観測にまつわる問題

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ビロウが自生する北九州の地名で解する国産み神話

2019-02-12 22:02:19 | 日本地理観光
ビロウ.jpg(ウィキペディア) 神奈川県藤沢市江の島(江ノ島植物園)Kafuka1964

海を隔てるビロウ自生地と古代太陽信仰(海洋政策研究所)

>小呂島の近世までの古名は「於呂島(おろのしま)」である。
>国生み神話で生まれたとされる壱岐・対馬が近く、他に生まれた大島・姫島(神話では女(ひめ)島)などと同名の島も近い。
>ビロウはヤシ科の植物で、古来から天皇制との関わりが深く、アジマサやホキなどとよばれた。その葉は古代の天皇・皇后・皇子・公卿が使う牛車の屋根材として使われていた。
>沖縄の御嶽(うたき)という神聖な場所にはビロウが繁殖しており、神が降りる木としてあがめられている。
>小呂島の隣の沖ノ島は、ビロウの最北端自生地であると同時に、海の正倉院ともいわれ、10万点もの古代の宝物が発見された名実ともに神の島だからだ。

おろとは何?(Weblio辞書)

【尾ろ】「ろ」は接尾語尾 → 尾ろの鏡(Weblio辞書)「山鳥の尾ろのはつをに鏡かけとなふべみこそ汝(な)に寄そりけめ/万葉集 3468」からでた語
中世の歌語。語義未詳。異性への慕情のたとえに用いられる。山鳥の尾の鏡。はつおの鏡。 「山鳥の-にあらねどもうき影みてはねぞなかれける/土御門院御集」
【悪露】分娩後,五,六週間にわたって子宮および膣から出る分泌物。リンパ液・血液・粘液・細胞組織片などからなる。おりもの。
【疎】( 接頭 )「おろそか」 「おろか」などの「おろ」と同源。動詞・形容詞などに付いて,十分でないさまを表す。不完全,わずか,などの意。 「 -覚え」 「 -癒ゆ」 「 -よし」

つまり記紀神話の国産みで最初に生まれた不完全な島を想起させるものがあります。勿論最初の島は磤馭慮島(おのころじま)であるとか、伝承から場所は淡路島付近だとか、不完全に生まれたのは島ではなく、神ではないかといろいろ突っ込みどころはあるのですが、オロの島のオロに他に意味もなさそうですし、玄界灘に浮かぶ島というのは、そもそも大陸・半島に渡る航路上にあって、対馬や壱岐と同じく重要な役割を果たしたことは間違いない訳です。そもそも大和朝廷以前の倭国(日本)の中心地が北九州だったことは、考古学上、中国の文献上、地理的観点から間違いないと思われます。勿論大和朝廷においても大宰府を置く等、大陸・半島への窓口として北九州に特別な意味はありました。世界遺産宗像大社は北九州の海の神社です。玄界灘の島が記紀神話に多く登場していたとして不思議はないところはあると思います。

能古島(のこのしま)(アイランドパーク)が文献に登場するのは平安遺文で文献上は古代の重要な島ではないようですが、志賀島と並んで博多湾に浮かぶその場所が問題です。島の名前がノコノシマですから、御をつければ(つけていいかは微妙なところはあります。御津や御浦・御島はミであり三だったりします)オノコノシマ→オノコロシマで意味がよく分からないオノコロの意味が納得できるような気がします。ノコは和語の鋸と推測します。古墳時代における鋸は「装身具などの加工用、つまりヤスリみたいなものだった」そうですが(鋸の発展史・年表 RAZORSAW)。木を切るのは斧という訳ですが、だとしたらヤスリとして使った鋸は何に使ったかということですが、筆者としては勾玉の加工用かな?と思わなくもないですね。基本的には砥石で磨いたようですが、ヤスリでも磨けるようです。鏡や剣も同じかもしれませんが、鋸=ヤスリであれば、磨き職人みたいな仕事があって能古島に住んでいたと想像できなくもありません。愛媛県には砥石の産地に砥部という地名があります。三種の神器といった宝物を始めとした装身具が出土するのですから、それを磨いたり、作成したりする職人が古代にいておかしくありません。ノが入る島名としては隠岐の島ですね。まぁ想像ではあって、鋸の古代の読みはノホキリだとか、九州のその時代に出土するのかとかいう疑問はあるのですが、珍しい地名であり、ノコノという言葉に「鋸の」以外の解釈が思い浮かびません。

