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トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

根上がり倒木発生してしまった・・・

2025-05-31 | 小人閑居して憮然

 拠点入り口の柿の木と食草園のイボタノキが相次いで倒れてしまった。風倒木となった訳でも無く土壌環境が悪かったりで根の腐食が直接的要因みたいだった。柿の木は日当たりが悪い事もあって樹勢はよろしくなかったもののこれで復活の見込みは消えてしまった。拠点への通路を塞ぐように倒れたけれど迂回できるし急ぐ必要もないから放置していたのだが会友のMさんが通るに邪魔になる枝だけ切ってくれていた。これでますます後回しになっていく。

 もう一本のイボタノキは周辺では一番の大木で最初に植えつけたキジョランが絡まっている樹で倒木となってしまい残念至極と言うしかないがキジョランの蔓切断には至っていないようだから不幸中の幸いだ。まずは枝に絡まったキジョランを傷めない様に外して至近のツバキに絡ませてやらねばなるまい。この処理に一日必要なのだが倒れているイボタノキにアゲハ類が吸蜜に来ているのを見るとこれはこれで柿木よりも必要な樹種なのだと思えて来る。孤爺的にはイボタガの幼虫を視認したくて待ちぼうけの身なのだ。待ちぼうけ待ちぼうけ、今日もせっせと野良仕事、そこへアゲハが飛んできてふわり止まって花の蜜・・・。こういう引用は盗作に近いのかしらんがそんなこんなで社会的な事柄にはますます疎くなっていく孤爺なのであった。そもそも姥捨て山の動植物以外と社会的関わりは消失している現状は高齢者の見本みたいなもんだろう。

     


送水管の次は産卵管に悩まされ・・・

2025-05-30 | 小父のお隣さん

 飼育下で可能な限り野生状態での産卵繁殖を試みたものの譲り受けた時点ですでに成魚で産卵可能な状態であったにもかかわらず疑似母貝繁殖も成魚・仔魚同居繁殖も数匹だけで既に野生での繁殖年齢を大きく超えてしまった庭のタナゴ達である。昨年、一昨年とも産卵管は出て来ず今期も絶望的、いいえ絶望間違いなしと判断できる。譲り受けてからの飼育年数は野生での生存年数を超えているのだから全ての個体が高齢者、いいえ高齢魚間違いなしなのである。

 孤爺、池のほとりに立ちて曰く「歳を重ねるとはかくのごとしか。昼夜を置かず…」と子に倣って呟いてみたところで時が戻る訳も無く、池のタナゴが若返る訳も無しでまあ、超高齢魚にもかかわらず極めて健康闊達であるのが救いと言えば救いかも。産卵管を出さなくなってもう三期目であれば産機づくはずもなく繁殖は諦めざるを得なくなった。残る手立ては環境エンリッチメントを心掛け長寿を全うさせるだけである。早春の頃、オスの魚体は婚姻色が露わだったのだが五月も後半になると薄れてきて定かには見えなくなっている。繁殖年齢ならまだまだ色彩、色つや麗しくメスも体長ほどもある産卵管をたなびかせながら遊泳しているはずであるがこのグループでは無理となった。

 同居している泥鰌もお化け泥鰌になってしまったが泥鰌も仔魚を見ていない。太い毛糸で人工藻の棲み処を設えてあり、これには適応しているもののオスメスどちらかの単性だけなのかどうかまでは判らない。シジミとカワニナは十数年来世代交代を重ねているから環境創出は間違いないと思うもののドブ貝やマツカサ貝はヨシノボリを生簀同居させてみたけれど繁殖は適わなかった。まあ、メインは姥捨て山なので二兎は追えないというのが実感かなあ。一兎でも切株に当たってくれたらと思ったところでそれは年齢相応の耄碌妄想性バイアスであるのがオチなのだが懐古や回想もつながるから耄碌妄想性療法になるやもしれんわい。

     

 


