ビアンカの  GOING MY WAY ♪

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   人生は ・・・ダバダバダ・・・

八丁堀で途中下車

2015-01-12 | visit/drive

 

電車に乗りながら行き先の順番を考えたり、行き先を変更したりすることってありませんか?この日は初詣にいきそびれていたので、日本橋の日枝神社にでも寄ってからデパートの美術展にいこうかなぁ~~と、頭の隅で薄っすらと考えながらJRに乗りました。そして、途中下車、するか、やめるか。どうしよう・・・と、直前まで迷っていましたが、八丁堀に着くや、えいっ!と下車してしまいました。
ハハハ・・・。

まずは茅場町方面へと歩き始め、歩道に沿ったところに、なぜこんなところに?と思われてもおかしくない稲荷神社を発見。

個人宅の玄関の前に稲荷神社とは・・・
階段を上がってみたかったけれど、なにせ個人宅の玄関につながる階段でもあるので、結局やめました。お賽銭箱が、確かにあるんですよね~。気になるなぁ。


更に、なるべく運河に沿って歩こう、と足を進めました。ショーケースというのか、ウィンドウに面したところに色々なモノがぎっしり詰まったお店を見つけ、ガラス越しに中の様子を観察。お客の入りが多いのできっと美味しいんだろうな~と、次回のために店名をチェック。


そして、やっと見通しの良い場所に出ました。そこは《亀島橋》。

八重洲通りが亀島川を渡る橋。架橋された年代ははっきりしていないが、元禄の時代に架橋され、赤穂浪士が仇討ち凱旋時に通った橋と伝えられているそうです。大正12年の関東大震災で被害を受け、昭和4年鋼上路アーチ橋として架け替えられました。
(webより) 


私が橋のたもとで見つけたのは、芭蕉の句。

八町堀を詠む

    菊の花 咲くや石屋の 石の間(あひ)

深川に芭蕉庵があったころ、ふらりとこの辺りにやってきたのでしょうか?
句は、元禄六年(1693年)、芭蕉50歳の秋に詠んだとのことですが、この翌年、芭蕉は旅先の大阪で亡くなっています。

橋の向こう側には赤穂義士・堀部安兵衛武庸の碑があると、あとで知りましたので、写真をwebより拝借。

 
赤穂義士・堀部安兵衛武庸(1671年~1703年)は当時の水谷町(現在の八丁堀一丁目)に居住し、赤鞘安兵衛と称し、剣道の達人として知られていま した。元禄7年、有名な高田馬場の仇討ちで、彼の武勇は江戸中に伝わりました。昭和44年、八丁堀一丁目町会によって碑が建立されました。

 

次は、新亀島橋です。船が浮んでいる風景って絵になりますね~。

その橋のたもとに、こんどはこのような追悼碑を見つけました。

右側の碑文には、 

大震火災遭難者追悼碑
大正十三年九月一日建之

左側には、

戦災遭難死者慰霊碑(裏面)
昭和二十年三月十日夜半の空襲により
全町焼失の際に遭難された霊を慰むる碑
昭和五十三年三月十日
茅場町二、三丁目町会有志建之
発起人代表 神林 清作
石匠 高橋 正男  

と、ありました。   

大正12年9月1日午前11時58分、相模湾北西部沖を震源とするマグニチュード7.9の巨大な地震が発生した。この地震で被災者は190万人、死者10万5000人、倒壊した家屋約10万戸、焼失した家屋が約22万戸にのぼった。

この地震で被害を大きくしたのは火災による死者であった。東京市の79.4k㎡の内、40%にあたる34.7k㎡が焼失した。特に、隅田川を挟んで日本橋から浅草区(現台東区)、本所区(現墨田区)は壊滅状態となった。(webより)