そう考えると、先に触れた小呂島はヒルコ(水蛭子、蛭子神、蛭子命)そのものではないかという気がします。ついで生まれたというアハシマが玄海島(古くは久島といったそうです)なのかもしれません。共に能古島から流される位置にあります。

おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島(あはしま) 自凝(おのごろ)島 檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ 放(さけつ)島見ゆ

古事記記載の仁徳天皇の歌として知られますが、日本書記にはないようです。吉備の文脈で明らかに難波と淡路島あたりの話ですが、更に後述していきますが国産み神話と北九州の関係を念頭におくと違和感があります。淡路島はいいとして、オノゴロ島が淡路島南方の沼島(ぬしま)とも言われますが、これが重要な役割を果たしたと考えにくいところがあります。大和朝廷は九州方面に向かうのに明石海峡を通ったはずですし、仮に南回りしたとして、淡路島南方の小島の重要性は理解しにくいものです。吉備との間の淡路島あたりに他に重要な島があるでしょうか?

檳榔はホキ(蒲葵)で古くは本土に自生したと言われるようですが(角川ソフィア文庫古事記)、怪しいでしょう。和歌山あたりには自生したかもしれず、熊野が宗教的に重要視されたのも、皇室でビロウが重視されたからであり、その生産地だったからかもしれませんが、大和に自生した政権が紀伊の植物を特に重要視した経緯が見えてきません。話は逆で(紀伊ありきではなく)、ビロウを利用する文化ありきだったと見るべきでしょう。そもそも神武天皇はヒムカから来たと明記されています(日向(宮崎県)の勢力が大和に向かう経緯が日本史視点で理解困難であり、遺跡という物的証拠が存在しませんし、海民が陸の勢力を押しのけた歴史が日本に存在せず、大和に海路来て大和を支配するような勢力とは唯一元々の倭国の本拠地である北九州の勢力のように思えます。ヒムカは必ずしも特異な地名ではなく、北九州にも存在するようです。文化として重要なビロウ=南国ですし、魏志倭人伝を参照すると邪馬台国=日向のようにも見えますから、神武天皇が日向から来たという話は理解が難しいものではありません)。つまり淡路島あたりに檳榔の島が存在すると思えず、島そのものがあまりないことと併せて、これらの島は幻だとも言われています。また、檳榔は沖縄ではクバであり、日本の南国に神聖視する文化があるようです。

しかし仁徳天皇は何故幻の島等見てしまったのでしょうか。吉備の黒姫に恋しておかしくなってしまったのでしょうか?これは北九州の歌ではないかと考えると理解できそうです。難波は「なにわ」で魚庭説もあるようです。その妥当性はさておき、ナに注目するべきでしょう。大和朝廷以前、北九州博多の大国は奴国(なこく)です。博多湾岸・近辺の大陸や半島・畿内に向かう航路上に島が点在しており、重要な役割を果たしていたことは明らかであり、祭祀遺跡等物的裏づけも散見されます。仁徳天皇の歌とされる歌ですが、北九州の歌を仁徳天皇の歌として持ってきたと考えるとストンと落ちるところがないでしょうか?この歌だけ見れば、必ずしも吉備の黒姫に関係ありません。ナの港やアワ島に絡む歌なら、百舌陵の天皇の歌として採用されてもおかしくはないように思えます。国産みのオノゴロ島が登場するなら、最大規模の陵を持つ大帝の歌にも相応しいと言えるでしょう。仁徳天皇は日本書記では新羅関連で業績もあって、北九州に縁がないとも言えません。

