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トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

林接池の水切れ・・・

2025-07-03 | 水辺環境の保全

 上の池に行く途中、林接池に水が無い事が判った。早速、手当てを行わねばならない事態なのだが「オオカナダモの抜去」も「待った」が無く、まずは先にオオカナダモの抜去を済ませて現場に行った。

 現場を確認せずとも林接池の水切れは導水パイプの取水部の詰まりか取水堰の漏水で水位が低くなった事によるどちらかだと経験則で理解できている。まずはスコップだけあれば用が足りるのである。案の定、取水口は泥で埋まっており更に取水堰の右岸側から水が流出していた。既に取水堰として使っている梁材の長さより浸食により沢幅が広くなっているため、どうしても右岸部から水が逃げてしまう。

 礫や土で仮に水止めしても早晩、水が漏れる事の繰り返しなので、新たに作り替える必要があるのだがその手間が無い。まあ、焼け石に水、水漏れに泥止、では完治はしないのだ。今回は水路にマット状に広がったヤナギの細根を切り取って土代わりに使った。固い土であっても水に浸されていればおっつけ緩んで流れ出す。ヤナギの毛細根マットの方が余程、耐久性は高いのである。とりあえずは水漏れを防止できれば良いのだ。

 毛細根マットを踏みつけ水を止めてから押さえに玉石を載せておく。これで多少の増水でも耐える事が出来るし導水パイプまで水位を上げる用は足せるのであった。今回、水切れとなったものの底が乾燥するまでには至らずヤゴの生育には差し支えは無かっただろう。この場所はタカネトンボなどが好む環境設定として掘削したしタカネトンボも定着してきたから干上がらせる訳にはいかない。かくして次から次へと課題難題、我の追っかけのように押し寄せ群がる。これこそ自転車操業・水商売の真髄なのだった。そう、「押し」を全うするには「押忍」の心魂が必須である。

     


上の池の泥浚い 6

2025-06-25 | 水辺環境の保全

 上の池の泥浚いが終わった、と言ったところで砂州の部分だけなのである。まだ池の周囲1/8を浚っただけなのだ。それでも沈泥部の泥浚いを終えたので新たな沈泥を促す場所だけは確保した。この場所を用意しておかないと砂泥の侵出は池中央にまで速やかに及ぶから、そうなると浚渫不可能になる。可能な限り長柄のジョレンが届く範囲に沈殿させたい。

 今回で砂州の部分は取り除いたものの水面下にはまだ浚わなければならない砂泥が残っていて水深は10cm程度である。現状では池の傍に積み上げた砂泥がスコップの長さほども積み上がり長柄のジョレンで再度浚う立ち位置と投げ上げる動作が困難になっている。泥浚いはいったん中止にして浚渫した泥土を場外搬出してからでないと再浚渫は不可能なので次回からは浚渫土の場外搬出だ。かくして自転車操業・水商売は手を変え品を変え場所を変えながら続くのである。

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 吐水口から出た水と表流水や絞り水を集めた水路の半分を広げた。ここも堆積して狭くなっているが泥浚いは半分だけで流速を遅くするためと擁壁際まで水流が欲しいためでもある。流速が遅くなれば沈泥を促すし擁壁まで水面があれば擁壁の苔類にヤブヤンマの産卵が促されるはずだ。浚わずそのままの部分もそれなりの環境効用がある。雑然とした小枝や枯葉が詰まった流路はヤゴの生息数も高いのである。 

 

 

 


絞り水流路の付け替え

2025-06-21 | 水辺環境の保全

 上の池の泥浚い続きを始めたもののどうにも気乗りがしない。連日、単調な作業続きでは浮気のひとつでもやりたくなるのは極めて自然な発露である。浮気と言っても孤爺の他には人間様のいない姥捨て山では色恋は逆立ちしても願掛けしても無理な注文と言うものであって、作業の種類を変えるか遁走する位の選択肢しかない。そこでこの日は絞り水の流路を付け替える事にした。泥浚い作業を始めたばかりでスコップしか手元になく道具小屋まで鳶口、掛矢、杭などを取りに行って準備完了。