雨の日の沼は泥沼、足が抜けない執着地獄・・・

2025-05-29 | 何よりの楽しみ

 もういい加減でワッパカにしたいのだが我が体内に巣食う虫に操作されて止められない。カマキリに寄生するハリガネムシは成熟すると宿主を水辺に誘導させる能力を持っていると聞いているが我が体内にもハリガネムシならぬオハリコムシが寄生しているやも知れんけれど水辺に誘導はせずミシンに誘導する能力があるようなのだ。この日、前日夜半からの大雨警報が出ておりフイールドへの出勤は出来ないと判っていただけに虫の発奮は強かった。午前三時、小用に起きたけれど寝付かれず、結局はミシンの前で大用を開始する手太楽と相成ったのである。

 タスクは「集大成として縫い目をテープで隠した上質感のある帽子」それも「男児、女児、ママをイメージしてつくる」のにあったのだ。まあ、全ては端切れからとなるので不足が出ないよう、また余って無駄にならないように心がけた結果はほぼ満足したものの帽子の縁かがりに使うバイアステープが5cmほど足らず別色を加えなければならなかったものの、それほどの違和感は無くまずは上出来!。

 子ども用はキャラクターデザインの端切れを用いたのだが作ってみると幼児向けの雰囲気になって小学生程度を対象とすると幼い感じもするがまあ、細かい事は考えず、これで漸くやが体内のオハリコムシも満足されたようである。このデザインでの帽子製作は20枚に及んだけれど姉に送り付けた分は茶のみ友達が貰っていったそうでとりあえずは役に立って祝着至極であるものの執着地獄の結果でもあるから少々複雑だ。

 とは言え手慰みが消えてしまい妄想のバージョンに切り替わりそうなのだが人生、病あり他人ありであって全ては動的平衡の中で時を重ねるのである。つらつら妄想するに「テレビはつまらん!手慰みが面白い!」と言う感覚は生まれも育ちも雅な魚沼の水飲み百姓に出自があるからだろうと推測している。朝星・夜星・昼は梅干しの生活で繕い物など日常茶飯事かつ夜鍋仕事でもあったのだから、その遺伝子がまだ活きている。姉に帽子を送りつけて大いに呆れさせてしまった。まあ、孤爺はとうの昔に呆けておるが・・・。で、片付け始めていたら絽の生地が出てきてしまって「これで二枚合わせで真夏の帽子!」あーあ、やっぱりまだオハリコムシは寄生中みたいである。

     


何時もの手太楽だ・・・

2025-05-28 | 小父のお隣さん

 「お前たちの親はフーテンの寅かぁ⁉」と言いたくなる毎回の手太楽かつ顛末なのである。「少しは食量の過不足を考慮・分析して産卵すれよ!」と言いたくなるし言わなければ人の道に外れるのであるが聴く耳を持たない相手では孤爺の愛情苦言は届かない。かくして食料を喰いつくした幼子たちは路頭に迷うのであるものの強度偏食の性質では子ども食堂など役に立たないのであるし、この物価高、コメ不足のご時世ではウマノスズクサはどこも欠乏してしまっている。そもそも食料自給が成立しない出生数なのであるからして孤爺には妄動する事も出来ない。で、発音すれば「もうどうすることも・・・」なのだが「妄動」と変換するこのバカPCにはさらに苛立ちがつのる。しかし翻って客観的・俯瞰的に分析すれば「妄動」と変換したPCの判断も一理あるのであって耄碌進行中だからこそ妄動も当たり前田のクラッカー、なのであろうぞ。

 かくして葉を喰いつくし蔓を生え際まで食べ尽くして路頭に迷うのであるが「右や左の旦那様、正面におわします孤爺様、どうかお恵みくださいませ・・・」と哀願されようと「無いものは無い!」のであって、孤爺が庭にウマノスズクサ伸び放題にしてきた現状では罪一等は免れないだろうなあ。繁殖場所を与えようと意図しつつも現実は飢餓地獄を生じさせている。まあ、右を向いても左を見ても行いに誠など見当たらないのが当世浮世のようだし温情が仇となってしまっている。南無阿弥陀仏・・・。

        

     


