春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

異国の哀愁さんの見えない圧力に!・・・そして節三から物申~す!

2016-06-23 19:14:24 | 節三・Memo


こんばんは!
元々文を書いたり、練ったりが不得意で、その時間があれば、酒を飲み、
明日も、うまい酒を飲むぞう~!とバタンと「寝る」性分でして・・・・・。
昨日は、ブログ画面を見るとどうも眠くなって、思考回路が働きません。
それで、つい気になっていた「哀愁」の言葉の記事をお借りし、音楽まで、
つい拝借してしまいました。
{想いが強く文はならない日・・}
ブロガーとして十分反省をいたしておるところです。

加えて{Missアメリカ便りさん※どこか退職?}へ
あなた様の書いたもの記事の内容は、私の記事で大きく
「歪曲」させてしまいました。
目覚めて気づき、あわて、加筆致しました。どうか、
無断借用と合わせてご勘弁ください。

今日もただ謝るだけの{toyo0181}
これから少し頭の柔軟体操です!!



【節三・メモから】  {お答えです}

昭和3年2月16日

秋田魁新報 夕刊記事と太田宗家の証言から

節三は、三度の飯よりケンカの好きな暴れん坊。

学科の方は常に不振で、大館中学のもてあまし者。一回落第している。
が、柔道は先生よりも強く、東北6間の武者修行では、
各中学校を総なめにしたほか、盛岡高校農業をも破った。
上京して明治大学商科に入る傍ら、「三船久蔵」の内弟子になった。
『ここまでは、稚拙・稚拙ですが、創作の下書きにしています』
だが、「暴れん坊」ぶりは相変わらずで、破り袴に高下駄、東京の街を
「近藤勇」のように、風を切って歩き、ある時などは、
日本刀で闘犬の首をスッパリ切ったこともあった。
また学業の方も、試験の際に替え玉を使ったことがバレ・・・・・{次回}

このような証言と新聞記事から、ある「著書」にある、
太田節三の優秀な学力を持ち、嘉納治五郎氏から日米の「懸け橋」
を依頼されて、アメリカに渡ったという、「説」はないと思いませんか?
更に、節三の師は永岡秀一門下ではなく、「三船久蔵」であり、節三の
後年、この師弟関係のエピソードが資料として残っています。

節三は明治大学で問題をおこし、退学。{この問題が上記、証言と、新聞の報道です}
その後中央大学に編入しましたが、その時の柔道の教導が永岡秀一氏。
縦社会ですので「師」には違いありませんが、節三は、教導が大学に居ても、

もっぱら講道館に赴いて稽古に研鑽しております。
「著書は三船久蔵氏と節三の関係がそっくり抜けていますので、
内弟子の件も、幼少の暮らしの描写など「歪曲」されています。
「著書」、節三が、英語ペラペラ・・・アメリカに行くために二つの大学で語学や
アメリカの時勢について猛勉強をしたという描写はまずありえな・・・・!
{ここまでにさせていただきます} 

コメント
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