ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

62年目の夏

2007-08-09 | weblog

 
長崎に原子爆弾が投下されてから62年目の夏。
あの頃の原爆とは比べ物にならないほど恐ろしい核兵器を この地球上で周囲の反対を
押切って保持しているいくつもの国々の駐日大使も、今朝、平和公園で行われた
慰霊平和祈念式典に参加したという。
廃絶への訴えを半世紀以上続けても一向に変わらぬ世界。
そこが我々人間
のすみかなんだ。
各駐日大使が、被爆国日本を拠点として 少しでも核廃絶への道を自国に強力に
提案し、実行すべく行動を起こしてほしい、と、心から願いたい。

webより

きょうの朝刊の中で、パール・バックが書いた小説 『神の火を制御せよ―原爆をつくった人びと』
が、発表から半世紀近くを経て日本で出版された、という記事を見つけた。
戦後は反核運動に取り組んだバックが、史実に基づき描いた科学者たちの愛と葛藤の本。
原書は1959年に「Command the Morning」というタイトルで米国で出版。ドイツやフランスでも
翻訳本が出され、60年代の欧米の反核運動に影響を与えたそうだ。
今、やっと日本において全訳本が出版とは、唯一の被爆国ゆえか。

物語は、バート、スティーブ、ジェーンの3人を中心に、当時の一線科学者たちが時代の
渦の中で米国の原子爆弾製造計画(マンハッタン計画)に加わり、科学の枠を集めて
作り上げた原爆が意に反して広島と長崎に投下されるまでを描く。
原爆の実践使用に反対する嘆願書にジェーンは署名するが、バートはせず、スティーブ
は迷う。戦後、バートは長崎を訪ね、深い後悔の念に駆られるが、「戦争を終わらせる
方法はほかになかった、仕方なかった」と考える。原爆を使わないよう米政府に働きかけた
スティーブは消沈し、一貫して投下に反対したジェーンは一時インドに逃れた後に光合成
の研究に取り組む。
 
この本の監修者であり、がんの研究者でもある丸田さんは、
・・・科学者はどんな発明や発見をしても、それを自らが制御できなくなる危険と常に
背中合わせだ・・・と指摘。径書房代表の原田さん曰く、
「真珠湾か広島・長崎か、被害者か加害者かという二項対立の原爆論から
 抜け出さないと、建設的な論議は難しい。本書がその一助になれば」

 ◆

どんな大きな過ちでもそこに至るまでに、過ちに気付き、
時には過ちを正すことができる瞬間があるものです。

私が自分を中心にものごとを考えたり、したりしている限り、
人生は私にとって耐えられないものでありました。
そして私がその中心をほんの少しでも自分自身から外せることができるようになった時、
悲しみはたとえ容易に耐えられるものではないにしても、
耐えられる可能性のあるものだということを理解できるようになったのでありました。

悲しみにも一つの錬金術に似たものがある。
悲しみも英知に変わることがあり、それはかりに快楽をもたらすことはないにしても、
幸福をもたらすことができるのだ。

(パール・バック)



7月30日に作家、小田実氏が亡くなった。闘病中でも、最後まで意気盛ん。
実際、6月下旬まで朝日新聞の「人生の贈りもの」欄に5回シリーズで執筆していた。

・・・私の経験では、ありふれた日常の中で進行し、戦争へと突入していった。
  ヒトラーだって、議会制民主主義のルールの中で平和的に政権交代したんですよ。・・・

         ・・・・・でも結局、正義の戦争なんてないんだよ。・・・・・

「・・・何のために死んでいったのか。」
自らの戦争体験を通して語ってくれる人が一人亡くなった。
平和を祈る気持ちは、法律がどうの、という前に、皆がきっと持っていると思う。
素晴らしい平和の先駆者の言葉を無駄にしないように行動できれば、そして
子へ孫へ、と、微力なりとも伝えていければ、と切に感じている。

 

悲しいニュースが重なるように続きます。

軽井沢町で人が熊に襲われたというニュースを昨夜聞きましたが、
土曜日にその軽井沢に行ってきます。芥川龍之介も宿泊した宿に。