オオカナダモの抜去 1

2025-05-28 | 小人閑居して憮然

 オオカナダモを投入されてから何年経過しただろう。未だに根絶には至らず今期もアシの生えている付近に姿を見せたので早速抜去に行った。昨年の度重なった豪雨で土砂の流入が多く、その分抜き取った後から沈殿した土砂もあったから「今期の発生は無いかも知れない」と抜かぬカナダモの手間算用などしていたのだがそうは問屋が卸さない、のであって葦の生えている中は土砂の堆積が緩やかだったろうから真っ先に発芽したのだろうと推測した。この日は今期の初回と言う事もあり抜去量は少ないが少ないうちから抜去を継続するのが繁殖拡大に至らせない道でもある。

 まあ、どうであっても抜去しなければワンシーズンで池全体に繁茂する繁殖力、と言うより席巻力あるいは侵出力があるのであって孤爺の抜去行動など取るに足りない、いいえ、抜くに足りない行為でもあるのだった。だが「それを言っちゃあお終いよ!」でもあって粛々とブツブツと竹の杖を頼りに膝まで泥中に埋まる中を移動しつつ抜去するのであった。この日は今期一回目の口明けで初日、何とも目出度く祝着至極、いいえ、執着して抜き続けねばならない執着地獄の蓋が開いたのだった。ここにオオカナダモを投入した個人の特定は出来てはいないが執着地獄の牛頭馬頭に天罰をお願いしつつ抜去をするのである。そいつには罰去はあってはならなず藁人形で呪いも掛けたいのである。しかし丑三つ時の呪い願掛けは暗くて怖いから未だに実行していない。

 それにつけても水深が浅くなってきて魚類の安心生息には程遠くなっているのだが沈泥部の泥浚いも実施できていない現状ではオーバーフロー部に土嚢で堤を作り水深を深めるしか即応の手は無いのだろうなあ。ジョレンひとつでは浚渫無理な量になっている。

 


囲いに活力を・・・

2025-05-27 | 蝶の食草園

 「もっと光を!」と言ったとかは昔の人だが孤爺に当てはめると事はいささか複雑になる。高齢者に「もっと光を!」と言ったところで孫子の代へ借金肩代わりの現金支給程度で、お手軽に着手したいのは鶏の脳味噌にも満たない能力であって期待するでは後世に借金増やす罪だけなのだ。それを廃し孤爺自身だけに向けると光はもう若きみぎりよりテカっているから「光はいらない!」のであった。しかしながら「活力は欲しい」がこれは更に難しい。年甲斐もあって体力は衰えるばかり、あげくの果てはお決まりの肩が痛い・腰が痛い・膝が痛い・初恋の人に会いたい、とまあ欲望は限りなく漏れ出てくるものの身体体力の老化衰退・明晰頭脳の耄碌化という現実は路線変更を余儀なくさせるのである。

 この日は浚渫土の一部を囲いに客土した。早い話「スタミナ土リンク」だが合わせて昨年の落ち葉集積部の下の部分も加えてみたのだ。囲いの外は野草の生育真っ盛りだけれど囲い内は衰退が著しい。一応管理上、囲ったけれど本来ならば周囲と同化した環境で維持したいノアザミやフジバカマ、イヌガラシなのだ。しかしイヌガラシはいの一番に衰退し消滅、二番手はフジバカマが消滅、このフジバカマは育成した苗でない自然実生で育った株が元気で囲いの周囲で生育旺盛だ。ノアザミは完全消滅してはいないものの囲いのひとつからは姿が消えて残りの囲いで細々と開花株があるだけだ。

 これを何とか改善したくて囲いふたつに客土した訳だけれど、もともとが雨水で流れ出た沈泥地の泥土なので粒子が細かく、これが嫌いな植物は結構あるのであって囲いのある棚も昔々は棚田の床で粘土質、気に入らないのは理解できるが適した用土の入手などありえない姥捨て山ではこれが孤爺の誠意でもある。現在、何も植わっていない囲い、現実は消滅したのだがノアザミの苗を定植し「ノアザミ満艦飾」を図っているものの二番煎じ、あるいは悪夢再び、まあ、結果は予想出来るものの人生の日々、執着したいのは衰退一方で、執着しているのは遠ざかるばかり、さーてどうなるのか、やってみなくちゃわからーんし馬鹿は死んでも治らない。


