春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

(17) 戍太郎 大変

2016-01-31 16:42:42 | 節三・Memo

明治45年、長男戍太郎は大忙しだった。
4月のタイタニック号が1512人の命を巻き添えにして北大西洋で沈没。
そのニュースは当初小さい記事でしかなかったが、ことの詳細が次々と日本に舞い込むと、冷たい海で、もがき苦しんで、息を絶えた姿にね自分を置き換えて、同情しきっていた。
その同情は半月後、死者276人を北海道夕張炭鉱の爆発に移行した。
小坂鉱山で働く抗夫達は、そのニュースを知ると、得体のしれぬ、巨大な空気に包まれた。
日々寡黙になり、鉱山事務所でも連日、この爆発事故を教訓にと、作業前に注意を促した。
抗夫たちの鉱山離れが生産を落とす、役員は必死であった。
事務所では、近隣の大館村から鉄道を利用して働く抗夫たちが、
「やめる」
と一言。
危機感を感じ始めていた。



口二万人と六千人くらいの抗夫たちこの村で、去年村長に選任された小笠原勇太郎と、戍太郎を含めた五人の村会議員が鉱山を訪ね、役員と面会した

その帰り道、小笠原村長が戍太郎に
「義損金の責任者を太田さんと言ってしまったが、大変だろうが頼む」
「やまも他人ごとではないでしようから、な」
村では恩恵を施す鉱山のことを「やま」と呼び、「やま」という呼び方に誇りを持ち、親しみを感じていた。
戍太郎は、あくる日から、村の一軒一軒握り飯を背負って、「夕張の事故」を説明し、義損金を集め始めた。

陽差しが強くなり始めた五月、初めてのオリンピックに参加した団長が嘉納治五郎で、去年児玉道場に中山道博と共に訪れていた。
節三は「俺の稽古をずっと見ていたぞ」と、その日のことを戍太郎に得意になって説明した。
戍太郎の「義損金」集めは予想外の額になって、関係者を喜ばせた。
そんな折、とんでもない訃報が小坂村を震わせた。
明治天皇が崩御された。

そして九月の青山練兵場での大喪。
役場はてんてこ舞いであった。
輪をかけてコレラが全国的に流行りだした。戍太郎は、
「魚はダメ」「ワインでうがい、だ」「お守りを張れ」などとあわて、家中を駆けずり回った。
追い打ちの極め付きが間もなく年の暮れという日の「夕張炭鉱216名の死者」を報じた、新聞記事であった。
町長の小笠原勇太郎が戍太郎の家の門を沈鬱な顔でくぐった。
明治四十五年、大正元年は、町長の顔に象徴されたようにくれた。


雪が解け、泥の箇所をポン、ポン飛び越し、葉書を頭の上でくるくる回しながらミツが家に飛び込んだ。
勉強のできない、喧嘩好きの節三が大館中学受入許可を貰ったのだ。
「事件・事件だ、事件・・」
土間を小走りにミツは胸の中で嬉しくて思わず、そう叫んだ。

コメント
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