とりがら時事放談『コラム新喜劇』

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バンコクのトランプ詐欺(10)

2007年04月24日 05時41分21秒 | タイ旅行記・集
昼食の準備が整いみんなテーブルについて食事が始まった。
有り難いことに、料理は一品やそこらではなく何点かが大きな皿に盛られた結構なご馳走なのであった。
味も悪くない。
タイ料理だが余り辛くないし、私の苦手な食材も含まれていない。
お手伝いさんのオバハンはなかなかな料理人だ。

この美味いご馳走を頂きながらジョジョの従姉リンダを間近に見ると、やはり彼女はかなりの美人なのであった。
今考えても、彼女が詐欺団の一員であったとは思えない。

「美人だから悪人ではない」
という方程式と、
「ブスであるから悪人である」
という方程式は成り立たないことぐらいは知っている。
それは一種の偏見であって、論理的な判断ではない。
分っているが、どうしても美人と悪人が結びつかないのが現実だ、というよりも男心だ。

しかし、映画やテレビではだいたい悪役は醜女が演じることになっており、正義の味方には美女が多いことからも、この「美人贔屓」の傾向は何も私だけに限った問題でもないようだ。

ちなみに病床で寝たきりの「少女」なんてのも映画やテレビでは美人が多い。
これも寝たきりの少女が醜女なら視聴者の同情が集まりにくいからだと思われる。
少女が美人だと、
「あんなに美人なのに........かわいそう」
と言う具合になるのだが、もしブスだったりすると、
「あんなブスだから........死んじゃえ」
となってしまう。
ホント、こういうものには人間が持つ残酷な習性が良く表れているのだ。

ところで、この傾向は今に始まったことではなく昔から存在した現象のようだ。
というのも、
「眠りの森の美女」
なんておとぎ話は存在するが、
「眠りの森の醜女」
なんて話しは存在せず、同時に成立もしないのである。
「眠れる森の醜女」は単なる「森の化け物」以外の何ものでもない。

ということで、リンダの存在に思わず油断しそうになってしまった私だったが、その油断しようという私の心を目覚ましてくれたのはジョジョのオヤジの飽くことなきギャンブルへの誘いであった。

オヤジは食事中もしきりにギャンブルについてのウンチクを披露した。
「ギャンブルはなかなか勝てないのを知っている?」
なんてことを聞いてくるのだ。
当たり前である。
そうさいさい客が勝ち続けたら胴元のほうはすぐ破産する。
ギャンブルも商売である限り客は完勝できないようになっている。

オヤジが言うにはなんでも、ギャンブルで勝ちを納めるためにはディーラーとの親密な関係が必要らしい。
でもそれってイカサマじゃないのか。
ディーラーと仲良くやるギャンブルなんてものはインチキ以外のなにものでもない。
さすがの私もここまで来ると「こりゃ、インチキ賭博に巻き込まれているのかも知れんな」と思うようになってきた。

食事が終ってオヤジが個人的にカードの切り方を教えるからというので、怖いもの見たさのついでに、ベテランディーラーのカードさばきを見せていただくことにした。
虎穴に入らずんば虎児を得ず。
なんて諺が思い浮かんだが、この場合は明らかにそれとは異なり、どちらかというと虎児も得られんのに虎穴に入る、なんて状態としか言いようはなかった。

「二階で説明するよ。二階の方がゆっくりできるし」
なんてジョジョに言われて、若干の不安を抱えながら私はジョジョのオヤジと二階へ上がった。

二階の窓際の明るい部屋で、小さなテーブルを挟んで私と向かい合ったオヤジは一組のトランプを取り出して見事なカードさばきを披露しはじめたのだった。
それはまるで映画「スティング」(1975年作)でポール・ニューマンがロバート・レッドフォードの前で見せた巧みなカードさばきを彷彿させるテクニックだった。
そのうち、葉巻を加えながら、
「フォージャック」
なんて言うんじゃないかと思えるような雰囲気であったが、いくらテクニックがポール・ニューマンであっても、実際はシアヌーク国王を俗物化して梅干しにしたようなオッサンである。
そのカードさばきを見つめるロバート・レッドフォードの方は分らないではないが、オッサンはオッサンなのであった。

つづく