コアジサイ咲いた

2025-05-26 | 小父のお隣さん

 道路脇の斜面でコアジサイが開花していた。普段は気にも止まらない小樹なのだが開花すれば派手さはないものの風情で孤爺はそそられるのであった。タマアジサイも近辺にあるものの大柄過ぎて雑な感じがアジサイのイメージにそぐわない。園芸種のアジサイは多品種が店頭に並び豪華満載の感じがあるけれど美しさや派手さに特化させられてしまった花姿はなんとも奴隷の様な哀れさがある。

 それに引き換え、コアジサイは己を主張することなく日の当たらない場所でひっそりと開花している姿は孤爺の鼓動に弥が上にも鞭打つのである。これぞ大和の国、日ノ本の心意気である。孤爺はあの「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」と詠った兼明親王の楚々とした心情に触れる思いを妄想するのであった。


豊年だ!滿柵だぁ!

2025-05-26 | 蝶の食草園

 昨季のジャコウアゲハ発生はトント乏しくチョウ寂しいものだったのだが今期は大本営の要望に応え「産めや増やせや」と頑張っている。一時期、親チョウは多い時は片手では数えられない数が飛来していて、ご近所様には「オヤオヤ不吉な黒いチョウの舞うゴミ屋敷」と思われる可能性もあったのだがそれは無くなって目立たなくなった。

 ところがどっこい、ギッチョンチョン。今度はパンダ模様の幼虫様大発生で目につくまでになってきた。特にアプローチ横のフエンスに絡ませたウマノスズクサには大発生しており食い尽くされるのは時間の問題だ。幼虫の段階ではパンダ模様の金平糖風の身体だけれど蛹化するとお菊虫となっておっかない姿を晒してくれる。いつだったか玄関の壁で蛹化したお菊虫を見つけ、訪問勧誘に来たおばちゃま二人連れが「キャア!」とか「ワア!」とか言って退散したのをカーテン越しに見届けた事があって、これはこれでお菊虫も家庭貢献するのだと理解した。

 まあ、カエルにしろカメにしろ鶴にしろ「恩返し」をする性質は持っているようなのでお菊虫も感謝の気持ちを現したのかも知れないし、いつか童話になったり教科書に載ったりするのだろう。当爺者の権利として「孤爺とお菊虫」の題を指定する。写真は不要だがイラストはC・イーストウッドに似せるべきである。ともかくもまあ、あの落語家がアランドロン似なのとまぎわらしいものの、お菊虫はシルビーバルタンを希望するがバルタン星人は御免被る。かくして妄想は膨張し続ける・・・。

 外を見ればまだうす暗いけれど降雨は無い予報なので植樹を済ませなければ…忘れずに湿布を貼り腰痛ベルトを装着して出かけよう。これが孤爺の活きる道だがお菊ちゃん達、八十娘子に「行ってくるよ」と声かけも忘れんようにしなくては。通学路にもある「元気に挨拶!良い子だな」はまず大人が実践しなくてはいかん。

        

     


** TUNAMI(チリ地震津波来襲日)

2025-05-25 | 今はうたかた

              海が曳く水浸くかばね

              山へ押す磯満つかばね

              大浪の行く手の生き死

              思う間も無き

 

              曳き浪に渦巻くかばね

              押し浪に山盛るかばね

              大浪の辺でさえ生死

              返り見も無し

           


ヒオドシチョウ初見!

2025-05-25 | 小父のお隣さん

 先日に植えつけたハンノキの様子を見に行った折り、除伐し集積したクワ材の上にチョウがいた。トンボも近くで飛翔したり止まったりしていて、それに合わせチョウも翅を開いたり向きを変えたりしている。最初はヒョウモンチョウくらいにしか見ていなかったのだがどうも様子が異なる。

 しばらく動きを眺めていて気が付いた「これはヒオドシチョウなのだ!」と。ヒョウモンチョウの類いは周囲の動きに合わせ翅を開いたり向きを変えたりするのは観察した事が無く、こんな行動観察は初めてなのだった。ここで漸く名前の「オドシ」の意味に思い当たったのである。正確だかどうかは別にしてくだんの行動は「脅し」あるいは「注意喚起」に等しい行動だった。

