まだ午前三時前である。小用に起きて「もうひと眠り…」と思ったのも束の間、妄想が湧いてくる。菊花を使ったレシピの数々、自己制御出来なくなって暴走中みたいなもんであるが、幸いにも午前は降雨の予報で「雨降りお憑きさん家の中」お約束なので「ままよっ!」とばかり起床した。何でかぁと言うと「ママ」を構想するためである。
起床する前から既に大枠は決まってしまって、一寝入りすれば忘れる事必定なので起床してしまったと言うべきか。大陸には「満漢全席」と言う似た様な料理があるらしいのだが、数日を掛けて食べ尽くす料理とは異なり、十数分で食べ尽くせる「満菊全皿」である。
あっちは山海の珍味をプロの調理人が準備した贅沢満足感だけの退廃的食欲を満たすだけのもので、こっちは妄想からでも知恵と工夫と手間暇かけ達成感で午睡間違いなしの旬だけの一席である違いがある。「小年金暮らしの孤爺で何を言うか!」と言われそうなものの、目の前に出された物を食べるのは病人と籠の鳥くらいだと本にあった。
激しく同意したいものの浮世の実態は「作らねば喰えん」なのであってトホホ窮まれり。さて、その妄想の献立は次のようにまとめた。これで雨の日の昼食、豪華絢爛「満菊全席」を作るぞーっ!。だけど台所では醤油が切れていた。9時の開店を待って雨の中スーパーまで行った。この執念畏るべし、と言いたいところなれど醤油が無いとおぼろ汁も菊花の佃煮も出来ないのだ。銭こが無いと醤油も手に入らないし棲むのは路頭である。
主食 実家魚沼の新米、塩昆布と菊花の混ぜご飯・葉唐辛子佃煮載せ
汁物 おぼろ汁菊花入り
主菜 卵焼き菊花とじ・生キクラゲ炒め添え
副菜1 菊花三杯酢(桃色種:もってのほか)
副菜2 晒しエゴ菊花味噌漬け
副菜3 菊花の佃煮
茶菓 菊花羊羹
茶 ほうじ茶
猛き餓鬼道、遂には滅びぬ。もう二度とやりたくなーい。どうせ雨だし午前三時に起床してしまった手前、日本男児として「打ちてし止まム」の心持で挑んだのだが、やはり一汁一菜が性に合った小生なのだ。それでも実家の新米はお喰い初めで、混ぜご飯にする前にひとつまみ試食したが、やはりおかず無しでも食べられる旨さだった。全品、菊花を用いたから口直しに葉唐辛子の佃煮を添えたのは正解で、ここまで菊花で攻められると、いささかゲンナリしない訳でもない。まあ、全て身から出た錆で因果は巡るのであった。
これで菊花の食べたい調理は試みたし、庭の菊花はもう食べなくても良い気分になった。早い話が食傷気味で、何事も分をわきまえほどほどが肝心。だからと言って「おどまかんじん、かんじん」は嫌だけれど・・・。しかしなんだなあ、「バッカリ食」は貧しかった時代の記憶の食事で芋バッカリ、カボチャバッカリ、野沢菜バッカリ。沢庵バッカリ、シオカラバッカリ、麦飯バッカリ、米作農家なのに黄変米バッカとか、指折り数えればこぼれ落ちて来るが「嫌だなあ!」と思って食べた記憶はない。まあ、空きっ腹には何でもおいしいのであった。飽食の時代、ご馳走や嗜好品が溢れていても美味しい物は欲求が勝り無いに等しい。
これはこれで不幸であって、そのいくばくかをアフガンや難民に分け合う心情も無いとなれば、これこそ本当の餓鬼道、不幸な浮世だろう。小生は今回の「窮亭料理・満菊全皿」で「足るを知る」を得たのだったが「足るを知る者は富む」と言う諺は誤りであって、上を見ても降りては来ないクモの糸ばっかりだからしょうがないし下は奈落である。歌にある「千尋の谷万丈の山」天下は険に溢れている。難民は瞼に溢れている・・・。