ビアンカの  GOING MY WAY ♪

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夏目漱石展

2007-11-25 | art/exhibit/museum


★明治天皇崩御時の写真で腕に喪章を付ける漱石

寒さが身に沁みる季節になりましたね。私はすでに真冬の装いで街を闊歩しています。
いつもの如く、すでに終わってしまった展覧会についてですが、少しだけ書きたくなり、
書き始めたら終りが見えなくなったので、やっと今、upすることに決めました。

  

ずっと気になっていた、「文豪・夏目漱石~そのこころとまなざし」展。最終日の前日に、江戸東京博物館まで見に行ってきた。博物館の建物と、気の利いたカフェもないあの辺りを想像し、いつもどうしようか、と迷ってしまうのだけど、土曜日は夜の7時半まで開館しているので、行く決心がついた夕刻からでも間に合ったが、展示物が膨大で、閉館の時間まで見ていても時間が足りない位だった。 昔、父が、「太宰や芥川なんかを読んでいると、生きているのがイヤになってくる。その点、夏目漱石はいいぞ。」と言ってたが、いつも途中で挫折していた。漱石の本にかぎって挫折するはどうしてだかわからないのだが、人間としての彼には常に興味があった。



   装丁『四篇』


 『草合』

 どれも興味深くて、いちいち書いていては又、長文
ブログになるからやめるけど?、漱石の妻、鏡子との
縁談の話しに、へぇ~~と、感心というか疑問という
か、とても呆気にとられた。初めて鏡子に会った時の
印象を漱石は、「歯並びが悪くてそうしてきたないの
に、それをしいて隠そうともせず平気でいるところがた
いへん気に入った」と言っている。どういうことだろう。
朝寝坊の鏡子の事を、「オタンチンノパレオロガス」と
からかったが、彼女は何だかわからず 英語かなんか
だと思っていたが、後で、東ローマ帝国皇帝コンスタ
ンチン・パレオロガス」の洒落だと知ったそうだ。
どうして鏡子と世帯を持ったのかわからなくなる。きっ
と神経質な漱石の持っていない図太さ、無神経さ,
よく言えば何事にも動じない、肝っ玉の大きい性格
だったので 釣り合いがとれたのかな、と思う。

漱石と子規の友情は「寄席通い」がきっかけだった
そうだ。お互いに書いた詩文集を批評しあい、才能
をぶつけ合うことで2人の友情は更に深いものになって
いった。 素敵だ~。  脊椎カリエスを患い、もう先
は長くないことがわかってからも、病床にありながら、
あづま菊を書いた
こんな絵手紙を送っている。
最後の手紙には、「僕ハモウダメニナッテシマッタ」。
「今一便」書いて欲しい、と書かれていたが、ロンドン
で神経衰弱になっていた為か、漱石は返事をしなか
ったことでずっと後悔し通しだったという。しかし、子規
の死後、先のあづま菊の絵手紙と最後の手紙に加え、もう一枚の書簡を一幅の軸に仕立て上げて生涯
大切にした。

教え子の寺田寅彦によると、二人の間は「お互いに
畏敬しあった最も親しい交友」だという。
その寺田寅彦がドイツへ留学する時、漱石にオルガン
を預け、代わりに彼にトランクを貸したそうである。
この二人の師弟の間柄も素敵~!ドイツと東京で
交換していた
書簡も展示してあったが、師弟とは言え
ない、それ以上の温かい友情を感じ、私はだた羨まし
さを通り越して妬ましささえ覚えてしまう。下の絵手紙は、漱石が水彩画を始めてから一年ほどたった頃の絵手紙だが、絵心のある絵だと思うし、書もとっても上手くて味がある。
漱石は絵筆を持つことで心の安定を保ったらしい。

      
       明治37年10月22日付けの
       寅彦宛のハガキ
       (高知県立文学館蔵)