 敢て付け替えを行う理由は堤の幅が狭く泥上げする場所が無い事と、幅が狭くて堤の土が泥土である事から流量が増え圧力が高まると底抜けして直接池に泥流が入ってしまう欠点を補正するためなのである。まずは草地に放置していた材木を曳いて護岸する距離を確認する。水勾配も大丈夫のようなので不足の護岸材は現在、使っているのを流用して間に合わせる算段だ。

 水路を掘り進めていると昔々に設置した丸太が出てきて、結局は十分使用に耐える品質なので流用する事にした。これで護岸用の材は十分に確保できた。あとは護岸材を据えて水路の幅が用をなすだけの寸法で掘削し水勾配を確認して護岸材を据えれば一件落着である。作業の中身も手を変え品を変えつつ行わねばならないから「スコップで砂州浚い」よりは楽しい。刻々と完成に近づく現場は「掘り取っても掘り取っても続く砂州」の作業よりは面白いのは当たり前だが、楽しい一時は瞬く間に終わり、明日からは否が応でも砂州の掘り取りをしなければならん。

 結局は仕事を「増やしただけ!」でホントお粗末な日々である。我が人生は労力を注ぎ込んでもおっつけ・早晩、崩壊する設えで成り立っておる…。これが苦労・苦役と言うもので自転車操業・水商売の真髄で始まりはあっても終わりは無い、だわい。


上の池の泥浚い 5

2025-06-17 | 水辺環境の保全

 この日は今までよりは泥浚いが進んだ。と言うのも周りにさぼる対象が無くなってしまったのである。正確に言えば「道普請」やら「側溝の取水升補修」なんてものもあるけれど、どちらも玉石を並べたり斫り作業を行なったりしなければならず、「飽きたから道草を喰う」なんて事はすぐには出来かねる作業でもあるのだった。だからこそ砂州とそこに盛り上げた浚渫土を陸地に投げ続ける作業が続けられたのである。

 砂州の部分は丁度、A4のコピー用紙500枚パックの体積でへぎ取るのだがこれが結構な重さでもある。へぎ取っては投げへぎ取っては投げの連続作業はつまらん作業でもあるけれど水域の水深を維持するためには嫌だからと言ってイジイジしてもおれん。肩は10日間隔で鍼治療に通う身でもあるものの、泥浚いは肩より腰痛再発に懸念があるから放り投げる時は十分に姿勢を整えてから放る。とにもかくにも腰痛発症ともなれば半月は作業が出来なくなる。雨量が増す時期を控えているから腰痛など起してはならないのであった。


上の池の泥浚い 4

2025-06-15 | 水辺環境の保全

 「今日も泥上げ、明日も泥上げ、これじゃ年がら年中、泥上げ泥上げ・・・」とまあ、自転車操業・水商売は続くのであった。これこそ真髄であってこの沼からは抜け出せないのがお約束である。自ら行っている行為ではあるが量と時間を想定すると「やってらんない!」とサボリ虫が蠢き出す。この日も前日同様、処理したい立ち木を眺めたりトンボが来ないかと立ちんぼしていたりと集中力を欠いたままだった。とは言え自己弁護すれば、池に立ち込んでスコップで集積した砂州の部分をへそいで陸まで投げる、この行為の連続では楽しい訳も無し。ただ必須で欠くべからざる必要に追われて行わざるを得ない作業であるから黙々と粛々と腰の地雷を踏まぬように心がけて修行するのであった。人生は修行の連続であり補陀落山に向かうにしても地獄に向かうにしても、そこも修行かつ巡礼路ではある。

 そう、そう言う意味でも奥山の僧房に出向かなくても只管打坐ではない泥の中に立っての立禅は泥中から開花した睡蓮の様に神々しく思わず両手を合わせたくなる振る舞いであるに違いない。だからこそ孤爺の頭頂は後光が照るのであろう。しかし、この泥中に踏み入っての作業は立ち位置をその度に動かさずとも可能な作業だが、それが災いして「さて一歩…」と抜こうとしても抜けにくくなる。スコップ頼りに何とか抜いて足位置を決めるけれど、この繰り返しも心的疲弊に繋がってしまうのだった。フイールドではドロに嵌り、家ではお針子虫の沼に嵌り、まあ、高齢者ともなればもがき続けて生きねばならない浮世なのだった。

