ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

また行こう!葉山館

2006-03-29 | art/exhibit/museum

同じ過ちを犯し続けるbiancaは またも、それも3回にわたって
月曜、火曜と、書いた全文を失いました。
だから下書きはメモ帳に書くんだよ、とわかっちゃいるけど
写真を取り込みながらじかに打ち込む快感に負けていたのです。
失った原因が今だはっきりしません。
どうもマウスの使い方と、入れ込んだ写真や文章を取り消す時に
使うBack‐spaceキーが怪しい気がします。
あるいはこのパソコンに嫌われているのかな?
もう止めようか、と思うまで昨夜は気落ちしましたが
やっぱりパウラのことはブログに残したくなっちゃったのです。

仕事休みの今日、桜を見に外に出かけたい心を抑えて
仕切り直し~!


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儚くも美しき祝祭

 Paula Modersohn-Becker
時代に先駆けた女性画家 (1876-1907)

 
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麦わら帽子を被りたくなるような日差しの強い土曜日の昼下がり。
子駅から海岸回り葉山行きのバスに乗り込みました。
対向車とすれすれで、まるで手品師のように狭い旧道を
スル~リ、スル~リと走り抜け、葉山マリーナや森戸海岸を過ぎて
しばらく行くと白亜のモダンな四角い建物が姿を現しました。

着いたぁ~!

海と空に限りなく近い、神奈川県立近代美術館 葉山館


そんなベストロケーションにある美術館の外観を
デジカメに収めようとシャッターを切ってびっくり。
メモリーカードが入っていないではないか。
ガ~~ン!
充電だけはバッチリしてきたのに、なんという不手際。
昨日パソコンに取り込むために抜いたままになっていたんだ、と
改めて思い出しました。
いいさ、きょうはカメラなしで、この光景をしっかりと
目に焼き付けようっと。

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私とパウラ・モーダーゾーン=ベッカーは、全くの初対面。
そこにリルケ やリルケの奥さんでもありパウラの親友でもある
クララ も参加し、ヴォルプス・ヴェーデの仲間たちも
噂を聞きつけて葉山にやって来たのです。

こんな具合に想像を巡らせながらの 待ちに待った企画展。

学生時代に尊敬していたS先生が、社会科の授業の中で
頻繁にリルケの詩を紹介してくれたものです。
先生が敬愛して止まないリルケを、私も好きになりたいと
背伸びをして読んだのですが、解ったのか、解らなかったのか
いまいち私には難いイメージでした。
でも尊敬している人が情熱を持って語るその詩人のことは
それからというもの常に私の頭の隅に存在し続けています。

結婚をする前の若い3人が、ブレーメンから北東20キロほどに
位置する寒村「ヴォルプス・ヴェーデ」で知り合い、
親交を深めていただなんて、なんとも羨ましい限り。

 ヴォルプス・ヴェーデ ・・・それは
悪魔の湿原と呼ばれる泥炭地 トイフェルス・モーアの端に続く
片田舎の小さな村。
19世紀の急速な技術革新と文明化に疲弊した
近代ヨーロッパ人(!)の若者たちには
その平原と空ばかりの手付かずの自然風景こそが
今こそ回帰すべき人間と自然との原初的な共生の場として
写ったのです。


芸術家コロニーの建設を夢見て、
フリッツ・マッケンゼン
オットー・モーダーゾーン
ハンス・アム・エンデ
フリッツ・オーヴァーベック
ハインリヒ・フォーゲラー

などの若い画家たちがそこに住み始め、パウラやクララも
マッケンゼンに絵や彫刻の手ほどきを受けるために、
家族の元を離れてここに移り住みます。
パウラは、当時の文化人や芸術家などが頻繁に
出入りするような家庭環境で育っていますから
女性が画家になることへの積極的な理解と応援を
受けていたのではないかと思います。
素晴らしい親たち!

このように書いていくと終わりが見えてきません。
ご興味のある方は、是非、美術館のHPをご覧になってください。
とても興味深いですよ。
って言っても、企画展が終了しちゃったから
削除されてしまうでしょうか?早く、早く!

