春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

(57) 母を訪ねて3千里!

2016-06-12 20:44:54 | 節三・Memo

小石川後楽園のひととき!

 


今日は暑くもなく!
寒くもなく!
何事もなかった一日でした!
明日からは、健康の為にも肉体労働に精を出す週間といたします。
水曜日は、病院の検査結果を聞きに!
これが 「通院最終日」 と思いたいです!

八王子は静かです・・・・・・!
  
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【太田節三の慕情・メモ】
{投稿した記事を明確にし、混乱を回避するために項目を冒頭に記します}

※1905年 - 日露戦争では「モレノ」、「リバダビア」の2隻の軍艦がそれぞれ
「日進」「春日」として日本海軍に売却された。

※1908年 - ブラジルのサントス港を目指した笠戸丸移民の760人の内、
 160人がブエノスアイレスで下船。日本人のアルゼンチンへの第一次集団移住となる。

※日本から一番遠い国、アルゼンチン。
 アニメの巨匠宮崎駿は1882年イタリアのジェノバから、
 アルゼンチンのブエノス・アイレスで行方不明になった母、
 アンナ・ロッシをたすねて、旅に出る物語「母を訪ねて三千里」を描き上げています。


節三の兄六郎がアルゼンチンをめざし、小坂町に決別した年が1919年5月。
約10年後の物語ではあるが
石川達三 『蒼茫』 第1回芥川賞受賞(1935年)

1930年3月8日から。ブラジルへ渡る移民者の渡航船に乗るまで、
『国立海外移民収容所』送られた人々、
不況に苦しんだ挙句選んだ移住希望者で、
戸籍を偽り、病気を隠し、帰還させられる恐怖におののきながら、10日余りを過ごす
その揺れ動く心情を描いています。


石川達三その後

1930年に移民の監督者として船でブラジルに渡り、
数ヶ月後に帰国。
国民時論社に復職して『新早稲田文学』の同人となり、小説を書く。
その後国民時論社を再度退職し、嘱託として働く。
ブラジルの農場での体験を元にした『蒼氓』で、1935年に第1回芥川龍之介賞を受賞。

1936年に結婚。社会批判をテーマにした小説を書くが、
1938年『生きてゐる兵隊』が新聞紙法に問われ発禁処分、禁固4ヶ月執行猶予3年の判決を受ける。1942年には、海軍報道班員として東南アジアを取材。

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コメント
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