 話は高齢ゆえに妄想段階に転じるのだが、古古古米は鶏の餌だとか、それは「コココッ」と鳴くから納得するが鶏が買って食べるはずも無し、米を買った事が無い鶏頭脳のお人がここ古米に舌鼓なのであろうし「鳥の餌」と喝破した鶏頭脳の御偉い様は君子に違いない。まあ、「小人は下学する」と言われておるのだから下学するだけのネット社会では愚民を養成するに最適であって、その票が基盤であれば斑痴呆の孤爺でも納得に値する現実だ。足りていたはずの主食材が突然と枯渇するなどギョッ政の最たるものですな、さかなちゃん!。


気分転換・絞り水溜まりの手入れ

2025-06-14 | 水辺環境の保全

 時折は覗き込んでチェックは怠らなかった溜まりだが、ここまで手を入れる余裕などなかったのが現実だった。しかしカサスゲに蔽われて水面は見えにくくなっているし絞り水と共に流れ出る砂泥の堆積で砂州も出来た状態ではヤブヤンマの産卵には向かなくなった。そこで泥浚いに飽きた孤爺としては気分一新するため絞り水溜まりの手入れを行った。まずは繁茂したカサスゲの調整から行った訳だがカサスゲを刈り取った堤の法面に現れたのは三カ所の法面損傷部であった。

 一部は威之志士様の跋扈蹂躙もあるのだが人為的な損傷も大きい。威之志士様の跋扈蹂躙跡は表土ごと掘り取られての破壊だが、他人様による損傷は法面に足を掛けて上り下りする事による破壊だ。そのまま放置すれば堤が痩せて構造破壊に至り湛水できなくなる。産卵期を迎えての貴重な産卵環境でもあるから種の保全のためにも補修しておかねばならない。

 そこで掘り上げた浚渫土を盛り付け修復したものの、このままでは同じ行為が繰り返されるだけなのでロープを張る事にした。ロープや立て看板は孤爺の趣味にはそぐわないけれど背に腹は代えられず、構造破壊を防止するためには必要な処置でもある。ついでに路面の落ち葉や崩された堤の土も片付け、なんとか整えたのである。他人様の視点から言えば「こんな水溜りの手入れなどして何と暇人・水狂人かあ・・・」と思われているかも知れないが生物を生産するための大切な環境でもある。まあ、言わば中小企業の小企業に相当するか…。生態系環境の底辺を構成しているパーツと言っても良い。


上の池の泥浚い 3

2025-06-13 | 水辺環境の保全

 泥浚い3日目にして砂州の大きい部分にアタックする事になった。水面上に出ている部分が広いのでジョレンでは喰い込まず、ここだけはスコップでへそぎながら砂州の片側に積み上げた。一旦は砂州上に集積し水分が抜けたところで陸地に放り投げる算段を考えていたのだが、へそいだ砂泥を積み上げずに陸地へ放り投げた方が二度手間にはならずに済むものの、放り投げる距離を考えるとまずは集積して、そこから投げて池の外に出す、のが手数は増すが放り投げる動作が小さく出来るから長続き出来るだろう。まあ、どちらにしろ体感や腕の屈曲量は連続する訳だから苦役みたいなもんだろう。神君は申している「人生は重い泥土を浚いつつ終日沼に嵌る如きなりナンチャラカンチャラ…。

 さて、この泥浚いの終盤に親子連れのグループが吐水口での水遊びに来た。その中の男児二名が孤爺の作業をいたく神妙に眺めているので「お手伝いするか?」と振ってみたら大喜びでジョレンやスコップを持つ。孤爺としては危なくない様に留意するだけで補助はママさんに任すのだが、あまり接近し過ぎないように気を使わねばならないのが今日日の距離感なのである。ましてやカメラを取り出しての撮影などは原則禁止で、断りを入れれば撮影できなくも無いけれど、無用なストレスはご法度なのが今日この頃なのだ。「いい子いい子!」も出来ないけれど「いい爺いい爺」も無い!。

 


上の池の泥浚い 2

2025-06-12 | 水辺環境の保全

 現在のやらなければならない筆頭が泥浚いなのだが昨季の度重なる豪雨の影響で泥浚いまで手が回らなかった事も相まって「ハアーッ・・・」と何とも気勢が上がらず奇声を上げたくなる作業なのであった。で、30分も続かず休んでは植え付けた幼樹を見に行ったり、今やらなくても良い間引き樹の品定めをしたりとすっかりサボリ癖が入ってしまった。工作やソーイングの様な泥沼とは異なり現実・現地での泥沼作業はつまらんこと甚だしい。とは言え工作やソーイングのように「やらなくても構わん!」領域でも無いのであってそこが孤爺が傷み入るところなのだった。