 体幹部は曇ったようにピントが合わないように見えるのもヒオドシチョウであることを伺わせる。早春、産卵に来る越冬成虫は観てはいないし、今期産卵されたものは既に蛹化しているからもしかしたら今期羽化した個体なのだろう。翅の状態も新鮮に見える。

     


誘虫園の手入れ

2025-05-24 | 今日は真面目に

 トンボ池の横は草地を用意してある。一部は囲いを回してノアザミやフジバカマ、メドハギなどを植えた。囲いがあるから花壇風に見えなくも無いのだが花壇ではなくチョウの吸蜜とメドハギは食草なのである。以前はイヌガラシを植え込んでいたのだが翌年には消滅して周囲には元気な株が繁茂している。このイヌガラシ、どういう訳か手入れを嫌う傾向があって踏みつけられる駐車場とか草茫茫の中とかで機嫌がすこぶるよろしく見えるのだ。フジバカマもノアザミも多少なりともこの傾向があって、勝手に芽生えた場所の株の方が活力著しく見える。これは芽生えた場所が適地だったり、もともと強健な性質の株の発芽だったりする可能性もあるけれどお世話する立場としては悔しい気もするのだった。

 さて今回の手入れは囲いの中に侵入したお邪魔草の排除と囲いの周囲を歩きやすいように草刈りを行い、池から抜いた葦を敷き詰めて通路を作っておく事である。池にニホンアカガエルのオタマジャクシを生まれた場所に放生しに幼稚園児が来る予定があるから、その対応でもあるけれど、ようやく断水解消したから出来る作業でもあって、断水中ならここまで出来なんだ。

 


執着地獄は泥沼とも言える⁉

2025-05-23 | 何よりの楽しみ

 発端は麦わら帽子は嵩張るしヘッドフォン装着に不便だったから夏向きに麻布で緩めのチューリップハットなら対応できるだろうと残り布で作ってみたのだった。確かに夏用着物を洗い張りした布地は風通しも良くて快適だった半面、直射光を通すので頭頂部が熱くて少々不快に感じる。まあ、炎天下に出かける算段はしないものの他の生地と異なる風合いの生地で比較して見たくなったのがそもそもの間違いで「執着地獄&沼ハマり」と相成ったのである。姥捨て山では災の河原の砂礫掘りは特別事業だったものの通常は自転車操業・水商売を奴隷の如く行わねばならず、これはこれで泥沼なのであった。帰宅しても執着地獄が発生してしまうと「苦労のあげく定年を迎えたのに人生とは何ぞや⁉」と心まで堂々巡り道に入ってしまう。ここで学のあるところを披露すると「リングワンデリング」と言えるのであってこれも疲労困憊のあげく完敗に至る道筋でもある。で、ここに至るとほぼ結末は献杯!となるのがオチなのだ。

 さて馬鹿・耄碌はほどほどにし何種類かの風合いを見るため購入生地で揃えると年金生活孤爺の食生活が崩壊する。そこで廃品回収に出す予定の衣服をパーツに解いて使って見たのだった。小千谷縮の生地で作ってみたかったものの切り売り10センチ当たり1,500円もするので似たような麻の生地で代用してみた結果は執着地獄かつ沼にドはまりして写真の通りの数を量産してしまったのである。半分は新商品見本として送付し郷土の織物製品の販路拡大に寄与するだろうと妄想も爆発したのである。郷土の伝統重要産業でもある麻織物の派生商品は定番ばかりで魅力がないし本来の主力製品は高額で需要は減り続けているはずだ。其処に孤爺の妄想発想で日常使いに適う「可愛い・お手頃価格」の商品が出来れば収支の改善は可能だとまあ、耄碌ここに至り、病膏肓に至り爺我自賛とどうにも止まらない・・・。