会場は 
 ①生い立ち・学生時代
 ②松山・熊本、ロンドンでの生活
 
③作家漱石の誕生
 ④漱石が描いた明治東京
 ⑤漱石山房の日々
 ⑥晩年~死    
の六つのセクションに分れて展示。
 

自筆の書や絵、原稿、漱石文庫からの沢山の洋書や美術カタログ類、お互いに交換した手紙類から垣間見る、正岡子規の死後まで続く2人の友情の様子、橋口五葉や津田青楓の手掛けた美しすぎる本の装丁と、浅井忠や中村不折の上手い挿画などなど、こんなに多くの資料が残されて、それが今回存分に拝見出来たことで、思いきって駆けつけて本当に良かった。
 

美しいこれらの装丁本が漱石と橋口五葉の共同作品・・・と言うことは、漱石がどれだけ美術に感心が深かったかを意味している。
 
   
 
「硝子戸の中」の見返し部分

 


上:大阪滑稽新聞に掲載された
「夏目漱石像」を面白がって模写
し、小宮豊隆宛の手紙の冒頭に
描いたもの。なんてユーモア精神
あふれた漱石ネコだろう!
その猫が死んだとき、漱石は知人
らに死亡通知を出し、東京朝日
新聞には死亡記事まで載った。
最後まで名前を付けてもらえなか
ったが、100年後の今も愛されて
いる幸せな猫だ。
そうだ。


1912年 「山上有山図」
(岩波書店蔵)
津田青楓の指導で最初に
描いた南画。

漱石を朝日新聞入社へ導いた、池辺三山(朝日新聞主筆)のことも初めて知った。「巴里通信」を書いていた彼を漱石は高く評価していたそうで、顔も、手も、肩も、すべて大きい尽くめの三山にすっかり安心したという。朝日新聞社長に、「夏目漱石君ニ百円くらいの俸給ならば大学教授を辞職して入社いたし候べき見込有之・・・」等、したためた推薦状も展示されており、二人は、「心を許した間柄」だった。が、それから5年経たずして三山は心臓発作で急死。同時期に漱石の五女ひな子も幼くして急死。これらの出来事が漱石の心と体に最大のダメージを与えたようだ。最後まで神経衰弱と胃潰瘍に悩まされたけど、これだけ人々に愛された人柄は、幼くして養子に出されたりして苦労したことも影響しているのではないか、と思う。信頼できる人を自分で見つけるしかない環境から、人を見る直感力が養われ、その上、真面目だがユーモアセンスの旺盛さが人を引きつけて止まなかったのだろう。彼の講演はなかなか面白くて人気があったというのも頷ける。
漱石について、その人となりをいろいろな方面から見る事が出来た展覧会だった。
書いても書いても書き足りない。あれも、これも、と、浮かんでくるけど興味ある方には物足りないだろうし、皆が当然知っていることばかりを、もしかしたら嬉々として書いているのかなぁ。
         
会場の最後のところで漱石のデスマスクと対面してしまった。
1867年(慶応三年)江戸・牛込馬場下に生を受け、1916年(大正五年)49才に没した漱石。明治時代の初めから明治の終焉までを見届けたその顔は、おもったより穏やかだった。が、同時に忘れられない顔になってしまった。

いつだったか朝日新聞の「今も昔も」というコラムで、寺田寅彦の漱石に対する気持ちが、茨城大准教授・磯田道史氏により、以下のように紹介されていた。(一部抜粋)

 無名時代から漱石を慕っていた寺田寅彦は、自分の「夏目先生」が祭りあげられて
 ゆくのが、つらくてならなかった。漱石の死後、こんなふうに書いている。
   「自分にとっては先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが、英文学に通じて
   居ようが居まいが、そんな事はどうでもよかった。況や先生が大文豪になろ
   うがなるまいが、そんなことは問題にも何もならなかった。寧ろ先生がいつ迄
   も名もない唯の学校の先生であってくれたほうがよかった(中略)。
   先生が大家にならなかったら少なくももっと長生きをされたであろうという気がする」。
 元来、神経質な漱石は文豪にされ、無理に無理を重ねた、命を縮めた。
 寅彦は、漱石から二つのことを教わったと書いている。自然の美しさを自分の目で発見
 すること。人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛
 すること。この二つである。

          
         ★亡き師に献呈したという芥川龍之介の「羅生門」           ★10月17日付け朝日新聞より