観測にまつわる問題

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古事記と高千穂

2019-04-13 09:53:56 | 日本史
筆者は基本的に日本書紀を根本資料としており、古事記を優先しないのですが、国産み神話との関係で古事記の高千穂を紹介しておきます(ダブルスタンダードとの批判は甘んじて受けます)。

韓国(カラクニ)に向かうところが筑紫の日向の高千穂のくじふるたけのはずなんですよね。韓国岳は宮崎県・鹿児島県の県境の霧島山系にあるんですが、通常、この時代の韓国は三韓の加羅国だと思います(後にカラ国は唐国を指すようになりました)。北部九州は弥生時代始まりの地で中国の史書にも漢代の北部九州の倭国が記載され、金印も発掘されています。そもそも縄文時代から延々と北九州と半島は通交があったようです。

九州島は古くは筑紫島と呼ばれ,筑紫,豊,火,襲(そ)の4国に分かれ,つくしは国土の尽き果てるところを意味するとも言うようですが、これは大和目線を感じます。つくしと聞いて思い浮かべるのは土筆でもあって、あまり格好のいい名前ではありません。陸奥の国が典型ですが、辺縁の国ほど大きく分けたりするんですよね(例外は恐らく共立に関係して吉備くらい)。日本書紀では高千穂は襲と書いてますから、日向=宮崎県でいいとは思いますが、いずれにせよ、まず筑紫は九州島という解釈でいいんでしょう(古事記では筑紫(国)とも読めそうです)。

続く日向は日に向かうところぐらいの一般的地名のような気もします。筑紫の神は白日別で九州4国の神はいずれも日が入っています。皇祖神は太陽神ですが、神武東征が伝わることと弥生時代の人の流れが注意されるべきです(ただし大和が強くなったのは考古学的に弥生時代のそれほど遅くではないようです)。

面白いのは朝日のただ刺す国、夕日の日照る国なりという指摘です。これをそのまま読めば東西の一方に向く国は苦しくなります。何時頃からかは知りませんが、福岡県の日向峠(ひなたとうげ)が伊都国と奴国(早良)の境で東西に通じており面白いんじゃないかと思います(大昔で出典は忘れましたが、福岡県に日向峠があるという指摘は見たことあります。福岡県に高千穂を関した企業名もあって、古事記記載ですし、こうした話を知っている福岡県民もいるんじゃないかと思ってます。まぁ能ある何とかという話ではありますが)。

高千穂をあえて挙げれば脊振山系最高峰の脊振山(1,054.6m)ですが、それほど尖った山ではありません。ただ、福岡県側は断層地形のため急峻で、渓谷も深く、坊主ガ滝、花乱ノ滝など滝も多いんだそうです(脊振山 ヤマケイオンライン https://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=958)。

さいごに「くじふる」ですが、「霊異ぶる」という指摘もあるようです(天孫降臨てんそんこうりんの地 http://www7b.biglobe.ne.jp/~kirishima/tensonkourin/tensonkourin0.html)。くじふるの用例は確認できませんでしたが、クジなら、憶持(1 心に念じて思いとどめること。常に念頭に置いて忘れないこと。「僧、心経を―し、現報を得て、奇事を示す縁」〈霊異記・上〉2 執念。また、思慮、分別。「衆徒の軍拝見して候ふに、誠に―もなく」〈義経記・五〉デジタル大辞泉(小学館))や意気地(事をやりとげようとする気力。デジタル大辞泉(小学館))という言葉があって、フルは例えば「ちはやふる」を想起します。脊振山系一帯は、古くは霊山として多くの修行僧が暮らす山岳密教の修験場だったようですし、山岳信仰と神道は元来関係が深いです。もうひとつ紹介のホームページで面白いのは「「高千穂」は本来、高く積み上げた稲穂のことで、神霊の降下する所と考えられた。」という指摘で確かになだらかな(急峻な峰がない)高い背振山系(山脈)こそ見たまんま高千穂ではないかと思わせるものがあります。