 でもって、写真の数プラス車載したままの二つが出来たのだがまだ試作したい生地があって、それは東南アジアの伝統生地なのだが薄すぎて、どう縫製するか決定打が無く悶着状態である。それは別にして、よくもまあ作った物だと我ながら感心するしかないのだけれど、これでまた結果的に肩の痛みが再発する可能性があるものの、気温が上昇する季節だから11月の様な事態にはならないだろうと高を括っているのだが完治はせずまだ鍼治療続行中なのだ。ミシン針に苦労して糸通しを続けたあげくは鍼治療では「なんて骨体・・・」ハア…。

     


コウモリガの食害

2025-05-22 | 小人閑居して憮然

 コウモリガの幼虫は「食べる樹木を選ばない」ほどの貪欲さがあるが、それでも狙われる樹木はあらかた決まっている様に思える。昔々、ヤマハンノキを10本植樹したのだが成長に伴って食害が目立ち、結果的には全てを失ってしまったのはいわゆる「テッポウムシ」と言われる類いの食害による枯れ死なのである。野生で自然実生で生えているクサギなどは蜜源として重宝するけれどテッポウムシに食害される傾向が強くて、なかなか大木に育ちにくい。まあ、その分、繁殖力旺盛でパイオニアプランツとも言われるほどなのだから根絶やしになる事はないものの、ハンノキは購入苗なので食害で枯れさせることは防ぎたい。

 侵入痕が見つかれば直ちに食害侵入空洞内に薬液注入するけれど、これとても完全ではなく頭髪を抜けさせる原因にもなる厄介な相手なのだ。今回、キッチンペーパーに滲みこませた薬液を空洞内に詰め込みガムテープで押さえておいた。これで薬液注入したままより気化した薬液がトンネル内に留まり易いし脱出し難いだろうから孤爺の完勝間違いないだろうぞ!。しかし、食害痕は痛々しい限りで強風時には折れる可能性も高くなる。侵入された後に駆除できても薬剤が消えた頃に再侵入があるので樹木自体の修復が追い付かないと数年単位のイタチごっこになるのだった。ホント、血圧が上がる。


ようやく泥浚いに入れた

2025-05-21 | 水辺環境の保全

 半年近くも孤軍奮闘した取水升発掘・断水復旧の作業は執着地獄であったけれどなんとか光明を維持できたのは祝着至極である。さて梅雨の季節を前にして沈泥部の泥浚いにやっとこさ漕ぎつけたのだ。もう丸々一年間ほど泥浚い作業が出来なかった上に昨年の多発豪雨で水域の水深低下は痛ましい限りであるが、孤爺に頭髪が無いので抜いて息を吹きかける分身の術など叶わず、黙々と粛々と優先順位に従って作業をするだけの懲役作業・奴隷労働みたいな姥捨て山の現実がある。それが言わずと知れた自転車操業・水商売なのだ。

 沈泥部があるからこそ水域での砂泥沈殿は遅くなるものの沈泥部が埋まってしまえば泥土の沈殿は水域に広がる。これを少しでも阻止する必要があるからこその泥浚いだけれど、残3カ所の沈泥部の浚渫量だけでも腰に膏薬を腹巻状に貼りたい気分になる。まあ、そこはグッと我慢して褌を結びなおすだけに留める。この日の沈泥池は絞り水と林道の表流水が入る池であるが、絞り水が絶えない結果、断水して他の水域が乾燥したとしても唯一、湛水を維持するリザーブ水路またはシェルター水路と呼ぶ水域に水を入れる前段だからまあ、いの一番に泥浚いした。長柄のジョレンとスコップで半分だけ泥浚いして時間終了・次回持ち越しとした。例年なら上げた泥土にヤゴなどの生物は確認できたのだが今回は一匹も発見できなかった。


**旅立つも山滴るも生命誌

2025-05-20 | 感じるままの回り道

      植え愛でし月見草など臥せ愛でて義姉はみまかる愛でたる後に

 

      梅雨曇り緑滴る谷合のヤマブキ下に義姉は昇れり

 

      後朝は途絶えきさらぎ我が兄は霞と萌えし山の端仰ぐ

 

      むべなるかかくも縮みし義姉のほね父子で納む骨壺の百合

 

      亡き後の厨に惑う我が兄も八十路とあれば致しかた無し