 長柄のジョレンを使用するから立ち位置の前、畳一枚分程度は立ち位置を変えずに泥浚いを行なえるので、それはそれで省力化なのであるけれどひたすら泥土を引き上げる作業なので退屈な事、甚だしい。それでもサンコウチョウやホトトギス、ガビチョウ、オオルリなどのさえずりが場所を変え入れ替わりながら耳に入るのは至福の一時と言っても良いだろう。まあ、貧乏孤爺であっても豊かなささやきが絶えることなく耳に届くのであるから気分が悪かろうはずも無い。しかし、無理を言えば小野小町やクレオパトラなんぞに囁いて袖を引くなり振るなりしてもらいたいが現実は自宅の外壁でお菊虫が目を引く程度であって人生の格差もまた高齢者には優しくないものの湿布を貼り替えて自転車操業・水商売に出かけなければならないのもこれも泥沼なのだなあ。ここで悟った「現実は玉ねぎ状の泥沼なのだ!」。

 さて、「蜘蛛の糸」では下がってきた糸を伝い地獄から抜け出そうと試みる話だったが、小生がハマる泥沼から脱出するには小指に結ばれ阿弥陀様が摘まんでいる赤糸しかない。その糸が引かれる、あるいは牛頭馬頭に袖を捉まれるは此岸の決まり事でもあるものの、それはそれとして孤爺は赤い糸より泥の中に立つ蓮の花にも見える孤爺の方が良いし泥汚れで洗濯物が着色汚れに捉まってしまう日々の姥捨て山こそが老境最適化なのである。かくして自転車操業・水商売は動的平衡の中にあるちっぽけな活動としてとめどなく続くのであった。


泥浚い開始

2025-06-10 | 水辺環境の保全

 見ているだけでは片付かないし砂泥は溜まる一方なのである。昨季の度重なる豪雨で補修に追われて泥浚いどころではなかったのだ。それがようやく梅雨入りを目前にして泥浚い開始なのだからある意味では遅きに失したとも言えるけれどまあ、放置・放任よりは益しなのである。降雨量も多ければ砂泥の流入量も多いという極めてありふれた結果で、上の池の沈泥部は砂州が形成されてしまった。それは流入する砂泥が池中央部まで届かないうちに周囲で沈殿させる工夫の成果でもあるものの泥浚い実施となれば沈泥部で数日、池の周囲から一通りジョレンの届く範囲を浚うとなれば二週間は見なければならないだろう。

 この日も「エンヤコーラヤ、ドッコイショ」と始めては見たものの単純な繰り返し作業かつ長柄のジョレンで泥上げする作業は楽しい訳も無し、でトンボを眺めつつ必要のない植え付けた幼樹を見に行ったりと集中力が途切れる。水域全般をほどほどにしろ泥浚いを実施するとなると梅雨明けまで掛かりそうだけれど、やらなければならないのが自転車操業・水商売の掟なのだ。そして名実と共に泥沼、両足ドップリはまっていく・・・。

     


吐水量測定

2025-06-02 | 水辺環境の保全

 1日、吐水量を測定に行った。毎分26リットルを出している。断水解消して測定した5月5日では27リットル毎分であったから僅かに減少したと言えるけれど20ℓを切らなければ水源地まで出向く必要は無いだろう。しかしながら河床が上がり取水部を掘り出して送水している現実では埋没以前の様な維持管理の感覚ではリスクも高いはずである。気持ち的には月一回は現地で確認整備を「行わねば!」と想うものの作業や日程を詰める事になるから高齢者向きではなくなってきた。それでも自転車操業・水商売なのであるから意を決せねば・・・。


ようやく泥浚いに入れた

2025-05-21 | 水辺環境の保全

 半年近くも孤軍奮闘した取水升発掘・断水復旧の作業は執着地獄であったけれどなんとか光明を維持できたのは祝着至極である。さて梅雨の季節を前にして沈泥部の泥浚いにやっとこさ漕ぎつけたのだ。もう丸々一年間ほど泥浚い作業が出来なかった上に昨年の多発豪雨で水域の水深低下は痛ましい限りであるが、孤爺に頭髪が無いので抜いて息を吹きかける分身の術など叶わず、黙々と粛々と優先順位に従って作業をするだけの懲役作業・奴隷労働みたいな姥捨て山の現実がある。それが言わずと知れた自転車操業・水商売なのだ。

