つながりあそび・うた研究所二本松はじめ

二本松はじめ(ピカリン)の活動予定や活動報告、日頃、考えていることなどを書きます。研究所のお知らせも掲載します。

抱っこ通信918号 すずききよしの米寿を祝う集い 

2018年07月30日 | 抱っこ通信
抱っこ通信918号 すずききよしの米寿を祝う集い

昨日(29日)は、大阪で、「すずききよしの米寿を祝う集い」に参加してきました。
たまたま集いの実行委員さんのフェースブックで集いのことを知り、これまた、たまたまつながりあそび・うた研究所と各地のつながり仲間の実行委員会で開いているサマー・カレッジの空白日だったので、即、参加の申し込みをしました。
北海道から沖縄までお祝いの人たちで満席でした。

少し早めに会場に到着して、控室ですずきさんとご対面。30数年ぶりに再会です。
私はつながりあそび・うた研究所を立ち上げてからは、すっかりご無沙汰で、なかなかお会いするチャンスがなく、
この日は待ちに待った日でした。

すずきさんに会う前に廊下で電話するマネジャーの吉川さんは、私たちの姿を見ると、即、手招きをしていただき、再会の握手をしました。
これだけでやっちゃん(と吉川さんはみやちゃんを呼ぶ)は涙ぐんでいました。
やっちゃんはすずきさんのリハーサルを見ていても、また、涙です。

それだけ私たちにとってはすずききよし・吉川加奈子(本人は嫌がるだろうけど)の存在は大きいものでした。
地元、東久留米で全レク(全日本レクリエーション・リーダー会議)の活動・運動を実践する30歳前後の私たちにとって、二人の存在、音楽、活動、運動は青春そのものでしたからね。

特に、私にとってはすずききよしの自らの体験から生みだされる愛と平和のうたや活動、生き方は、私の様々な活動に大きな影響を与えていたと思います。
その答えの一つが、この6月に出版したCD『あの日から・・・大切なあなたへ』です。

戦争を体験していない私が、ヒロシマ、ナガサキ、東京大空襲などで戦争を体験した子どもたちの書いた詩や文章に曲をつけてうたうことができたのも、もしかしたら、すずききよしに出会っていたからかなと思います。

今回も、「生きていたかった子どもたちから」の私のうたは、戦争のあったあの時代だけでなく、子どもらしく、人間らしく生きられない子どもたちからのメッセージとして、今、受け止めなければならないと改めて思いました。

また、すずききよしが40歳を過ぎてうたうプロになったことも、どこかですずきさんを意識していたかなと。
すずきさんの場合は、自らがシンガーとして人前で歌いはじめ、
私の場合は、つながりあそび・うたをつくり、あそびまわりはじめました。

いつも私が言っていることですが、「人は幸せになるために生まれてきた。
そして、人を幸せにするために生まれてきた」ことを統一、実践するために、生きる楽しさ、生き方を知ったのかなと思います。
もしかしたら、知ろうとしているのかもしれませんが。

そういう意味でも、今回のすずきさんとの出会いは、
古希を迎えた私として大きな喜びでもあったし、何かを発見できるかもしれないという期待がありました。


米寿のお祝いの集いの内容です。
1部はすずききよしのステージ。
3年前に頸椎の手術をなさり、まだ歩行が困難な状況でしたが、このコンサートを励みにリハビリを続けられ、ギターやキーボードの演奏も可能になってきたということで、昔からの力強いうたう声も少し戻っていたようです。

曲目は『明日は変えよう力を協せて』『感謝の唄』『WALKING IN THE DUST』『庭の小梅』『NO MORE WAR』『とび職暮らし』『俺らの空は鉄板だ』など、声ももっていましたよ。
いきなり安倍政治の話から始めるなど毒舌は相変わらずで笑っちゃいました。

うたごえもギターもそうですが、歌う人の姿勢、生きる姿勢が正直に出るのです。
これもすずききよしから教えられたことだと思いますが、今回もそのことをつくづくと考えさせられました。
まだまだ声が戻っていない私としては、ちょっぴりこれからの私の活動に自をが持たしてくれました。


2部はすずききよしのお弟子さんやうた仲間たちのお祝いのステージ。
それぞれがすずきさんとの出会いや関係を語り、すずききよし作品やオリジナルを歌ってお祝いしていました。

広島から参加した山上茂憲(がみさん)さんのすずききよしの『迎春花が咲いたのに』が胸に響きました。
中国で残留孤児を生みだしたのは戦争です。
その悲しみ、怒りが静かなうたごえと共に迫ってきました。