問題の檳榔ですが、ビロウが通説・定説で問題はないでしょう。これは明らかに南国の植物ですが、北九州には自生もしており、宗像三宮の沖津宮がある沖ノ島が亜熱帯性植物の北限でビロウも生えているようです。大阪と福岡の平均気温に大差ないような感じもなくはないですが、実際のところは全然違っており、(大和朝廷のあった)奈良(奈良も広いですがここでは奈良市)(盆地でやや寒いと言えます)(14.9度)と福岡(17度)の平均気温は2度ほど差があるようです。奈良から2度寒い日本とは福島(13度)になることに注意が必要でしょう。ちなみに新潟は13.9度、東京は15.4度です。勿論現代で都市はヒートアイランド現象で暑くはなっているのですが、畿内と比べて北九州は結構暑いと考えて良いようです。北九州自生の文化がビロウを自然に利用したのであり、大和に移っても文化は受け継がれたと考えれば(付近に紀伊という供給地はありました)、疑問は氷解します。一般に最初の農耕文化は拡散します。こう考えると弥生人=朝鮮人説はほぼ100%有り得ないことも分かってきます。朝鮮という国は日本より寒い訳です。ビロウを利用する文化が育つはずもありません。稲作伝来絡みでじゃあ呉越人だろうという話もあって、ここでは詳述しませんが、距離が有り過ぎ、それも有り得ないとだけ書いておきます。何故人が絶対に移動しないといけないのか、文化が伝播しちゃいけないのか何時も不思議に思っています(スーツを着ていても我々は西洋人ではありません)。いずれにせよ、檳榔の島を読んだ歌とは北九州の歌そのものではないでしょうか?南九州の歌だと考えると、何処・何故?ですし、東シナ海ルートは遣唐使で難破しまくりの危険ルートです。国見歌という話ですが、北九州の勢力がたった今外国に向かう時に歌う歌と考えた方が、理解しやすいように思えます。蛇足かもしれませんが、玄海島の古名久島(くしま)ですが、沖縄方言のクバ(ビロウ)と関係があったりはしないんだろうかと考えなくもありません。ク=ビロウと考えると、ク島=檳榔島と読めますし、ク葉がクバに転じたとも考えられます。ビロウの葉は特徴的ですね。先に小呂島はヒルコではないかとしましたが、ビロウがあるなら檳榔島も考えられます。

アハ島ですが、徳島県が阿波国として知られ、淡路とは阿波路とも言われますが、房総半島南端の国も安房です。アワとは粟で記紀における五穀(米・麦・粟は相違なく、後は豆(大豆と小豆)で、稗(ヒエ)が入るか入らないかです。黍(きび)が重視されることもあるようです)。黄河文明の主食が粟だったようで、稲作より早く縄文時代から粟は日本に存在したようであり、新嘗祭でも使われるようです。濡れ手で粟の諺もあり、馴染みがある言葉ですが、小さいものの喩え・表現として、粟が用いられることがあるようです(粟散(ぞくさん)=あわ粒をまいたように細かく散らばっていること)。用例としては平家物語における「さすが我朝は粟散辺地の境」、太平記における「いわんや粟散国の主として、この大内を造られたる事」そう考えるとアワ島とは小島と考えることも出来ますし(特に外国を意識した)、粟島と考えることも出来ます。徳島県阿波郡に粟島村がかつてあり(吉野川中の島か)、安房国は房総半島南端の小さい国です。先に玄海島ではないかとしましたが、能古島や志賀島以外に博多湾から半島・大陸に向けた航路上の小島は(他に小呂島、やや外れていいなら相島・沖ノ島)幾つもあるようです。

