トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

アカボシゴマダラの幼虫

2021-11-01 | 小父のお隣さん
 久しく見なかったし、時折はエノキの小樹の葉の表面をつらつら眺めてもいたのだが見つけることが出来なかった。飛翔体も今期の視認は少なく、やはり年によって出現数の差は大きい。
 今回の幼虫はSさんが見つけて教えてくれた個体で、葉の表面に動かずにいると保護色で見つけ難い。落葉する冬季には二股になった枝のところで越冬体多く見るけれど、これも冬の終わりころには数が大きく減る。S先生曰く「小鳥に捕食されているのだろう」との事。生きるための食事に必死の冬季、見逃すようでは飢え死にするだろうから、当たり前田のクラッカー。

          

**今日の一歌

2021-11-01 | 温故痴新
              Gotoはつれないものよ貧者には
                         強盗よぎる日々憂き話      コロナ禍人

               有明のつれなく見えし別れより
                        暁ばかり憂きものはなし        古今集  壬生忠岑

今日のエッ!品「豪華絢爛・贅の極み、菊花丼」

2021-11-01 | 何よりの楽しみ
 本来は「万感全菊」と言っても良いエッ!品なのだが、何故に「豪華絢爛・贅の極み」なんて表現をしたのかと問われれば言うまでも無く「菊の御紋章」や「菊花賞」を例に出さなくても菊の花は日本古来の美花秀花であって、この際「菊座」は想わなくてよろしい。何故なのかどうかの詮索も無用で知らなくても良い事が浮世にはゴマンとあるのだ。
 今回、ようやっと念願かなっての「菊花丼」を頂けたのであった。まあ、何の事は無い「バッカリ食」の類いなのだが、少年期の記憶に繋がる懐かしい食材でもあるのだ。郷里の食用菊は淡い桃色の「もってのほか」と言う品種で黄色い品種は食べた記憶がない。食べたくて食べたくて無性に食べたくなって昨春に苗を購入し、秋には少しばかり食する事が出来たものの「丼」で食べるなんて贅沢は夢のまた夢なのだった。

 少年時代はお茶碗に盛って食べた記憶があるのだが味付けは三杯酢なのかどうかまでは記憶がない。それでも三杯酢なら失敗は無いだろうと採取した生の菊花130gを茹でて丼に盛った。正真正銘、菊花だけの丼である。ご飯を炊くのも面倒になってS夫妻から頂いた米と大豆の「パンケーキミックス」で作ったクラッカーにブルーベリージャムを添えた。
 育ち盛りに「菊花」を食していたことで判ると思うが雅な生まれで育ちの小生ならばクラッカーにはバッキンガム風に紅茶を添えるつもりが夕食にする事にした結果、香ばしいほうじ茶を濃い目に入れて添えてみた。それでも大変お洒落であって、バッキンガムよりパリの香りがする一品である。
 
 近くに娘たちが群れていれば黄色い歓声と熱いピンクの眼差しが注がれたと思うものの、こういう事は「秘するが花」で「イート」しましたとか「トラベル」行きましたとかは貧しい心魂の現れでもある。
 つまりは哀しいかな「日々の生活には不要の、使える金がありました。金で欲求を満たしました。」でしかない。そんなことを国家主導で鉦や太鼓で鼓舞するなど、救いの細いクモの糸さえ降りてこない下々を愚弄しており愚弄張者界は恥の上塗りである。

 さて菊花は上品にするなら花弁だけが普通だけれど「美味しさ」を考慮すると蕚があった方がシャキシャキ感と苦味が入るから、より一層菊花を食べた感じがするから小生はこの食べ方である。今回のように菊花を丼で頂いたような芸当は何十年ぶりの快挙で贅の極み「万感全菊」でもあった。主食のクラッカーより副食の菊花が主材になった感も有るけれど、菊花を堪能したかった結果なので不満はない。しかし秋の夜長、丼一杯の菊花を食したとはいえ主食にはならず、米粉のクラッカー数枚ではやはり腹が減った。朝まで長い長い・・・かった。少ない年金孤齢者が贅の極みを楽しむと後は虚しい時間だけが過ぎていく。

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