 沈泥部があるからこそ水域での砂泥沈殿は遅くなるものの沈泥部が埋まってしまえば泥土の沈殿は水域に広がる。これを少しでも阻止する必要があるからこその泥浚いだけれど、残3カ所の沈泥部の浚渫量だけでも腰に膏薬を腹巻状に貼りたい気分になる。まあ、そこはグッと我慢して褌を結びなおすだけに留める。この日の沈泥池は絞り水と林道の表流水が入る池であるが、絞り水が絶えない結果、断水して他の水域が乾燥したとしても唯一、湛水を維持するリザーブ水路またはシェルター水路と呼ぶ水域に水を入れる前段だからまあ、いの一番に泥浚いした。長柄のジョレンとスコップで半分だけ泥浚いして時間終了・次回持ち越しとした。例年なら上げた泥土にヤゴなどの生物は確認できたのだが今回は一匹も発見できなかった。


トンボ池の葦抜き 2

2025-05-19 | 水辺環境の保全

 葦抜きが意外に手間取って二日目になってしまった。この日はスタートから葦抜きを行なえば良かったのだが一週間後に幼稚園児がオタマジャクシの放生に来るとの事だから足元の悪い箇所を土を運び整地しておく。事前に行って乾燥と固着をする時間は必要なのである。写真の場所は歩行面が横に傾斜していて歩きづらい場所だったから、池に引っ張られても危ないので一輪車5杯分の土で盛り土して傾斜を無くしておく。これで少しは安全になる。池の外周もスゲを刈り取って境界を判りやすくした。これでオタマジャクシの放生時に足元が安全だ。

 池の小島にも葦がはびこって来たので、ここは稲刈り鎌で地際から切除した。大元を残して置くと光合成で得た養分を地下茎を通じて池の中の株に運ばれてしまうのだ。この葦を根絶するために筆で葉面に除草剤を塗り駆除の予定は立てたけれど断水騒ぎで時期を逸して大きく成長させてしまい、とても塗付では済まなくなったのだ。

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逆もまた真なり

2025-05-07 | 水辺環境の保全

 隣り沢からの送水に頼っていたのに4/20に突然の断水で「排砂バルブを数日間、開放したままで自然通水を達成する」と考える前に強制通水をエンジンポンプの助けを借り試みたものの「注水出来ているのに排砂バルブから水は出て来ない」と言うなんとも不可解な事象は変わらず「数日間開放状態」を3回おこなったものの通水出来なかった。勿論、その実施前にエンジンポンプを運び強制通水を試みていたのだった。さすがに試行錯誤十日目ともなると「送水不可能」が意識化される。一方、この断水期間中に都合60mmと40mmの降雨があって断水はしていたけれど池の底のひび割れる事態までは進行しなかったのは幸いだったと今になれば思えるのである。

 須田紋太君の出番を経て連休中に文書を作成し担当課に「工事お願い」するしかないと腹を括ってみたものの、即決になる訳も無いだろうし管の補修か取替え工事ともなれば年度内で始末がつく訳も無く、水域の生物や生態系の消失は覚悟しなければならない土壇場になってもいたのである。でも連休前半は好天に恵まれ、いずれ干上がってしまうトンボ池の葦抜きをしていた折りに閃いたのであった。「そうだ、まだ逆洗洗浄という試みが出来るではないか!」。プールや循環風呂の濾過槽の洗浄に使う手法なのだが第一管内のトラブルにこの方法を試みる事にしたのだった。まあ、最後の悪あがき、執着地獄、水域ストーカーのなれの果て、であっても「やってみて諦めよう…」五月晴れのみどりの日にトライしたのだ。

   ➡  まずは第一管と第二管の接続を外し第一管管末にエンジンポンプからのホースを挿入してアイドリング状態から圧注水開始である。これに先立ち取水升内の管末にエルボの片方に30cmほどの管を差し込み水の出口が上向きになるようにセットしておいた。これで水が排出されて来れば水面の盛り上がりで目視確認できる。