最後に放つ(さけつ)島ですが、離れ島と解するのが一般的なようで、だとすると沖ノ島が相応しいようにしか思えません。

北九州と記紀神話の関係を示唆したところで、先に古事記の島産み2部に言及します。

古事記の島産みパート2:吉備兒島・小豆島・大島・女島・知訶島・兩兒島

吉備児島と小豆島は間違えようありません。筆者に言わせれば、考古学という物的証拠と中国の書(魏志倭人伝)から大和朝廷の倭国(日本)成立時に吉備(恐らく投馬国)が果たした役割は大きく、それは記紀の記述からも裏付けられるということになります。吉備(備前)の児島は今は干拓で陸続きになっていますが、吉備地方の大きな島だったでしょうし、製塩も行われていたようです(塩は専売されたように重要な物資です)。小豆島も古代は吉備国児島郡に属し、中世まで本州側の島でした。最初にこのふたつの島が挙げられているのは、国生み(正史である日本書記)で本州とそれに近い淡路島や四国から国がつくられていった話に似ているような気がします。残る4島ですが通説は間違っており、筆者は全て北九州の島ではないかと思います。大島・女島は瀬戸内海上の島ですが、歴史的にそれほど存在感はなく、古代史的意味もそうあるように思えません(大島=周防大島説はまだあるとは思いますが)。最後の二つは五島列島に比定されますが、古代はどう見ても半島ルートが重要で(魏志倭人伝・任那・三韓征伐等)、筆者は危険な東シナ海横断ルートを後の技術が発達した時代、あるいは軍事上の要請がある時代(日本と新羅が敵対していた時代・呉が魏と敵対していた時代)にしか認めない立場です(漂流等は別として)。日本史上、五島列島あたりが重要になってくるのは後にしか思えないところがあるんですよね。弥生時代に呉鏡は出土するのですが、例外だと思います。ですから、吉備の2島に続く島とは全て北九州の島ではないかと。特に宗像の大島と志賀島は明らかに重要です。

大島(宗像観光ガイド)

宗像大社は世界遺産ですが、宗像三宮「沖津宮 中津宮 辺津宮」の内、中津宮があるのが大島です。魏志倭人伝の奴国の次が不弥国ですが、その次の投馬国が水行20日の大国ですから(吉備しかないと思えます)、昔から不弥国は津屋崎町説があって、伊都国~奴国間の距離と奴国~不弥国間の距離が等しいように書いてますから(ただしかかる日数を含めて過大です。これは魏が呉を牽制するために大きくしているという説もあり、クシャーナ朝と並べようとする意図があるとも言われます)、割合妥当のように思いますが、もう少し距離をみていいなら、辺津宮あたりも考えられるのではないでしょうか。奴国の20分の1以下の小国ですから、遺跡が寧ろあまりないところが不弥国で、なおかつ記載があるということは何らかの重要な役割を果たしていたのだろうと思います。宇美説とか内陸部説は次の水行がありませんから、それだけでアウトでしょう。小国ですから海岸部も有していたと見ることも出来ません。ここと確定することは難しくとも奴国から北に向かってそう遠くない海岸部と考えて間違いないと思います。方角が問題ですが、確実に場所が分かっている末廬国(松浦)~伊都国~奴国も東南行ですから(何処に起点を置くかにもよりますがおおざっぱにみて実際は東行あるいは東北行に近いと思われます)、方角が正確でないことは始めから確定しています。そもそも倭国自体、呉の付近にあるかのように書かれていたり、南方系習俗が強調されていたりで、(呉に近い大国と魏は仲が良いのだからせいぜい気をつけろと)これまた呉を牽制する意図があるとも言われます。ただ、そうした歪曲・誇張があるとしても、名前や内部の個別の規模感で嘘をつく必要はないと思われ、(日本の史料や考古学等を参照しながら)慎重に考えれば十分役に立つ史料だと言えると思います。いずれにせよ、宗像三宮は博多からそう遠くない海岸部の歴史ある神社ですし、魏志倭人伝でも大国奴国のそう遠くない次に(投馬国に出発する前に)わざわざ名前を残しておきたい国があったのは間違いないんだろうと思います。副官は奴国と同じく卑奴母離(ひなもり)。これは夷守(ひなもり)だと言われ、奈良時代以後も使われた言葉で各地に地名等残っているようです。そして宗像三宮は沖津宮・中津宮で2つの島を抱えており、中津宮が大島です。大島は博多~畿内間、あるいは大陸・半島~畿内間の航路上にあって北九州の重要な位置にある島だと言えます。

