とりがら時事放談『コラム新喜劇』

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奥様は魔女

2005年08月31日 21時11分47秒 | 映画評論
エリザベス・モンゴメリー主演のテレビシリーズ「奥様は魔女」を見ていた幼い私はてっきりスタジオに客を集めてきて観劇させながら収録している一種の舞台劇だと思っていた。
しかし舞台劇にしては魔法のトリックが頻繁に登場するので「変だな」とも思っていた。
結局、アメリカのコメディ番組は、ドラマの上に客の笑い声や拍手などのテープの音を被せて、視聴者の笑いを誘導する手法が主流であることに気がついた。
今も多くのコメディ番組はこの手法を使っていて、それでいて不自然さがないのはなんだろうか?

この笑い声を日本語吹き替え版で省いて放送していたコメディが「ハッピーデイズ」というシリーズで、今は映画監督として活躍しているロン・ハワードが主演していた。
このシリーズは青春コメディとしての完成度が高く、笑い声のなかったのは「日本では笑いを入れずとも受けるだろう」と考えた結果ではないかと想像している。
「奥様は魔女」もホームコメディとしての完成度は極めて高い番組だったと記憶している。
というのも毎回のストーリーのアイデアが秀逸で、笑い声がなくても十分に楽しめたのじゃないかと思えるからだ。
ま、その独特の笑いに「憧れのアメリカ」を感じるような時代であったことも間違いないが。

このホームコメディの傑作が女性監督ノーラ・エフロンの手にかかると、どういうわけかラブ・コメディに変質してしまった、というのが先週公開の映画版「奥様は魔女」である。
主演はニコール・キッドマンとウィル・フェレル。そして脇をシャーリー・マクレーンとマイケル・ケインのベテラン二人が固めている。
ワイルダー作品の若いマクレーン大好きの私なので、今回年老いたマクレーンを見たとき、どこのババアかとショックもあったがなかなかお洒落な映画であった。
でもノーラ・エフロンのラブコメも「恋人たちの予感」「めぐり逢えたら」「ユーガットメール」と少々食傷気味で、なおかつ今回はネタが尽きたのか、テンポもアイデアも今一つ乗りの悪い映画だった。

音楽も作曲家が同じなので「ユーガット・メール」そっくりで、映像つくりもいつもと一緒。
ニコール・キッドマンはいささかキツイ系の美人で、サマンサのイメージとはかなりかけ離れていたのにも違和感がある。
ウィル・フェレルは日本ではあまり馴染のない喜劇役者で、演技が今一つ日本人の琴線に触れてこない。
SNL出身のコメディアンは初期のベルーシやチェイス、エイクロイドたちは日本でも受け入れられたが、最近の傾向としてマイヤーズでさえオースティン・パワーズ以外の映画は日本では鳴かず飛ばずの状態なのだ。
エフロン監督も「奥様は魔女」をいつもと同じ雰囲気の映画に仕上げるのであれば、なぜ「いつもの」メグ・ライアンとトム・ハンクスを起用しなかったのか。やはり出演料で実現せずか?

ともかくテレビシリーズの映画化作品は「アンタッチャブル」と「スパイダーマン」以外面白いものに出会ったことがない。
「じゃじゃ馬億万長者」に「フリントストーン」
コメディほど悲惨な結果が待っている。
「奥様は魔女」はそれほどではないが、ま、ノーラ・エフロンも遊びで監督したのかもしれない、と思ったら納得できないこともない。

~「奥様は魔女 (原題:Bewitched)」2005年コロンビア映画提供 Sony Pictures Entertainments配給~