逃げ惑う人々が、あまりもの熱風に我慢できず、隅田川に飛び込むも、川の温度が熱湯のようになっていた、とか、その惨状はテレビや書物などを通して知っていましたが、このような碑を改めて拝見すると、身が引き締まる思いです。阪神大震災、東日本大震災、と、ここ20年のあいだに、日本列島は二つ以上もの大震災に見舞われたし、今後も更なる大震災が、かなりの確率で関東近辺で起こり得る、と言われ続けているのですから、本当に恐いことです。

ほどなく、前々から来たくてたまらなかった古い建物を見つけました!
正面右側が「Wall Street」というイタリアンレストラン。午後五時開店のお店のよう。外見は本当に雰囲気があるんですよね。

 

1927年(昭和2年)に竣工とのことなので、関東大震災の後に作られたのですね。

中に入ってみますと、いたってシンプル。
何も書いていなさすぎで、目指すところが何階にあるのかわかりません。

とりあえず階段を上って行こう。

天井の配管、配線がむき出しの懐かしい構造!

モノトーンの中に映える赤と青にペイントされたドア。

ショップの入口を撮り忘れましたが、目指す「森岡書店」は3階にありました。
当日のスケジュールなど何もチェックせずやってきたので、書店らしからぬ店内にびっくり。ヴィンテージものなどの展示イベント中でした。それはそれで面白かったのですけれど。

展示品の中では、下の画像にある、小さなほうの額画が気に入りました。が、お値段聞きそびれました。

若い方々が昭和初期の建物の雰囲気を好んで利用する動きはとても心強いです。良いものをいい、と感じる気持ちに年齢はありませんね。

更に上の階へと上り、唯一、1階に案内のハガキが掲示されていたショップのドアを開けました。中が覗けないドアって、開けようかどうか考えちゃいますが、ここまで来たんだから・・・開けるしかないでしょう。

開けて中に入ると・・・うゎっ、フェミニン♪

フランスアンティークの布や裁縫材料、雑貨等を取り扱っている、週三日のみ営業のショップでした。

ところがところが、なんと、数日後に移転するとのこと。

下の書店もそうだけどこのような場所って、通りすがりに、というわけには行かない、わざわざ出向くしかないような場所だから、商業目的では難しい気もしないではないですが、オフィスでない限り、イベント用にスペースを貸すとかしないと大変そう。とは言ってもこういう場所って、好き!なくなってほしくないです。


女性オーナーの方が、移転先は普通の建物だけど、入口のガラス戸だけは持っていくつもり、と仰っていました。私が店を出る時、彼女も森岡書店での展示イベントにまだ行っていないから、といい、ドアに張り紙をし、戸締りして、階段を降りて行きました。なんて悠長な~。代わりにここを借りてお店したい気持ちになりました!何のお店にしようかな?

霊岸橋から見た第二井上ビルです。前から見ても、横から見ても惚れ惚れしちゃうわ~。

次は、茅場町から永代通りを渡って、日枝神社日本橋摂社で遅い初詣。

ビルの谷間に位置するような、こじんまりとした神社ですが、寛永年間(1624-1645)に山王日枝神社の御旅所と定められ遥拝所が設けられたといいますから、歴史を感じます。



人出はほとんどなく、たまに境内に入ってくるのはほとんどがサラリーマン風。
おみくじだけ買いましたら小吉と出ました。

それから向かったのは目的地の高島屋。コレド日本橋の、永代通りを挟んだ真ん前のビルも完成していたのですね。

下が高島屋を永代通り方面からながめたところ。
もとの立体駐車場のあたりや、その他、高島屋周辺は更地だらけ。日本橋室町方面に流れたお客をとり戻すべく、長期に亘っての大
開発がここでも進められています。

車で来る時は、このトタン張りの建物の前を通って、デパートの屋上Pに停めるのが常ですが、見慣れた風景も、どうがんばってもいつか消えてなくなるのでしょう。

がんばれ~っ、って言いたくなっちゃう!

 

 

やっと着いた最終目的地(前回ブログ記事)で、この日の途中下車の旅はお終い。
前回ブログからまた日にちが経ちすぎてしまいましたが最初の投稿日時のままにしておきます。


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