自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

太宰治とサルトルから社会正義:「政治と誠実」を考える

2016-07-22 16:40:02 | 自然と人為

 若いころ「人間失格」の太宰治が理解できなかったのは何故だろうと、最近は太宰治のことを知りたいと思うようになった。名著47 「斜陽」:100分 de 名著は、古稀を過ぎた私なりの社会正義:「政治と誠実」を考えるヒントを与えてくれた。
 「斜陽」第1回 「母」という名の呪縛
 「斜陽」第2回 かず子の「革命」
 「斜陽」第3回 ぼくたちはみんな「だめんず」だ
 「斜陽」第4回 「太宰治」の中には全てが入っている

 私は古稀を過ぎても「人間万歳」の武者小路実篤が心のどこかにいる。「人間万歳」の武者小路実篤が私の心に住み社会正義を考える原点には、この世に生まれた奇跡に感謝し、それぞれの命を精一杯生きようという気持ちがある。奇跡で与えられた命を自ら断つよりも死ぬ気で頑張れと言いたいが、その人にとっては死ぬことが問題解決だったのかもしれない。
 人それぞれの生き方は自由だが、政治は人々の税金を使用して仕事と生活をしているので、死ぬことが問題解決にならない社会にしていく責任と義務がある。政治は言葉だと言われても、太宰治にとっては理想も正義も誠実までも皆ウソだ!ということだった。
   
        「斜陽」第3回 ぼくたちはみんな「だめんず」だ

   
        「実存主義とは何か」第1回 実存は本質に先立つ

 一方、名著48 「実存主義とは何か」:100分 de 名著 で、サルトルは「人間の実存は本質に先立つものであり、人間は自らの決断によって人生を作りあげていかなくてはならない」としている。太宰治の「皆ウソだ!」をサルトルの「人間の本質は作り出すものだ」と読めば、太宰とサルトルが見えてくるように私には思える。
 第1回 実存は本質に先立つ
 第2回 人間は自由の刑に処せられている
 第3回 地獄とは他人のことだ
 第4回 希望の中で生きよ

 太宰治の「斜陽」は戦後の新しい体制における貴族の没落を背景に、女性の恋愛=革命とダメ男を描いた小説で、時代の変化に対して女性がたくましいのが気にいった。サルトルの実存主義は第2次大戦の大人の責任に対して「これまでの哲学が求めてきた本質は実存するもの、そこにあるものではなく、個々人が選択してつくりだすもの」という実存主義を創出した。人は社会に拘束されているが、希望をつくりだすことで生きる意味を見出そうというものであり、ここでも女性のたくましさが生まれ、いずれも日本とフランスにおける戦後の若い人の生き方に大きな影響を与えた。

 太宰治「斜陽」の女性はたくましいが、「だめんず」は他人のまなざしに地獄を見ている。男性は日常は支配者願望もあり強がっているが、社会の変化にはぐずぐずしているだけだ。文学者と哲学者、日本人と西洋人の違いも含めて太宰治とサルトルは、「政治と誠実」について考える材料を与えてくれる。なぜ、社会正義:「政治と誠実」なのか。人はどのように生きようが自由だが、人間は想像する動物であることと、公務員は人々のために仕事をしている公僕であることは誰も否定できない。公務員はエリートでもなく、支配者では絶対ない。政治は公務員の仕事であり、政治家(公務員)は自分の考え(想像)に誠実である前に、政治を委ねている99%の人々の生活に誠実である責任と義務がある。それが社会正義であり、日本の憲法が政治を拘束する本質である。政治にはいろんな考え方があると誤魔化されたくない。政治家の言葉がウソかどうか、政治家が誠実かどうかの判断もそこに求めることが出来る。
 ここでは文学も哲学も論じるつもりはない。ここに紹介した「100分 de 名著」の私なりの理解の範囲で、私なりに99%のための社会正義:「政治と誠実」について考えて見たい。

 例えば沖縄辺野古の埋め立て問題で、政府が沖縄の民意を代表する知事と誠実に話し合わないことは、現場の要請より別に重視することがあることを示していて、国と地方の問題ではなく政府が国民の声を聴く責任と義務を放棄していることになる。アメリカの基地が大切だという判断は、国民の声を無視した政府の勝手な判断であり、国民のための政治では断じてない。99%のための「政治と誠実」ではない。現場の要請を否定して、これを国のためという論拠はない。それが99%のための「政治と誠実」について、太宰治「斜陽」とサルトル「実存主義とは何か」から考える理由である。

 まず「斜陽」の貴族の没落であるが、貴族は戦前の日本の支配者層であった。戦後の普通選挙に当たっても公職追放された者以外の元支配者層がかなり選出されていて、それが戦後政治の始めの背景にはあるだろう。憲法はGHQに押し付けられたというけど、毎日新聞によってスクープされた憲法問題調査委員会試案から分かるように、戦後に生き残った支配者層からは国民主権の憲法はできなかったろう。これは戦争による社会の断絶はあっても、革命による国民の主体的な断絶ではなかったし、今でも明治に郷愁を感じる者がいるように、日本人には過去との主体的な断絶はできないと思う。
 太宰治自信ははサルトルの言うように「実存(必然的な存在)にはなれない」けども、創作で想像の世界を創ることはできた。しかし、それは「未来に向かって自分をつくる」方向ではなく、絶望と自死の世界であった。そのことが若い私には理解できなかったのだろう。

 もう少し戦争について日本の戦後の歴史を考えて見よう。自衛隊の創設も朝鮮戦争によるアメリカの要請でできたもので、ある意味では独立国でないからアメリカの基地を押し付けられたと言えよう。また、国防軍のない独立国はないという考え方も戦争の反省から生まれた新しい考え方を否定し、独立国には国防軍があるという不確定な本質論を先にする議論だと思う。アメリカによる武装解除よりも、国民による主体的な戦争放棄と考える方が前向きの本質論だ。

 また、戦争の抑止力として軍隊が必要と言う論も仮想敵国を相手にした軍拡競争の原因となる。戦争の抑止力に軍隊が必要という例として死刑は犯罪の抑止力になると言われるが、軍隊のない国と同様に死刑のない国もある。トルコではクーデターを理由に支配者が死刑を復活させようとしている。また、個人の犯罪と国の戦争を同じレベルで考えてはいけないが、秀吉が刀狩した日本より、いまだに自分の命は自分で守る銃社会のアメリカの方が個人の自由はあるかも知れないが、それはサルトルの言う不安で孤独な自由、「自由の刑に処せられている」と言えるのではなかろうか。
 国が武器を個人から取り上げると個人の安心は得られるが、一方では国が軍隊を持つと支配者の都合によって仮想敵国が作られるし、軍隊はクーデターを起こす可能性もある。軍隊が必要なのは国民ではなくて軍需産業であり、国民の支配者である。自衛隊のあり方は未来を見据えて国民が考え、本質を作り出さねばならない。

 いずれにしても日本の政治に希望を持ちたい。批判のためではなく希望のために立ち止まって、もう少しサルトルとともに考えたい。

初稿 2016.7.22 動画更新 2018.2.21

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