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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



「戦場のローレライ」「亡国のイージス」といわゆる戦争物話題作に裏切られ続けていたので、この一連の戦争映画の最後を飾る「男たちの大和」を観賞するときはまったく期待しないまま映画館へ足を運んだ。
ところが前二作で受けた失望感を払拭するような素晴らしい内容で、全編涙なくして見ることのできない傑作だった。

この映画が最近の映画と明らかに異なるところはその第二次大戦への解釈の取り方だろう。
これまでの多くの映画は戦後の革新教育に影響を受けた「反戦」にスポットライトを当て過ぎたために、当時の人々がなぜ戦ったのかというその本質を無視しつづけていた。
いや、無視ではなくねじ曲げてきたということもできるだろう。
だから戦中時代を知る年配の人たちからは違和感があると言われ続け、戦争を知らない世代にとっても父母や祖父母の話と学校で教わることや映画やテレビで描かれていることがかなり異なることに多かれ少なかれ感じていたのだ。

「男たちの大和」は広告のキャッチにあるように「恋人のため」「母のため」「そして家族親友のため」に戦うことが「国のため」であるという気概で戦場へ出撃していった男たちを描いている。
これまでの「国のため」に戦うというのは「悪だ」という考え方から一線を画しているのだ。

どうしてこれまでこの映画のような描き方ができなかったかというと、それは情報を遮断し歪曲していたことに因を発する。
東京裁判判事の一人インドのパール判事は昭和23年に「私はここ数年戦前戦中に日本が世界で何をしてきたのか、それを心血を注いで調べてきた。その結果、裁判におけるような非難を日本が浴びる謂われはまったくないことがわかる。にも関わらず、当の日本人自らが自分たちを悪人に仕立て、戦前戦中の偉業に対する事実に覆いをし、子供たちにまったく教えていないというのは嘆かわしい限りだ(要約)」と述べている。

戦後進駐してきたアメリカ軍についての日本人の一般的感想として「アメリカ兵は優しかった」という言葉が広がったと言われている。しかしこれも真実を包み隠すレトリックではないかと考えられる。
戦中アメリカ軍は日本を無差別爆撃し東京大阪名古屋などの大都市は爆弾と焼夷弾で焼き尽くし、広島と長崎には原子爆弾を投下した。
もちろんこれは無差別大量殺戮を狙った国際法違反行為であり、東京裁判がもし公平であったのであればアメリカからも極刑を申し渡さられるべき人間が出たはずだ。
しかしこれは現在の価値観での考え方。
当時は違った。

キリスト教徒ではない異教徒でアジア人の日本人などどうでもよいという考えが欧米にはあった。
もし欧米との戦いに敗れたらアジアの国がどうなるのかという運命は当時の世界地図を見れば明らかだ。
実際に戦後アメリカ兵は大ぴらには悪事は働かなかったが、無数の婦女暴行事件があったことも事実だし、ソ連軍が大陸で日本人に犯した行為を思い起こせばもはや説明はまったくいらない。

「枕崎に家族がいて。沖縄とは目と鼻の先なんです。だから、母を守りたいんです。」
という映画の中のセリフはまさしく当時の日本の若者の大多数の考え方だろう。
守るために死を賭して戦った自分が生き残り、守りたいと思った恋人や家族が敵空襲で亡くなるという残酷さが悔しく哀しい。
「広島で待っている」
という少女のセリフが広島の未来を知っている観客の胸を突き刺してくる。
そしてその同じように未来を知らない少年は死を覚悟して大和に乗艦し出陣する。

この映画を見ていると場所は東シナ海ではないがミャンマー・ヤンゴンの戦没者墓地を訪問したときのことを思い出す。
そこの記帳簿に記されていた参拝者の言葉を思い出し、胸が一杯になってくるのだ。
「皆さんのおかげで今の日本の繁栄があります」
と。

~「男たちの大和」平成17年作 東映映画~

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