  
 
                      クララ作のパウラ 
  

  

そういいながらも又書き始めるbiancaです。

葉山館は、展示室といいすべての空間がゆったりとしています。
これだけの企画なのに人の流れも緩やかで、
私としては心地よく、時間をかけてヴォルプス・ヴェーデの
仲間たちとの対話?を楽しむ事が出来ました。

パウラはたくさんの自画像を描いています。
でも実際の彼女の方が、どの絵と比べても素敵でしょう?
私はパウラとマッケンゼンの絵、クララという女性そして
フォーゲラーという個人にすごく惹かれました。

フォーゲラーは、最初に村に移り住んだ芸術家達の中で最年少。
農家を改装した自邸、〈バルケンフォフ〉には、
村のアーティストはじめ、遠方からの文学者、音楽家らが集い
「そこはまさに、ヴォルプス・ヴェーデという
精神共同体のシンボル的な場だった」
と言います。パウラがこの小さな村に移り住んだのも、絵を学ぶ
ということの他、もっと精神的な要因があったからに
ちがいありません。

しかし人間のおこなう戦争は何でもかんでも
人間の一生を狂わし続けてしまいます。
フォーゲラーは出征中に、反戦思想から社会主義に転向。
その後ソ連に移住し、貧困の中、カザフスタンで
ひっそりと病死していました。
あの芸術家村で、いきいきと過ごしていた若き日の
フォーゲラーを想像するにつけ
社会主義がなんだ!資本主義がなんだ!
やり直しのきかない人の人生を平和に導けない
主義主張なんか糞っくらえだ!

パウラの死共々、悔しくて可哀想でなりません。



観葉植物と卵立てのある静物(1905年頃)

この村で、パウラはモーダーゾーンと、
リルケはクララと出会い結婚をするのですが、
パウラとリルケは、心底より深く信頼しあう仲だったようです。
パウラはスポーツも楽しむ快活な女性であった反面、
ニーチェなど、沢山の書物をを読み、日記を書き、「死」についても深く思いを
巡らせていた女性、と考える時、リルケとの繋がりが
さらにはっきりと想像できそうです。
彼女は画家としてよりも、心の奥底に数多くの思いを秘めた
一人の魅力的な女性だということがわかってきました。
1900年のパリ万博の時にパウラは初めてパリを訪れています。
そこで目にしたセザンヌやゴッホ、ゴーギャンらの作品に
影響を受け、リルケの紹介でロダンとも接触を持ちます。


パリで刺激をうけてはヴォルプス・ヴェーデに帰って
その制作の中で表現し、反対に村で研ぎ澄ました感性を、
パリの街でさらに開花させていましたが、
芸術家村の中でも相互間に早い時期から
芸術感の相異や緊張が表面化していたようです。

実際、パウラと夫のオットーにも一大危機が訪れました。
それをどうにか乗り越え、子供に恵まれた時、
産褥熱から発症した塞栓症のために
彼女の儚い一生が終わってしまいました。
1907年11月20日、31歳の時です。

リルケはパウラの死に衝撃を受け、
その一年後に長編詩「ある女友だちのための鎮魂歌」
を発表したのです。

その詩が、美術館の中の薄暗い一展示室の壁に、
映写機を通して読めるようになっていました。
映し出されては滲むように消え、又映し出されて・・・
が繰り返されます。
そこでは静かにゆっくりと時間が流れます。

 
クララ作のリルケ

気が付いたらあとすこしで閉館の時間でした。
海を目前に見渡せるレストランで、コーヒーを
と思い、その時を楽しみにしていたのですが、
美術館と同時刻に閉店となり、残念でした。
この素晴らしい場所に、近々また絶対に来よう!

葉山は私を待っているぜ!


終わりにしようと思ったとたん、思い出しました。
たいせつな風景」というタイトルの美術館だよりを
エントランスホールで見つけ各号一冊ずつ計4冊頂きました。
それを帰りの横須賀線の車内で何気なく読んで
いたのですが、とても心に残る記事があったのです。
(もちろん、どの記事も良かったですが)
私がパウル・クレーのところで使わせて頂いた引用文を
お書きになった神奈川県立美術館 企画課長である
水沢 勉氏の
「風景に生まれ、風景に帰っていく音のかたち ・・・追悼・吉村弘
胸がいっぱいになり、本当はここでご紹介したくてたまりません。


この文章を読みながらこの日一日の心の充足感が一層深まったことは
言うまでもありません。


 

unsichtbarさん 展覧会をご紹介いただき有難うございました