 濁り水が出て来た  ➡  注水圧を上げるたびに盛り上がりも大きくなる

 アイドリング状態の圧力から出水出口の状態を確認しつつ3回ほどの出力アップを含め1時間の圧注で浮遊物の無い澄んだ水になった。実は未明に夢を見ていて、この作業中に褌やボロ布が排出されてきたのである。潜在心理的には人為的に送水管 内に異物混入されたと疑っていたのかもしれない。しかし濁り水と共に排出されていたのは細かい腐食材の細片だった。ほぼ笠型フイルターの穴を通り抜けるサイズだったので、これらが管内で詰まり断水したと考えるのが妥当だろうが、一方では度重ねたポンプ注水で水は入っていくのに管端からは出て来ない、という謎は不明のままだった。小一時間の通水を止め、今度は取水升内の管端から圧注水をする。

 第一管管末から水が出た  ➡  第一管と第二管の接続後、排砂バルブからもほとばしる

 つい先ほどまでホースで圧注していた管端から排水されている。この時点で漸く「断水解消」の希望が見えてきたのであった。早速、外していた管同士を接続して排砂バルブを確認しに歩いて下る。排砂バルブはあらかじめ開放しておいたのであって、河原に降りないうちに排水音が聞こえたので「断水解消」は確信となったのである。崖下の止水弁を開放し一方、排砂弁をゆっくりと閉じていく。急速に閉じるとウオーターハンマー現象で圧注しているホースにトラブルが起きかねないからだ。この後、隣り沢にS先生と入域しているはずのSさんに吐水口で通水確認を頼んだらほどなく「濁り水が勢いよく出ています」と電話があった。これで二週間にもわたった断水は解消したのである。ポンプに戻り出力アップを行い更に15分ほど強制通水を継続し管内の砂泥を排出して漸く終了した。

    

 写真、笠型フイルターの上にあるL型のパイプは逆洗圧注時に取水升内の管端に接続した水面方向に排水させるためのパイプである。これで排水状態の目視が容易になったのだ。写真の強制通水が完了した後はエルボ上端の赤テープの処で接続を外し、短くなった管端を水面に向けてセットしておいた。これで取水升内に砂泥が堆積しても送水管口まで達する時間を稼げることに繋がるだろう。今回の顛末、全くの予想外の断水だったから当初は「打つ手なし」とも思ったのであるが執着地獄が祝着至極に至った事は何とも喜ばしいみどりの日であったわい。お祝いに今期初のアイスを貪ろうと思ったが忘れて帰宅してしまった。短期記憶の覚えは目出度くないわい。さてちなみに直後の吐水量は22ℓ/分であって一晩経過すれば24ℓは出るはずだ。ともかく目出度い目出度い腰痛い。

 翌日、いの一番に吐水量を確認したら毎分26リットルと測定できた。バケツに残った水も測定に入れれば27リットルあっただろうがこの量でも昨夏以前の最大吐水量を越えているのだ。その理由は水没している事による高低差(落差)二割ほどの増加であろう。この水位で取水升内の浚渫に苦労する羽目になったけれど月一程度だから我慢するしかない。何よりも送水量最優先である。かくして自転車操業・水商売でお尻に火が着き泥を浴び続ける日々が続く事はお約束となったのであった。喜び半分溜息半分の心持であって、20kgのエンジンポンプを抱え河原を行き来しなければならないのは水が出る間、抱えて歩ける間は続くのである。これ、高齢者には辛くなってきた行為でもあって、かくして姥捨て山での前世の報いは続くのであった・・・。


トンボ池の葦抜き

2025-05-06 | 水辺環境の保全

 断水復旧を断念してトンボ池の葦抜きに入った。アシが繁殖し過ぎて放っておけば全域葦原になるのに一夏で十分の勢力である。クロスジギンヤンマの縄張り飛翔も始まったしおっつけ、カルガモのカップルも飛来するだろうから水面の空間は維持しておきたい。

 抜き取るにはスコップで基盤層から切り取らねばならない。ここは他の水域とは異なり泥土の流入堆積が少ないので根茎はどうしても基盤層に食い込む。故にカサスゲも基盤層に根を張る結果、引っ張っても抜ける状態ではなく、スコップを押し込み浮かせて抜き取るの繰り返しである。その上、根茎にまとわりついた泥土をジャブジャブと洗い落してから陸に放り投げておかないと落ちた場所で再生してしまうほどの精力があって、孤爺は見習いたくともスコップ操作とジャブジャブで息絶え絶え、腰は痛い、肩は痛い、背あぶりで暑い、とまあ三重苦の作業なのであった。

