うたのすけの日常

日々の単なる日記等

昔のお話です 四

2015-08-21 02:40:17 | 昔のお話です

   

    駅前は、闇市朝市アメ市なるもので賑わっていた 2006-11-20記

 一年前になるか、あたしは一編の芝居の台本を書き上げた。まだ手を入れる余地があるのだが、その冒頭部に次のようなト書きを入れた。

 終戦から間もない、まだまだ街は復興の兆しもみえぬ混沌とした時代。ここ上野に近い環状線のある駅前一帯も、空襲の跡も生々しく瓦礫の片付けもままならず、異様な雰囲気をかもしだしている。しかしどこか活力の沸騰しそうな兆候が見え隠れしていた。それは地元の顔役○○が仕切る、駅前一帯に乱立するバラック建ての闇の飲食店だったり、早朝から立つ朝市の、闇市またはアメ市と呼称された闇の存在のためかも知れなかった。

 そこには横流しされた統制品、進駐軍のPXから流れるおびただしい食料、菓子類、石鹸や化粧用品、そして洋モクの名で大人たちの垂涎の的であった煙草と、あるとあらゆる生活必需品が流通していた。

 それらのたくましい闇の流通機構が、一面庶民の生きる術を支えていたのかも知れない。しかしその裏に暴力、無法と無秩序が充満していて、当時の日本の姿を凝縮して見せていたともいえる。
 そんな一帯から程近くに、バラック建ての外食券食堂「○○」はある。辺りにはまだ満足な住宅、店舗などなく、防空壕で寝起きしたり、バラック住まいの住人が大半である。

 そして一場のト書きとなる。
 店は食堂とは名ばかりのテーブル二つ、八人座れば満席といったバラック建ての店である。
 下手の戸を開ければ土間の店、その左奥が厨房。土間に続いて家族の寝所の六畳の座敷が一つ、ふすまを境に奥にもう一部屋ある模様。客が混みあえば上に上げて、客席に早代わりといった案配である。
 十一月も末、今朝も四五人の朝市の買出し客が、雑炊らしきものを目を据えてすすっている。

 虚構と事実を交えた芝居話であるが、ここまでは大体、すなわちお膳たては事実といって差し支えない。あたしの両親は強制疎開で店を取り壊され、長年馴染んだ街から追い出される破目となり、お得意さんも奪われ引越し先で不安な商売を再開した。

 しかし無残にもいくばくもなく、やっと整えた店舗も、B29の空爆で街もろとも炎上、火の手に追われて逃げる憂き目を見たのである。あたしはよく母から聞かされていた。「お父さんは力がなくてね、なにも持ち出せなかったんだよ。火事場の馬鹿力も出ずじまい。幸い火の手を避ければ座り込んで、先ず一服だ、慌てちゃいけない、先ず一服だ。それしか言うことないんだから」と。
 それでも兄と姉がいたので当座の家具類は持ち出し、前の空襲で焼けた跡地に投げ出しておいたのが後々役立ったという。

 空襲時の挿話にこんな話を聞いていた。隣まで火勢が迫ってきたとき、姉が弟であるあたしの兄に、女学校のアルバムを持ち出さなかったと告げたのである。兄はそれを聞くなりいきなり家に飛び込み、二階に駆け上がって持ちだしたそうである。
 二階でアルバムを探す兄の姿が踊るように炎でガラス戸に映りだされ、両親はもちろん近所の人も、兄の名を呼び叫んだそうである。「焼け落ちるぞ、危ない、早く逃げろ」と。
 兄の話によれば、火勢を見てすべて計算づくであったと言っていたが。勿論姉はあとで母からこっぴどく叱られたそうである。

 そして戦争も終わった。あたしたちは疎開地から戻り家族は再会、気の休まる間もない貸間生活の果て、わが家は朝市の客や、ニコヨンと呼ばれた都の日雇い労務者、闇や、学生、芸人、サラリーマン相手の外食券食堂を再開したのである。



最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (志村建世)
2006-11-18 16:25:36
当時の外食券食堂のことを、もっと知りたいと思っています。私の日記の昭和20年10月24日のところに餓死者を見に行った話があって、「この人は身寄りがなく、外食券食堂に通うだけだったので死んでしまった」と書いてあるのです。食堂への食料の供給も滞って、店の人は大変な苦労をしたのだろうと思います。とにかく、ヤミに手を出さずにいた裁判所の判事が餓死したというので、ニュースになる時代でした。
返信する
Unknown (うたのすけ)
2006-11-18 19:55:19
餓死者の話は頂いたご本で読ませていただきました。文中、「…とうとう死んだそうです」とあります。今では確かめようもありませんが、おそらく風聞だったのではありませんか。当時両親の経営する大衆食堂は、東京都指定食堂組合の看板で営業していました。そしてお客さんから受け取った外食券の枚数に相応する食料は、十分といえないまでも、またそれが代用食であれ、確実に配給をうけていました。一般家庭の食料が遅配気味だった時代、恵まれていたと思います。ですので食堂利用者が餓死したというお話は、組合員そして両親の名に賭けて否定できます。
返信する
Unknown (志村 建世)
2006-11-18 21:17:22
わかりました。長年の疑問と心配が、解けました。食堂への配給制度は機能していたのですね。社員の若い人が外食券食堂へ行ったら、味噌汁が本当に味噌の汁で、葉っぱ1枚も入っていなかったなどと聞いて、少し偏見を持っていたかもしれません。「主食」の配給が芋だったり放出の砂糖だったり、想像を絶するようなものが配られてきました。
返信する
Unknown (ち~でっす!)
2006-11-18 23:55:17
当時の様子が事細かに記されていて、その場景が目に浮かぶようです。
なぜアメ市というのですか?
現在のアメヤ横丁と関係がありますか?
返信する
Unknown (うたのすけ)
2006-11-19 02:39:09
志村さんへ
お分かり頂き感謝します。なお時折、話が前後しますが思い出すまま、書いていこうとは思っています。しかし記録があるわけではなく、記憶だけが頼りですので、大きな間違いは犯さないとは思いますが、その点が一番不安です。
ハムレットではありませんが、書くべきか、書かざるべきか、そこが思案のしどころです。
返信する
Unknown (うたのすけ)
2006-11-19 03:02:53
ち~でっす!さんへ
寡聞ですが、あたしの記憶では、当時米と同じくさつま芋も統制品でして、主食として配給されていました。しかし闇で加工されて飴になれば、いわゆる芋飴となり、主食でなくなります。水あめだったり、単なる飴、そして甘味料として、朝市で大量にでまわっていたのです。それであたしたちは早朝に立つ朝市をアメ市とぃたり、闇市と呼びました。
また上野のアメヤ横丁は、進駐軍のPXからの横流し品が大量に流通し、また前述のアメが売られたりしていて、それが重なって、アメ横と呼ばれるようになったのではないでしょうか。なんかこじつけみたいですが、当たらずとも遠からずだと確信します。
返信する

コメントを投稿