やっちゃんと私は・・・私たちに求められているところは・・・を会場で考えて、
「すずききよしさん米寿のおめでとう 万歳」から始まって、『誕生日って』でお祝いしました。
手拍子、肩組み、うたごえで会場が一気に明るくなった気がしましたよ。
私らより先輩が多いのですから肩組みはやめて、腕組みか手つなぎにしようかと相談していたのですが、
そんな心配も無用でした。
90歳代の大先輩も、80歳代の大お母さんも素敵な笑顔でしたよ。
すずききよしの仲間、ファンはやさしい人ばかりなんです。
帰り、トイレで会ったオジサンが「楽しかったです」と肩を並べながら言ってくれました。

埼玉から参加したたかはしべんさんは、『ゴキブリの唄』と『あの人の日曜日』。
すずききよしさんとの関係はべんちゃんのデビュー当時からだそうです。

お祝いの最後は、すずきさんが歌うきっかけをつくってくれたという紙ふうせんのお二人(後藤悦次朗・平山泰代)の『竹田の子守唄』をしみじみ聞かせてくれました。

最後は会場のみんなで『手のうた』『ホ―ボーの子守歌』『俺らの空は鉄板だ』をシングアウト。
最後の最後に『さよならの歌』の中、すずきさんの挨拶がありお開きでした。
すずきさんもお疲れだったでしょうが、それ以上に嬉しかったでしょうね。
「ますますリハビリに頑張ってください。また再会できる日を楽しみにしています」と告げて会場を後にしました。



すずききよしさんとの出会いは、おそらく多くの人も同じだと思いますが、『俺らの空には鉄板だ』でした。
1979年、私が学生だった頃、当時、住んでいた練馬で、「フォーク&フォーク」という青年の集いがありました。
その中で、ある青年グループが『俺らの空には鉄板だ』を歌ったのです。
勿論、聞かせるというのではなく、シングアウトでリードしてくれたのです。
その時に聞いた、歌ったこの曲の衝撃は大きかったです。
こんな歌もあるんだ、と。

当時、私もギターも弾いていたし、オリジナルも数曲くらいは創作していたのですが、
ラジオ、とりわけ深夜放送は聞かない、レコードも持っていない、テレビもあまり見ない、
それでも歌が好きだった私にとっては、是非「うたいたい一曲」になりました。
その後、社会人となって月1,2度行くようになったうたごえ喫茶『ともしび』(吉祥寺店)で歌詞とメロディを覚えたのです。

そんなすずききよしさんに東久留米に初めて来ていただいたのは、1979年10月8日「すずききょしフォークソングコンサート明日への道」でした。
それから1985年3月9日「すずききよし 愛と平和のコンサート 孤燕はもう泣かない」まで7回東久留米でコンサートを開いてくれました。

ある面では、全レク東久留米レクリエーション・リーダー会議(全レク一座)の働く者の立場に立ったレクリエーション運動・活動の具体的な一つの実践だったのかなと思います。
愛と平和と自由を求めるうたは、当時の月一回ののんびりコンサートのメインのテーマでもあったのですから。

つまらない話ですが、東久留米に来るだけでは経費も出せませんから、他地域に働きかけてコンサートを開いてもらったこともあります。

反対に、すずききよしさんからのお誘いで、私とやっちゃん(とマネジャーの吉川さんは呼ぶ)は82,83年奈良県冬の青年祭典に出演、野田淳子さんや周防猿まわしの会の太郎・次郎と共演しました。
83年には大阪関目の福祉まつりに出演しました(フルートのカメさん・キーボードのカラスのお姉さんも共に)。
懐かしい話です。

今日は朝からすずききよしのLPレコードを探したり、
全レク東久留米レクリエーション・リーダー会議の機関紙『輪囲和意』を創刊号から読み直し、
すずききよし関連の記事を探しました。
コンサートの呼びかけやコンサートの感想。
すずききよしさんからの手紙や吉川さんからの手紙などもありました。
この探索?も楽しいことでした。

約6年間のすずききよしさんとの交流は私たちのレクリエーション、うた活動だけでなく、
東久留米での文化活動、平和運動にも大きな影響を与えていました。
そのこともうかがえる記事もたくさんありました。
いまさらながら感謝、感謝です。

すずききよしさんが元気になられ、また東久留米でコンサートが開くことができたら嬉しいです。
私も9月2日の古希コンサート、頑張らなければ。








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