姫島(糸島市)

糸島は伊都国(邪馬台国の倭国の九州の窓口)(伊都国歴史博物館 糸島市)との絡みで重要で姫島は糸島半島西の航路上に存在します。平原(ひらばる)遺跡は川の流路から西側と言えるような気もします(曽根遺跡群(平原遺跡)糸島市 個人ブログ)。平原遺跡からは日本最大の鏡5面を含む40面の鏡が出土し、全て国宝なのだそうです。鏡と言えば三種の神器のひとつ八咫鏡や魏志倭人伝の「卑弥呼の鏡」でないかと言われる三角縁神獣鏡等が知られます。魏志倭人伝で壱岐の次に到達しているのは末廬国(松浦)であり、元寇も松浦や鷹島に来ているのも知られます。平野部の大きさや筑後平野との繋がりを考えると、北九州の中心地は基本的には博多ではあるんでしょうが、日本こそ半島や大陸の技術や交易を欲していたと考えると、海流の関係で日本から見て大陸との窓口はより西が正解だと思われます(逆に向こうからは来にくいので「海賊」はやりやすいとも言え、後の瀬戸内の事情を見ても水運と海賊の境界線は曖昧だったように思います)。いずれにせよ、考古学的見地から半島・大陸との交渉の関係で糸島半島が弥生時代に栄えたことは間違いなく、魏志倭人伝においても王が居たと特記され使者が往来するときには必ず立ち寄っていたようです。糸島半島の東か西か(あるいは北かもしれませんが)どちらに伊都国の拠点があったか(あるいは中央部にあるとしても何処から上陸したか)に関して言えば、大国奴国との距離を考えると西の可能性が結構あると思います(東だと奴国に含まれてしまいそうです)。人口が少ない感じで誤記の可能性もありますが、女王国に属していると書かれており、この時点で出先機関として小規模かつ重要だったと考えることも出来ます。いずれにせよ、姫島は糸島半島の西にあって、伊都国の港が西側だったとすれば、重要な位置を占める島だったように思えます。姫(ヒメ)は記紀でも比女・比売とも書かれ頻出する用語で、卑弥呼にヒメコ説もあります。皇祖神天照大神も女性神で、伊勢神宮に祀られるのも天照大神と豊受大神(古事記では豊宇気毘売神(トヨウケビメ)と書かれる女性神)、魏志倭人伝の倭国のリーダーは女王です。姫島とは重要な役割があった島だったとも考えられます。

志賀島(しかのしま)(日本の島へ行こう)
ウィキペディア「志賀島」2019/2/9
>古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であり、4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される全国的にも珍しい神社である。
>筑前国風土記逸文に神功皇后の三韓征伐の際に立ち寄ったとの記述が見られ。これには古代の半島・大陸との海上交通における志賀島の泊地としての役割が反映されていると考えられる。地名説話として、志賀島が「打昇浜」(うちあげのはま、海ノ中道)と連なりほとんど同じ所といってよいということから、「近島」とよんだものがなまって「資珂島」となったのだと伝えている。
シカ(鹿?)の島だと寧ろ意味が通らず、近島とした方が和語として理解しやすいように思えます。言わずと知れた金印の島で、博多湾に浮かぶことからも奴国の島だったことは間違いないんでしょう。博多湾の重要な島として異論はなさそうで、国産み神話で特に言及されて不思議がない島です。

白島(しらしま)・[男島・女島](日本の島へ行こう)