 水域に水を送っている管の不具合でトンボ池も今期で消滅の可能性が高まったのだが、それまでは維持管理を絶やせない。全滅必至であろうとも粛々と今だけ見ての作業を続けるのである。抜去した根塊の泥落しに手間が掛かって半分で作業終了だ。ズボンは泥飛沫で濡れそぼったが、これを洗濯機に掛けると色の薄い生地は泥染めになってしまう。特に肌着やタオルに着色著しく薄汚く見えるがしょうも無いのだ。

 さてこの「抜去して泥洗い」云々が胸にわだかまって来る。この行為が水源地の断水復旧未だなしえない須田紋太君や店屋椀也君を痛く刺激するのだ。そんな事から復旧は諦め担当課へお願い文書提出に固まりかけたのだが、もう一回「逆洗洗浄もどき」でチャレンジする事にした。まあ、「逆切れ戦場」みたいなもんだけれど、どちらを選択しても痛い肩、痛む腰には朗報とはならんわい。「人生、痛い腰を押さえ重い荷物を背負って坂を上がるが如し」と神君家康公は喝破されたが孤爺に廻って来るとは思っても見なんだ。フンコロガシなんて生活の生命体もおるけれど孤爺はミズコロガシで難渋する。業であろうとも苦行であろうともどちらも環境には欠かせない要素でもあるか・・・。そんなこんなだが火の鳥の思慮分別は耄碌孤爺には計り知れないのう。


継手を外す前作業・・・

2025-05-03 | 水辺環境の保全

  継手の位置確認をして分離し水が届いているかどうかの確認をしないとトラブル箇所を絞れない。闇雲に継手と対峙してもそもそも2010年頃から管路に添って点検排砂の作業は行わなくても済むようになった結果、送水管自体が土砂や藪に埋もれているのであって、まずは作業を容易にするために障害になるイバラの藪や土砂による埋没管を露わにしなくてはならない。継手を確認して直ちに外して通水の確認はパイプレンチ2本がともかく重量物になるし、薮や土砂に埋もれている継手部分を引っ張り出す作業も腰痛の身には辛いはずで、この日は造林鎌1本を携行して藪刈りと根切りに集約である。

 作業に先立ち排砂バルブの開放を行った。正常性バイアスで「もしかしたら通水出来るかも・・・」の甘い・気だるい妄想は直ちに打ち消され、溜まった水が排出された後は前日よりも量が少ない「追っかけ尿」みたいな滴り振りである。甘い夢想など「するべきでない!」とこの歳になっての再学習であった。人生、死ぬまで学びはあるのである。

 当時の管理用の図面と場所の写真プリントはあったのだが地図上のポイントはともかく継手の位置写真は周囲の情報が無いので結果的には「それらしい付近」を造林鎌で根切りしつつ植生を外して見つけるしかなかった。排砂バルブから上流部には6カ所の継手があるが昨秋の10号台風の豪雨の結果、堰堤湖が出来てしまい右岸の堰堤を越えるラインには到達できなくなっている。結果的にこの範囲の2カ所はアクセス不能で残る4カ所の内、3カ所だけが接続を中断して確認できる状態である事が判明した。到達できる1カ所は崩れた土砂に埋まっているためスコップやツルハシが必要で、この日の露出は出来なかった。

1-2接続部   2-3接続部   5-6接続部 

 2-3接続部から先はノイバラの藪で刈り払って管路を露わにした。その先は沢を渡してあり河床まで約3mの高さがある。渡したパイプの中に送水管があるが、ここも長さは3mを越える。写真では小さく見えるけれど足元は切り立っており、落ちたら這い上がれず泳いで河原に到達せねばならないが小生はカナヅチなのである。が、まあ、カナヅチと言うより日常の孤爺を垣間見ればトンカチと言う方が当たりであろう。さてここ、当初は湛水しておらず河原を廻り渡河出来たのだが、今回は堰堤湖の水で渡れず、この渡し部から先の継手2カ所は手が付けれず、この部分でトラブっていたら断水解消は絶望確定となる。