笠紗(かささ)の御前(みさき)の記述があり、鹿児島県南さつま市笠紗町野間岬とされますが、笠紗は必ずしも古い地名ではないようです。福岡県でもよく分かりませんが、崎がつく岬は多く(福岡県の崎/岬一覧 https://www.navitime.co.jp/category/0706010/40/ NAVITIME)(単に先の意だと思われます)、どうも気になるのは海の中道(古くは奈多の浜)です。その先の志賀島は金印が見つかった地(「叶崎(かなのさき)」あるいは「叶ノ浜」 金印 http://museum.city.fukuoka.jp/gold/ 福岡市博物館)。満潮時には一部が海水で区切られることがあるため道切(みちきれ、満切)と呼ばれ、18世紀の『筑前国続風土記』によれば、当時は道がつながることの方がまれであったとか(ウィキペディア「海の中道」2019/4/13参照)。砂州では天の橋立が有名ですが、博多湾岸の海の中道はさぞかし神秘的ではなかったかと思います。また同じくウィキペディア「海の中道」参照で「神功皇后伝説では、遠征前に盛大な神楽が行われ、海底から現れた異形の磯良(いそら)神から玉を借り受けたのは、この地の吹上の崎というところだとされる」(筑前國續風土記 巻之十九 糟屋郡 裏 奈多濱)のだそうです。わざわざこの辺りで言及せねばならない岬とは。

なおクジフル=(加羅の)亀旨峰(クジボン)説もあるようですが、牽強付会でしょう。峰はホウで漢語じゃないのという話ですし、フルにどう転訛したかも分かりません。日本の他に類似の地名もありません。魏志倭人伝の昔から、明らかに韓国と日本は違うと指摘されています(勿論中国とも違うでしょう)。

個人的には日本書紀は魏志和人伝を見て日向という言い伝えを宮崎県と解したのかなという気がします。方角を読み替えず距離を短縮すればそう読めはしますので。西都原古墳群は立派だと思いますが、話は逆で大和の勢力がそこに及んだという証拠のように見えます。

後、海幸彦の話は末盧國(まつろこく/まつらこく)=松浦(半島)が怪しいという気がします。海幸彦って山幸彦の兄弟で従えられるんですよね。海人族=渡来人という話もほぼ眉唾で(渡来人がいたことは全く否定しませんが、海民というより普通に王族・貴族・国民・村民が亡命してきたのでは?半島の漁民が日本の縄文時代以来の漁民を押しのけることが有り得るでしょうか?)、末盧國は海流の関係で半島から来るというより、日本から半島に向かうのに都合がいい地ですから、話は真逆で末盧國(対馬や壱岐)の漁民が半島に出かけて交易などしていたと思います。それが各種史書・金石文に残る古代日本の朝鮮進出に繋がったでしょうし、それなりに力を持ったということではあるんでしょう。ただ、日本で水軍が主になった歴史はありません。古代においても伊都国や奴国がしきっていたはずです(伊都国や奴国が山岳信仰=背振信仰で「山の民」だったのかもしれません。元々弥生人とは北九州縄文人が水田耕作を受け入れるなどして時間をかけ成立したようです)。少なくとも伊都国や奴国の直ぐ西の松浦半島一帯に元来の海の民が住んでいたことは間違いありません。誤解があるのは弥生人が渡来人だという話ですが、山幸彦は外国人では全くありません。海幸彦も然りで外国人どころか兄弟です。どちらも縄文人/弥生人でしょうが、末盧國の住人は漁民然としており、風俗が違うように見えた可能性も高いように思われます。

以上ですが、筆者は神武天皇以降を歴史と捉えており、歴史は検証可能で、神話とは区別されるべきと思っています。歴史上の神の話・霊の話も尊重はしますが、さすがに歴史的事実と受け取る訳にはいきません。筆者は別に宗教を否定している訳では全くありませんし、日本神話も尊重されるべきという考え方ですが、現実世界で(科学的・学問的に測定される)Factとして扱うのはないんじゃないかという話です。寧ろ逆に根拠ないとか言われている日本古代の歴代天皇を欠史八代含めて全て実在(ただし年代の修正の必要はあり)とするのが筆者の立場です(神武東征のくだりの詳細を歴史的事実と認定するのは厳しいとは思うのですが(日向を拠点に熊野から大和を攻めるのような話をどうしても認められません)、神武天皇も伝説的な始祖として実在したと考えますし、そのルーツをさぐる上で重要な話だと思っています)。


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