最後の兩兒島ですが、白島(男島・女島)に比定しました。今では全く目立たない島ですが、関門海峡を大和側から抜けた沖にある注目すべき島のように思えます。祭祀上の意味としては、九州と本州という当時の二大島を臨むという意味がありそうです。男島がやや大きく(今は残念ながら石油備蓄基地があるようです)北東側(本州側)、女島が小さく南西側(九州側)です。周辺に他に島もなく、正に双子であり、歴史的な瀬戸内海航路の重要性を考えれば、この島が重要だったと考えて不思議はありません。

どうやら記紀神話と北九州が一般に言われているより、随分関係が深いことが分かってきました。元々倭国が北九州発祥は明らかです。記紀は明らかに大和のものですが、その影響はどうも伺えるようです。それを踏まえて国産み(古事記の島産み1部)神話を検証してみましょう。テキストには古事記を使用します。日本書記の方がいいのですが、説が多過ぎ順の異同等あります。以下「イザナミ、淡路島と伊予之二名島(四国)と隠岐諸島を生む」よりコピペ。

淡道之穂之狭別島あわじのほのさわけのしまを生んだ。
次に伊予之二名島いよのふたなのしまを生んだ。この島は身体は一つだが顔が四つあり、それぞれの顔に名前がある。すなわち、
 伊予国いよのくにを愛比売えひめといい、
 讃岐国さぬきのくにを飯依比古いいよりひこといい、
 粟国あわのくにを大宜都比売おおげつひめといい、
 土左国とさのくにを建依別たけよりわけという。
次に隠伎之三子島おきのみつごのしまを生んだ。またの名は天之忍許呂別あめのおしころわけ。
次に筑紫島つくしのしまを生んだ。この島もまた、身体は一つだが顔が四つあり、それぞれの顔に名前がある。すなわち、
 筑紫国つくしのくにを白日別しらひわけといい、
 豊国とよのくにを豊日別とよひわけといい、
 肥国ひのくにを建日向日豊久士比泥別たけひむかひとよくじひねわけといい、
 熊曾国くまそのくにを建日別たけひわけという。
次に伊伎島いきのしまを生んだ。またの名を天比登都柱あめひとつばしらという。
次に津島つしまを生んだ。またの名を天之狭手依比売あめのさでよりひめという。
次に佐度島さどのしまを生んだ。
次に大倭豊秋津島おおやまととよあきづしまを生んだ。またの名を天御虚空豊秋津根別あまのみそらとよあきづねわけという。
そして、この八つの島をまず生んだことから、この国を大八島国おおやしまくにという。

淡道之穂之狭別島はアワの次に道がついてますし、書記の記述から淡路島で良いでしょう。日本書記でもほぼ第一に造られた島とするようです。畿内の政権にとって第一の島が淡路島という理解で良いのだろうと思います。穂(ホ)も狭(サ)もワケも一般的な和語で、古事記の島名が孤立しており、その意味は詳らかではないと思いますが、日本書記は淡路洲ですし、淡路島のバリエーションと理解して良いはずです。

次の伊予之二名島が四国です。男女神の2セットで二名というようですが、四国が伊予之二名島と呼ばれる理由とは?(個人ブログ)参照で、伊予と土佐、讃岐と阿波のセットで良いようです。愛比売がうるわしい乙女の意味、建依別が雄々しき男子の意味、飯依比古が飯(いい)を産する男性の意味、大宜都比売が五穀を産する女性の意味です。伊予と土佐はともかく、讃岐と阿波は細川政権・三好政権・名東県等、しばしばセットになりがちです。これは地理的に山脈で区切られているもののくっついた裏と表の関係にあるからです。他に讃岐は鐸(さなぎ)で製鉄地名とか、土佐は遠狭、土狭というのはなるほどと思いますが(阿波は既に触れました)、伊予はやはり良く分からないようです。筆者もよくは分かりませんが、女性名の可能性もあるでしょうか。邪馬台国の女王名に台与(トヨ)がありますし、伊代(イヨ)という女性名は当時にあっておかしくなさそうです。伊の意味ですが、手で神杖を持った様を表わす象形文字で神の意志を伝える聖職者なのだそうです(伊 - ウィクショナリー日本語版 2019/2/10)。他にカヨ、サヨなんかも女性名ですね。ヨの語源は夜で、東アジアの陰陽思想で陰を女性にあてたものかもしれません。そう考えてみると、神道において重要な宇佐神宮(大分県)の海を挟んで向かいが伊予の国ではあります(愛媛に伊予郡があって伊予神社もあるのですが、大和側で国府があった道前地域(今治)ではなく、伊予郡は九州側の沿岸の平野の一部です)。そういう訳で自分は伊予=神女説にしておきます。

