(慶応三年)江戸・牛込馬場下に生を受け、1916年(大正五年)49才に没した漱石。明治時代の初めから明治の終焉までを見届けたその顔は、おもったより穏やかだった。が、同時に忘れられない顔になってしまった。
いつだったか朝日新聞の「今も昔も」というコラムで、寺田寅彦の漱石に対する気持ちが、茨城大准教授・磯田道史氏により、以下のように紹介されていた。(一部抜粋)
無名時代から漱石を慕っていた寺田寅彦は、自分の「夏目先生」が祭りあげられて
ゆくのが、つらくてならなかった。漱石の死後、こんなふうに書いている。
「自分にとっては先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが、英文学に通じて
居ようが居まいが、そんな事はどうでもよかった。況や先生が大文豪になろ
うがなるまいが、そんなことは問題にも何もならなかった。寧ろ先生がいつ迄
も名もない唯の学校の先生であってくれたほうがよかった(中略)。
先生が大家にならなかったら少なくももっと長生きをされたであろうという気がする」。
元来、神経質な漱石は文豪にされ、無理に無理を重ねた、命を縮めた。
寅彦は、漱石から二つのことを教わったと書いている。自然の美しさを自分の目で発見
すること。人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛
すること。この二つである。
★亡き師に献呈したという芥川龍之介の「羅生門」 ★10月17日付け朝日新聞より