駅前は、闇市朝市アメ市なるもので賑わっていた 2006-11-20記
一年前になるか、あたしは一編の芝居の台本を書き上げた。まだ手を入れる余地があるのだが、その冒頭部に次のようなト書きを入れた。
終戦から間もない、まだまだ街は復興の兆しもみえぬ混沌とした時代。ここ上野に近い環状線のある駅前一帯も、空襲の跡も生々しく瓦礫の片付けもままならず、異様な雰囲気をかもしだしている。しかしどこか活力の沸騰しそうな兆候が見え隠れしていた。それは地元の顔役○○が仕切る、駅前一帯に乱立するバラック建ての闇の飲食店だったり、早朝から立つ朝市の、闇市またはアメ市と呼称された闇の存在のためかも知れなかった。
そこには横流しされた統制品、進駐軍のPXから流れるおびただしい食料、菓子類、石鹸や化粧用品、そして洋モクの名で大人たちの垂涎の的であった煙草と、あるとあらゆる生活必需品が流通していた。
それらのたくましい闇の流通機構が、一面庶民の生きる術を支えていたのかも知れない。しかしその裏に暴力、無法と無秩序が充満していて、当時の日本の姿を凝縮して見せていたともいえる。
そんな一帯から程近くに、バラック建ての外食券食堂「○○」はある。辺りにはまだ満足な住宅、店舗などなく、防空壕で寝起きしたり、バラック住まいの住人が大半である。
そして一場のト書きとなる。
店は食堂とは名ばかりのテーブル二つ、八人座れば満席といったバラック建ての店である。
下手の戸を開ければ土間の店、その左奥が厨房。土間に続いて家族の寝所の六畳の座敷が一つ、ふすまを境に奥にもう一部屋ある模様。客が混みあえば上に上げて、客席に早代わりといった案配である。
十一月も末、今朝も四五人の朝市の買出し客が、雑炊らしきものを目を据えてすすっている。
虚構と事実を交えた芝居話であるが、ここまでは大体、すなわちお膳たては事実といって差し支えない。あたしの両親は強制疎開で店を取り壊され、長年馴染んだ街から追い出される破目となり、お得意さんも奪われ引越し先で不安な商売を再開した。
しかし無残にもいくばくもなく、やっと整えた店舗も、B29の空爆で街もろとも炎上、火の手に追われて逃げる憂き目を見たのである。あたしはよく母から聞かされていた。「お父さんは力がなくてね、なにも持ち出せなかったんだよ。火事場の馬鹿力も出ずじまい。幸い火の手を避ければ座り込んで、先ず一服だ、慌てちゃいけない、先ず一服だ。それしか言うことないんだから」と。
それでも兄と姉がいたので当座の家具類は持ち出し、前の空襲で焼けた跡地に投げ出しておいたのが後々役立ったという。
空襲時の挿話にこんな話を聞いていた。隣まで火勢が迫ってきたとき、姉が弟であるあたしの兄に、女学校のアルバムを持ち出さなかったと告げたのである。兄はそれを聞くなりいきなり家に飛び込み、二階に駆け上がって持ちだしたそうである。
二階でアルバムを探す兄の姿が踊るように炎でガラス戸に映りだされ、両親はもちろん近所の人も、兄の名を呼び叫んだそうである。「焼け落ちるぞ、危ない、早く逃げろ」と。
兄の話によれば、火勢を見てすべて計算づくであったと言っていたが。勿論姉はあとで母からこっぴどく叱られたそうである。
そして戦争も終わった。あたしたちは疎開地から戻り家族は再会、気の休まる間もない貸間生活の果て、わが家は朝市の客や、ニコヨンと呼ばれた都の日雇い労務者、闇や、学生、芸人、サラリーマン相手の外食券食堂を再開したのである。
寡聞ですが、あたしの記憶では、当時米と同じくさつま芋も統制品でして、主食として配給されていました。しかし闇で加工されて飴になれば、いわゆる芋飴となり、主食でなくなります。水あめだったり、単なる飴、そして甘味料として、朝市で大量にでまわっていたのです。それであたしたちは早朝に立つ朝市をアメ市とぃたり、闇市と呼びました。
また上野のアメヤ横丁は、進駐軍のPXからの横流し品が大量に流通し、また前述のアメが売られたりしていて、それが重なって、アメ横と呼ばれるようになったのではないでしょうか。なんかこじつけみたいですが、当たらずとも遠からずだと確信します。
お分かり頂き感謝します。なお時折、話が前後しますが思い出すまま、書いていこうとは思っています。しかし記録があるわけではなく、記憶だけが頼りですので、大きな間違いは犯さないとは思いますが、その点が一番不安です。
ハムレットではありませんが、書くべきか、書かざるべきか、そこが思案のしどころです。
なぜアメ市というのですか?
現在のアメヤ横丁と関係がありますか?