以上を踏まえて何故四国を伊予之二名島として伊予を代表させたかを素直に考えると、日本(九州)からみた四国の代表が伊予だったからではないかと思えてきます。少なくとも神武東征は日向から始まったとされますが、そうだとすると高知が代表でも良さそうです(薩摩はともかく日向(高千穂は2説ありますが、いずれも東半分にあります)が九州を制したことがありませんし、神武天皇はとりあえず筑紫に向かっており、土佐経由で熊野~吉野~大和に向かいません)。北九州を基点に畿内に向かう瀬戸内航路を重視した場合にのみ、(地理的に四つの顔を持つ)四国の代表が伊予に思えるのではないでしょうか(単に人口が一番多いという可能性もなくはないんでしょうが)。耳タコで繰り返しますが、元来の倭国が北九州は歴史の常識の範疇だと思います。

地図を見れば分かりますし、魏志倭人伝の規模感でも分かりますが、生産力で言えば北九州より畿内や吉備の方が上です。最初の文明が大陸や半島に近い北九州だったとしても、日本列島は広いですし、時が経つにつれ、畿内が優位になるのは自然の理とも言えると思います。卑弥呼の時点で大和が北九州を制したと考えるのが自然だと思いますが、記紀そのものは大和の日本(倭国)の歴史・物語で、淡路に次いで四国を扱ったのは当然とも言えます。ただ名前自体は九州の時代の倭国以来の名前を引き継いでいたということではないでしょうか。ビロウの重視だって大和自生では理解が難しいものです。

ついで隠伎之三子島ですが、本州大和側から見て九州に向かう裏の島ではあります。三つ子は島前を想起しますが、国府があった島前を代表させたという理解で良いのかもしれまえせん。島前が2郡だから2つに別けて、島後と3つ説はやや苦しそうです。西ノ島と知夫里島が繋がっていないか考えましたが、やはり島前が三つ子に見えます。国産み・島産みですし、他に触れてない島は山ほどありますので、「隠岐の後ろの島」に触れずに(前の)隠岐の三つ子の島を言いたかった可能性はあると思います。

ついで筑紫島(九州)(つくし、ちくし)ですが、つくしと言えば植物のつくし(土筆・スギナ)を想起しないでもありません。突飛に思えるかもしれませんが、本州の大倭豊秋津島の秋津が通説で蜻蛉(とんぼ)だそうです。根が深いことから「地獄草」の別名を持ち、農業上はなかなかしつこい雑草だそうですから、そうだとしたら元先進地で中々手を焼いたことから来る命名かもしれませんが(磐井の乱が知られます)、全然違うかもしれません(都会人の皆さんは知らないかもしれませんが、筆者は子供時代に採集して食べたことが何度もあって、結構馴染みある食材のイメージもあります(蜻蛉も近所で普通に飛んでました))。他にチクなら竹を想起しますが、ツクなら尽くで果ての島説もあるようです。もっともらしい説ではあります(この時点で本州(東北/みちのく)が北の果てで基本的には北海道は知らなかったと思います)。シが四で当初は(記紀の時代の大和から見て)九州が四国のようにも見えなくもありません。

