春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

(12)節三の激情

2016-01-01 16:20:14 | 節三・Memo

鉱山事務所を見上げる元職員の夫婦

節三の母、クニは55歳になった
「節三を読んで来い」
新助が新年早々怒鳴った。
広間には新年恒例の新助の挨拶が始まろうとしていたが節三がいないのである。
クニは三女の「ミツ」と目を合わせ、瞼をパチパチはじいた。
ミツは羽織をクルリとお尻の上まめくりあげ、節三を呼びに行きかけたが、白いた足袋をはいた足がぴたりと止まり、回れ右をした。
座りなおしたミツを新助は「きょとん」とした顔でミツを所作を見ながら隣の席のクニに「どうした」ときいた。
クニは戍太郎の子「昌男」に視線を向けたまま唇をとがらせ、首をくね、くね、くねと振るばかり新助の問いにどう答えたらいいものか
「どうしたんでしょう」と答えるのが精いっぱい。
間髪入れず、ミツは背筋をピンと張ると「節三はもう暗いうちから出かけましたよ」「道場へ行きました」
新助も戍太郎も昌男も一斉にミツのほうを向いた。
新助の機嫌が悪くなる誰もがそう思った。
「正月は道場も稽古休みだと言ってたではないか」
昌男が不善と呟いた。
同年代には違いないが、節三は自分にはない自由さがあった。その自由は昌男にとって威圧を感じるものだった。
昌男は節三より1歳年下であるが昌男の父は新助の長男、戍太郎、節三は叔父さんになる。
幼いころ、末っ子の節三は可愛がられたが、新助の心には戍太郎の子、孫の昌男の存在が大きくなっていくこのころでもあった。昌男は太田家の継承者である。

去年の正月、お神酒を飲んだあと、台所で盗み酒をし大の字に寝てしまった節三であった。
新助は、去年出来事が脳裏に鮮明に浮かんだ。
腿を掌でぽんと打ち当てると
「稽古ならしょうがないか」
「節三もだいぶ腕を上げたようだからな。物事真剣に取り組むことはいいことだ」
躾けにうるさい新助も簡単に納得した。
機嫌を取り戻したし助に戍太郎が
「父さん明けましておめでとうございます」と一例ををした。
勝ち誇ったようなクニとミツがお互いに顔を見合わせ「つん」と顎をしゃくり上げ、腹の中でにやりと笑った。「今年の正月は穏やかに過ごせそうだ」とお互いに思ったに違いない。
節三は上り框でミツが渡したおせちのお重を抱えて雪道を急いだ。

新年のご挨拶を申し上げます。
オーチャード・ホールの生中継
日本を愛したジルベスターバレエの女王、シルヴィー・ギエムのバレエの最後の舞台を見たばかりです。
50歳を区切りと新年のカウントダウンに選んだ曲は「ボレロ」
30センチ四方だけで魅せる手の動き、指の動き、下肢の動き、腰の動き、
もう見ることは出来ないのだろうか。
何秒かでも踊ってくれないのだろうか・・・・
今年のカウントダウンは身じろぎできませんでした。
全身から出た言葉
見事でした

道場から聞こえる「タアーウ、タアーウ」の掛け声は節三だと高慶はわかった。
正月三が日の稽古は休みにしていたのだが、節三は稽古相手に五人の仲間を、児玉道場へ集まるよう命令していたのである。

高慶は節三が通う児玉道場の主である。
父児玉猪太郎の後を継ぎ、今では「秋田の児玉」と言わせるほどの猛者である。柔道五段、剣道五段と勇名を馳せていた。今でも定期的に上京しては講道館、有信館で腕を磨いている。
道場に通って1年あまり、節三の腕前は児玉門下生の年少組では誰もが相手にならなかった。大人でさえ投げ飛ばされるほどである。
もともと、喧嘩が強くなる為の柔道であった。今でもその気持ちは変わらないが人一倍の負けん気は、ますます磨きがかかっていた。

稽古に拍車をかけたのは、もう一つ原因があった。
前年、児玉師範の師、講道館柔道の嘉納治五郎、有信館剣道の中山博道が児玉を訪ねてきた時のこと、稽古を見た二人が節三の素質を褒めていたことを児玉が伝えたからでもあった。
嘉納は二年前クーベルタンの誘いでオリンピックの委員に就任し、今年は5回ストックホルムで団長として参加することが決まっていた。
「近所のおじさん」が俺を見ている。そう思っていた。
稽古が中断され一門正座で二人を紹介されるとあっけにとられた。、
有名な武道家がこんな東北の田舎道場で児玉師範と親しげに話している。
児玉のすごさをまざまざと知らされた。出来事であった。
その有名な武道家が自分の柔道を褒めた。「どうってことないです」といったものの、体から汗が噴き出でいた。

休みの規則を破ることはいいことではないが、柔道を磨く姿勢に文句はつけられまい。
母屋の窓から道場を見ている妻の寿子の背中にぼそりといった。
高慶は知らんぷりを決めた。

雪解けが始まった三月節三はまたまた、また事件を起こした。

五月、桜の蕾が枝で踊っていた。
悌三は節三を養子にすることを新助に申し出た。



1911年アメリカ太平洋沿岸のシアトルに講道館の伊藤徳五郎が道場を開く。
1912年1月1日 夏目漱石「彼岸過迄」を朝日新聞に連載開始。
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