筑紫島の代表が筑紫国(北九州)は自然です。先に触れましたが「筑後」の存在を考えても博多あたりが大陸の窓口かつ生産地で中心地でしょう(北九州からは海流の流れで日本から向かうのがやや困難です)。白日神(シラヒノカミ)は古事記にしか登場しない神ですが、太陽神だそうで、アマテラスの異名として日本書紀でも見られるようです(白日神 Nihonsinwa)。筆者は神武天皇のルーツが北九州ではないかと推測しているのですが、天孫降臨の舞台が北九州だったと考えると示唆的なものがありますね(ただし、ここでは詳述しませんが、卑弥呼=天照で大和の人間、天孫族=神武天皇以前の北九州人、あるいは日本に吸収した渡来人ぐらいにしか思っていません)。いずれにせよ、天照大御神と正史で同一視される太陽神が筑紫の神であることは重要で、当時の北九州と大和の深い関係が伺えると思います。

豊国は豊前・豊後が豊かと言われるとピンと来ないところがありますが、トヨと言われば、邪馬台国の女王台与で、大和から見て最初の国に重要な女王の名を冠したり、豊かだとした可能性があると思います。そもそも北九州視点で筑紫島の4つの分け方は異常に不自然です。肥前・肥後を一緒にしていることとか、筑前と豊前のあたりの境の問題とか(結局豊前の一部を福岡県に編入しています)。大和朝廷が勝手に4つに分けたように見えるんですよね。陸奥・出羽・越なんかが代表的ですが、辺境ほど大きく分けるものです(九州は先進でもあるのですが)(建国の協力者であろう吉備のみ例外に見えます)。神名豊日別でも日は使われており、ワケが男性に使う名前であれば、応神天皇=宇佐神宮(豊国)を想起させるものはあります(サルタヒコと伝えられるようですが)。

肥の国は火の国なのでしょう。阿蘇山は噴煙を上げており、記録がありませんが、雲仙も噴火したかもしれません。神名のタケは土佐の神等と同じく雄々しいとか勇猛、豊(トヨ)の使用もみられますが、ここでも日向(ヒムカ)が見られます。太陽神信仰で方角に関わらずあちこちにヒムカがあったように思えます。太陽神はしばしば農耕神なのだそうです。

クマソのクマは隈で辺境なのでしょう。やはり当時は東シナ海ルートなど無かったか例外的だったと分かると思います。タケとか日は繰り返しません。神武東征ですが、古事記でいう熊襲が起点になっていることは意識されていいと思います。

次いで壱岐・対馬ですが、大陸・半島に向けて順に西進していると見ることは出来るでしょう。

ここで佐渡ですが、日本海の大きめの島(佐渡国はずっと存在しました)ですから、バックしてでも触れたと思えます

最後の大倭豊秋津島は本州ですが、日本書記では概ね2番目に触れます。おおやまとが本州という島の当時の本質を示しているように思いますが、トヨ(豊作を想起します)や秋(収穫の時期)が稲作の島をイメージさせる感じがないでもありません。

以上なのですが、日本書記にはこれまで一つだけ触れられていない島(洲)があります。越洲(こしのしま)です。一般に越国(越前・加賀・能登・越中・越後)のことだと言われていますが、どう考えても島じゃありません。日本書記の編者も頭を悩ませ、諸説を(恐らくそのまま)収録したのでしょうが、原型を考えてみる必要はあると思います。能登島が一番大きいかもしれませんが、さすがに特に言及するのは難しそうです。佐渡島が一番ドンピシャですが、佐渡島は同時に併記されてもいます。越州は隠岐・佐渡の後に記載されていることを考えると、佐渡島も越洲も同じ島を指すと考えるのが一番正解に近いのかもしれません。あるいは北海道を遠く噂に聞いていた可能性も無いとは言えないのかもしれませんが。

隠岐の三つ子の島を島前と考えると、残る島後が越洲かもしれません。島後はわりと大きな島です。この説が苦しいのは、隠岐の次に佐渡に行ってから越洲に戻ってくる形になることですが、その辺は誤伝で可能性として頭の体操をしてみた次第です。


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